テスト

————————-5ホータン(ウイグル南部)

ホータン

 玉ぎょくと絨毯が有名  絹の作り方もも昔から変わらない 古代ホータンの地名は于闐(ウテン、üdün)だった

長さ1キロの地下街を建設 砂が入ってこない利点がある 様々なものが売っているが酒だけは売っていない

5~6世紀のガラスの器 ペルシャ風
  

ホータンは10世紀に イスラム化された

紀元前3世紀 ホータン地方で活躍していたモンゴル系遊牧民の月氏は玉の民とも言われていた

ホータンから長安(西安)などへ膨大な玉を売り その お金で漢(中国)の絹を買っていた

やがてシルクロードと言う道が整備され漢(中国)の絹は遠くローマ(ヨーロッパ)にまで運ばれた

ホータン
ホータン

月氏

月氏(遊牧民)は漢(中国)では玉の民だが ローマ(ヨーロッパ)では絹の民と呼ばれた

紀元前2世紀 月氏は同じモンゴル系の遊牧民 匈奴(きょうど)に敗れ 月氏の王は匈奴によって殺されてしまう

そのとき匈奴は月氏の王の頭蓋骨を使い酒を酌み交わしたと言われている

匈奴は当時 最強の軍隊で紀元前3世紀には秦の始皇帝も匈奴の脅威に備えて兵馬俑を作ったとされている

匈奴に敗れた月氏は その後 今のアフガニスタンに逃れ大月氏国を立ち上げる

ホータン王国

1世紀 中国は長安(西安)を首都とする漢の時代 西域南路(ウイグル南部)にはホータン王国があった

人口 19300年 3300軒の民家 兵士2400人 

7世紀 唐の時代 仏典を求めインドへ渡った三蔵法師は途中 ホータンへ立ち寄る

絹と絨毯はホータンの産物で三蔵も絶賛していた

大東西域と言う書物には 当時 100以上の寺院があり 僧侶の人数は5000以上と会った

皆 大乗仏教の教えを学んでいると書かれていた

10世紀にこの地にイスラム教が入ってくるまでホータンは仏教国だった

ホータンの玉ぎょく

紀元前20世紀(4000年前)の殷の王朝も玉ぎょくを好んだ 古くからホータンの玉は金や銀よりも珍重されてきた

中国では玉を使い印鑑などの工芸品が作られる 

明や清(400から100年前)の時代になると玉の加工技術も飛躍的に進歩し細かい細工が可能となった

近年は玉ぎょくの価格が以前の100倍に高騰した うまくいけば玉をたくさん取って農業の2倍の収入を得る事が出来る

 800万元(1億円以上)の玉もある 20年かけて見つけた

玉ぎょく 4000年前(紀元前20世紀)の殷の王朝も玉ぎょくを好んだ  古代ウイグル
玉ぎょく2
ガラスの器
紀元前5世紀 玉の装飾品
紀元前2500年 玉制のオノ
紀元前2000~1000年ごろに作られた玉製マスク

質のいい玉は高い値段で取引されるため 川での玉拾いはホータン人の大事な副業となっている

玉ぎょくにすっぽり覆われた遺体 ホータンの人は崖の石窟は造らなかった 砂の中に壁画がいくつか残っている

ホータン川

 毎年春と夏の3か月間だけ出現する川 5月の砂嵐は崑崙山脈の雪解け水がホータンの町に近づいている知らせ 6月 連日40度を超える猛暑が続く

すると一気にコンロン山の雪解けが進む 川の出現は毎年突然で住民でさえ予測できない。川幅は10分で100メートル増水 突然現れた川に飲み込まれそうになる馬車も

7月 村の堤防が崩壊 道路が増水で一日使えなくなると住民に罰金が課せられるため住民は枯草や木などを使って必死になって水の流れを止める

川の水は無人の砂漠地帯を駆け抜けていく ホータン川がタリム川に合流するまでの距離は500キロ 村の水路にも水がやって来る子供たちは大喜びで水浴びをする 

毎年 農作物の出来はホータン川の水にかかっている 川を渡り結婚した人は一生水に困らないとされている 

 高低差は150メートル 魚も一緒に流れてくるどこから来たのかは不明 水は1分で3メートル進む 

またその時 ホータンの特産品でもある玉も川の水と一緒に流れてくる

ホータン川
ホータン川
ホータン川2

ホータン大橋

(長寿の村)ケリア県
 

100歳以上が200人 127歳の老人 

管花地精(砂漠の人参)

