テスト


氷河期 縄文時代以前の日本列島

紀元前980世紀

約10万年前 我々人類に非常に近い生物 デニソワ人(ロシア シベリア発祥)が日本列島に生息していた

デニソワ人

紀元前380世紀

約4万~3万5千年前 縄文人の祖先となる人々が日本列島で住み始める そのころ使われていたナイフ形石器はロシア シベリアでも見つかっている

同じころ日本列島では砂と石を混ぜ作られた磨製石器が使われていた

磨製石器

紀元前350世紀

3万7000年前 当時まだ陸続きだったユーラシア大陸から人類が初めて日本列島に到達する。

紀元前300世紀

約3万2000年前の子供の人骨が見つかる 沖縄県那覇市山下町第一洞穴遺跡で発見された 国内最古の人骨とされている

日本最古の人骨と復元された顔

紀元前220世紀

約2万4千年前 大分県の岩戸遺跡からは新石器時代のこけし型の岩偶が発見されている

新石器時代のこけし型の岩偶

紀元前160世紀

約1万8千年前の港川人(人類)の骨が沖縄県島尻郡具志頭村の港川採石場で発見される 港川人は本土の縄文人よりも5000年古く縄文人とは違った種類の人種である  

港川人

紀元前110世紀

数万年前 人類が初めて北海道の地に到達する

ロシア シベリアから当時 陸続きとなっていた北海道へマンモスやオオツノシカを追ってやって来た人たちだった

約1万3千年前~1万2千年前 氷河が後退し温暖になると本州からも北海道へ人が移り住んだ

マンモス


紀元前100世紀(1万年以上前) 

氷河期が終わり縄文時代が始まる 

紀元前100世紀

約1万2千年前 日本列島の海面水位は今よりも100メートル以上低かった

そこへ氷河期が終わり急激な温暖化に伴い海面が上昇すると それまで大陸とつながっていた日本列島は今のように大陸と切り離された。

それを切っ掛けに日本列島では日本独自の文化を持つ縄文時代に入っていく

日本列島では その後も 戦争のない平和な時代が9000年以上続く

縄文人
縄文人

縄文の呼び名の由来は19世紀のアメリカ人の学者が東京都の大森貝塚から出土した土器を見て『縄(コード)で模様をつけた』つまり縄文と言う呼び名をつけた

なお沖縄には縄文文化は伝わらなかった 沖縄では縄文土器の代わりに台湾と同じ系統の土器が見つかっている

縄文土器
縄文土器

約1万年前~1万5千年前の縄文遺跡から調理をした痕跡が分かる遺跡が発見された 

約1万2千年前の人骨が沖縄県南城市サキタリ洞遺跡で発見された 

サキタリ洞遺跡

約1万1千年前 それまで遊牧生活を送っていた縄文人が定住生活をし始める

また縄文人は漁や狩りだけでなく主にひょうたんやゴボウなどの農業も行っていた

約1万年前 マンモスやトナカイ ナウマンゾウやオオツノジカが日本列島から姿を消す 縄文人が乱獲した結果 滅びたという説もある

日本最大の貝塚 加曽利貝塚(縄文時代)


縄文人の遺伝子を現在に受け継ぐ人々

縄文人は中国中央北部のあたりから中国東北部を経由し朝鮮半島から九州に渡ったとされている

遺伝子的にはアイヌ人(北海道)が最も強く80%縄文人の血を受け継いでいる 続いて沖縄 奄美大島(鹿児島)は50% 

※ただアイヌ人がにシベリア(ロシア)から北海道に初めて到達したのは10世紀入ったころで また沖縄には縄文文化は発生しなかった。

従って北海道のアイヌ人や沖縄(原住民)が いつどこで どのように縄文人の血を受け継いだのかは不明

アイヌ人
アイヌ武者の鎧を展示2
沖縄 琉球民族

また日本列島から遠く離れたチベット人の遺伝子にも縄文人の血が50%含まれている

※氷河期時代 縄文人とチベット人が 中国大陸で何らかの接点があった可能性もある 

チベット人

一般的な日本人(和人)は30%ほど 縄文人の遺伝子を受け継いでいる
(個人差はあるが 最新の研究では14%から20%くらい だと言う説もある) 