 老化防止と記憶力強化の効果 関節の痛みに効く

熱瓦克ラワク遺跡(郊外)

ホータン王国の遺跡 11世紀に滅ぼされた仏教寺院跡 イスラムに破壊された  

ホータンの仏教はイスラム勢力に敗れ伽藍や寺は砂に埋もれた  かつての仏教寺院も今ではイスラム教徒の祈りの場として使用されている

熱瓦克ラワク遺跡

壁際には91体の仏像 さらにスタインはここで漢のコインを発見した

イギリス人 オーレルスタイン

今もホータンに残る絹伝説

ホータンは昔から絹や織物で有名なところだが そのもっと昔は桑の木もなければ蚕(かいこ)もいなかった

ホータンよりもっと東の国(今の北京や上海)では絹や織物で栄えていたが蚕の国外への持ち出しは禁止されていた

6世紀の ある日 東の国の王妃がホータンへ嫁ぐことになった その時 桑の種と眉を髪の毛に隠しホータンへ持ち込んだ

それが きっかけとなりホータンで養蚕が盛んになった その時の蚕を祀ったとされる遺跡がホータンの町のはずれにある

また その伝説はスタインがダンダンウィルク遺跡で発見した板絵にも描かれていた

その絵の中にいる さかずきを持ったイラン風の奇妙な人が絹の守り神だとされている

今もホータンに残る絹伝説

ダンダンウィルクの板絵

ダンダンウィルクの板絵
ダンダンウィルクで見つかった板絵

絹の守護神

紀元6世紀 絹の守護神

板絵のシヴァ神

さらにその板絵の裏にはヒンドゥーの神シヴァの姿も描かれていた

板絵のシヴァ神
ホータンの遺跡 放置された頭蓋骨

ダンダン・ウィリク

ダンダン・ウィリク(象牙の家の意味 (Dandan Oilik、丹丹烏里克 ホータンから東北へ、 直線距離でもおよそ90キロ) 

8世紀ごろ繁栄した都市の遺跡 絹製品を多く作っていた 

ダンダン・ウィリク 8世紀 ホータン王国
ダンダン・ウィリク

東洋のモナ・リザ(仏教壁画)

ダンダン・ウィリクでは東洋のモナ・リザ(仏教壁画)も発見された 砂にいくつもの木の柱が付き出ている 

千数百年前の木材 7世紀 唐の時代の銅銭(5円玉のような形) 盗掘の跡もある

探検家スタインは100年前 14の寺院を発見した 誰も見つけられなかった幻の遺跡 

東洋のモナ・リザ

絨毯工場見学

 一日2~3センチほどしかおれない 

最高級品は完成までに半年から1年かかる ペルシャじゅうたんのよう 

毛の短いウイグルの羊毛を使用  2600年の歴史 購入後 配送手続きをしてくれる

絨毯工場見学
絨毯工場見学2
絨毯 紀元前6世紀から続く伝統 古代ウイグル
絨毯2

毛沢東とウイグルの英雄コルバンが握手
 

コルバン(謎の人物)

(一般人が参加できる砂漠横断ツアー)

駱駝に乗って移動 旅費は全部で130万円

(大河浴村 詳しい場所は不明)

人口1000人のウイグル人の村 水を求めて引っ越し 小学生は小学校まで10~20キロの距離を通学する 

学校の近くに大きな砂丘があり年々近づいているので学校が砂に埋もれないかと心配している

(ホータン博物館)

(ホータン バザール)

ホータン バザール

(マリカワト古城)

マリカワト故城

(ユルンカシュ河 ぎょく探し)

ユルンカシュ河

アヒルと鶏の炭焼き卵は名物(殻のまま焼いたもの)

シシカバブ 窯で焼いたパンをお茶に浸して飲む

シシカバブ

ホータン絨毯有限責任公司

ホータン絨毯有限責任公司

ヨートカン遺址

ヨートカン遺址

喀賛基民俗旅遊区

漢家公主記念館

イリ林則徐記念館

<目次>
1ウイグルの基本情報と歴史
2ウルムチ(ウイグル東北部)
3トルファン(ウイグル東北部)
4クチャ キジル石窟(ウイグル北西部)
5ホータン(ウイグル南部)
6カシュガルとタシュクルガン(ウイグル西北部)
7イーニンとカナス湖と ナラティ草原(北部と北西部)
8アルマイ ニヤ カラマイ(北部と南部)
9ローランとミーラン遺跡(ウイグル東南部)