※一般的な日本人は このあと登場する弥生人の血を多く受けついている。

さらに氷河期時代(縄文時代以前)にも中国大陸から日本列島に渡って来た人々がおり その遺伝子が現代日本人にも組み込まれている


紀元前53世紀 鬼界カルデラ(九州)が大噴火

紀元前53世紀

7300年前(紀元前53世紀)九州 鬼界カルデラが大噴火を起こし九州南部の縄文人が絶滅したと推測されている

また この噴火により日本列島各地で大飢饉が発生し多くの餓死者を出した

鬼界カルデラの場所
鬼界カルデラ 地図
鬼界カルデラ

紀元前50世紀  約7000年前
 

紀元前5000年前には縄文人による翡翠の加工品が造られていた

縄文人による翡翠

同時期日本列島から縄文人が 当時 無人だった朝鮮半島へ上陸する 縄文人は半島の北部まで進出したとされている

紀元前40世紀 約6000年前

煙台島貝塚(現韓国)から日本の縄文人の特徴を持つ約6000年前の人骨が見つかった

紀元前20世紀

約4千年前~3千年前 イギリスの物よりかは規模は小さいが日本の東北地方に縄文人が造ったストーンサークルが残っている またこの頃の巨大木柱遺跡も見つかっている

縄文人が造ったストーンサークル

紀元前30年

約5000年前~4000年前 縄文人の主食がドングリからより食べやすい栗へと変わる また縄文人はドングリや栗を栽培していた

抜歯の習慣が始まる

縄文人の主食 ドングリや栗の加工

紀元前25世紀
 

三内丸山遺跡(日本 青森県)

三内丸山遺跡

紀元前15世紀

約3500年前の縄文時代後期には米や稲などの稲作が行われていた

米はインドが原産と言われ それが中国の揚子江(長江)河口で作られ始め 

その後 日本の北九州で作られ始め やがて米造りの技術は日本の東の方へと伝わっていった


紀元前10世紀 日本列島に弥生文化が到来する

紀元前10世紀

紀元前10世紀 九州に弥生文化を持った弥生人が日本列島に上陸する 2003年 最新の放射性炭素年代測定により その年代が明らかとなった

東京の弥生町で この時代の遺跡が発掘されたため弥生時代と呼ばれるようになった 

弥生町の地図

弥生人は中国 山西省 山西半島から朝鮮半島を経て海を渡って日本列島にやって来たとされている

ちょうどその頃(紀元前10世紀) 中国大陸では殷王朝から周王朝へに移行時期にあたり国内の混乱を逃れてやって来た難民が弥生人だと言う説もある

近年の研究では弥生人には中国の長江流域や江南地方(上海郊外)の人々と よく似たい遺伝子を持っていたことが分かってきた

入植当初は縄文人よりも数が少なかった弥生人だが やがて その数は逆転した さらに両人種の交配も進んだ 

現在の日本人は遺伝子的に見て7対3の割で弥生系の血を多く受け継いでいる 

弥生人は縄文人よりも背が高く歯のサイズも大きく のっぺりした顔つきが特徴

弥生人
弥生人2

縄文人の骨格が一定しているのに対し弥生人は多種多様で様々な要素を持っている

現在の日本人にはモンゴロイド系(黄色人種)の遺伝子が約40%含まれている

縄文時代から弥生時代への移行は長い年月をかけ徐々に変化していった 

弥生時代に入ると 人々は布の服を着るようになる

弥生時代
弥生時代
弥生土器


生活が豊かになり人口が増えた

一方で農機具が武器に代わり戦争が行われた 

また弥生時代に入ると土木工事の技術が向上し 森を切り開いたり水路が造られたりし稲作が本格化する 

弥生式の米の栽培で生活が安定し人口は倍増した およそ人口 30万から60万へ しかし この時代 農機具が武器へと変わり農地をめぐる戦争も始まる 

それ以前の遺跡からは戦死した人の骨など戦争に関する遺跡が出土していない つまり この時 日本列島において初めて戦争が行われた。

敵の首を切り取り勝利の証に頭を持ち帰る習慣も弥生時代から始まった。棺に頭部のない遺体が多く埋葬されている

この時代の遺跡には女性や幼児を含め一か所に100体以上の人骨が見つかっている 恐らく そこで虐殺が行われたと考えられている

弥生時代の農機具
弥生時代から使われ始めた武器

紀元前8世紀

紀元前8世紀 弥生人が初めて日本に到達してから約250年後 九州から始まった弥生文化は高知平野にまで広がる

高知平野の地図
高知平野

紀元前7世紀

紀元前7世紀 弥生文化が四国地方(鳥取 島根 広島等)にまで浸透する その後 大阪 関西にまで弥生文化が広まる

紀元前6世紀

紀元前6世紀 弥生文化は濃尾平野(岐阜県) 伊勢湾(三重県)などの東海地方にまで浸透するが しかし そこで一旦 弥生文化の広まりは止まってしまう

紀元前500年(2520年前) 日本の吉野ヶ里遺跡(佐賀) は縄文から弥生時代にかけての遺跡

吉野ヶ里遺跡
吉野ヶ里遺跡 

紀元前3世紀

紀元前3世紀 九州で始まった弥生文化は700年かけ やっと関東地方に到達した その後 約100年かけ 弥生文化は関東地方全体に普及していく

ただ弥生文化は西日本では大発展を遂げたが東日本にはそれほど普及しなかった 

さらに北海道や樺太では水田は造られず それらの地域に弥生人が住むことはなく弥生時代は訪れなかった そのため それらの地方では続縄文時代が続いた 

縄文文化や続縄文時代においても稲作は行われていたが 弥生文化と違って それによって人口増加や急激な発展は見られなかった それが縄文文化と弥生文化の大きな違いである

縄文時代にすでに行われていた稲作
北海道 続縄文時代の土器


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