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16世紀初頭 戦国時代 中国地方 

大内 毛利 陶晴賢(すえはるかた)の戦い 

16世紀 滋賀県 甲賀 忍者屋敷 室町(戦国)時代

甲賀 忍者屋敷

1504年 長野県 松本城  室町(戦国)時代 日本

松本城

戦国時代 すっかり表舞台から姿を消した 京都の足利家(室町幕府)は10代目 義稙(よしたね)が将軍を務めていた 

そのころ九州(福岡のみ)中国地方(山口県と広島、島根)など7つの地域を統治していたのは大内義興(よしおき)だった

大内もまたほかの統治者同様 反乱の兆しがあり 領土の統治が危うい状態であった

大内は反逆者撲滅のため毛利元就(もとなり)に武田元繁(もとしげ)を打ち落とすように命じた 毛利は武田を打ち落とした後 郡山城(奈良県)の城主となった

毛利元就
郡山城

そのころ山口県の周防(すおう)は大内の重臣(じゅうしん=重役)陶晴賢(すえはるかた)が統治していた しかし彼もまた大内への反乱をたくらんでいた

大内義隆  陶晴賢

当時 大内は明との貿易により室町幕府より強い力を持っていた  

1521年 今の山梨県で武田信玄が生まれる

1527年 島根県 石見銀山で銀の採掘を開始する

石見銀山

1529年 大内義興(よしおき)が亡くなる その後 領地の統治は息子の義隆(よしたか)が受け継いだ しかしその息子は統治能力のないダメ息子であった

そこで陶晴賢(すえはるかた)が大内を打つため毛利元就(もとなり)に協力要請を出した しかし毛利はその時 要請を保留にした

1530年 今の新潟県で上杉謙信が生まれる そのころ のちに戦国時代を動かす戦国武将が次々と産声を上げていた。

上杉謙信

1534年 今の愛知県名古屋市で織田信長が生まれる

1536年 今の愛知県名古屋市で豊臣秀吉が生まれる

1542年 今の愛知県 岡崎市で徳川家康が生まれる

1550年 日本と明の商人 南蛮人(ポルトガル スペイン)との間で南蛮貿易が始まる 

長崎港の南蛮貿易

1551年 中国地方では ついに反乱が怒り 大内は陶晴賢(すえはるかた)に打ち砕かれる それでもまだ毛利は陶晴賢(すえはるかた)側につく事はなかった 

1555年 毛利は陶晴賢(すえはるかた)と戦う決意する そこで毛利は陸では陶晴賢(すえはるかた)に勝ち目はないと考え海へ誘い出す作戦に出た 

毛利は陶晴賢(すえはるかた)との戦いに備え 瀬戸内海の厳島(広島県)に城を築いた 

瀬戸内海の厳島

そして ついに毛利と陶晴賢(すえはるかた)の決戦の日がやって来た 陶晴賢(すえはるかた)は2万の兵を引き連れ厳島へ上陸 

その後 毛利軍は二手に分かれた陶晴賢(すえはるかた)の後方から攻撃を仕掛けた この戦いで毛利軍の作戦勝ちとなり陶晴賢(すえはるかた)は自害した

毛利は山口県 広島県 岡山県の領土を手にする

1563年 毛利は石見の銀山(島根)を手に入れた

      
 
          

石見銀山

   

1566年 毛利はさらに鳥取県まで攻め落とし 中国地方のすべてを統治する 毛利の統治は産業にも力を入れ大発展遂げる


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16世紀初頭 ポルトガルから

フランシスコザビエルが来日

1543年 鹿児島県 種が島にポルトガルの船が流れてくる そこで日本人は生まれて初めて長い筒に線香花火を取り付けたような旧式の鉄砲を目にし腰を抜かす

16世紀 ポルトガルの船
16世紀の鉄砲

ポルトガル人はそれら旧式の鉄砲2丁を5000両(現在の価格で1億円)で売ってきた

もともと日本人は刀を作る技術に優れていてその鉄づくりの技術を応用し たくさんの鉄砲が作られた

当時の鉄砲造は まず細長い鉄の筒を作り 後は木型職人に鉄砲の取っ手部分を作ってもらい

木の部分と鉄の部分を組み合わせたのち引き金を取り付ければ完成 鉄砲の弾は鉛を使用した

1511年 マレーシアのマラッカでザビエル率いるポルトガル人がマラッカ王国を占領 人々もイスラム教からキリスト教へと改宗した

またマラッカにはザビエルと やじろう(日本人の補佐役)が一緒に並んで立つ銅像が建てられた教会もある。

1549年 ポルトガル船に乗ったフランシスコザビエルがキリスト教布教のため日本を訪れる 

ちょうどそのことヨーロッパではプロテスタント(宗教改革者=別の考えを持った新しいキリスト教徒)が力をつけていた

そんなころスペインやポルトガルの大航海時代が始まった 

そこでザビエル率いるカトリック(昔からのキリスト教徒)がプロテスタント(新しいキリスト教徒)に対抗するため海外で布教活動を始めた

その時 ザビエルの補佐役を務めたのが弥次郎(やじろう)であった 弥次郎(やじろう)は まず薩摩(鹿児島県)の殿様にキリスト教布教の許可を もらうザビエルに進める

ザビエルが日本へ上陸すると人々はその目の青さにびっくりする

 

フランシスコザビエル

     

     

ザビエルと日本人やじろうの像

ザビエルは まず薩摩の殿様 島津隆久(しまずたかひさ)にヨーロッパから持ってきた様々なお土産を手渡した 

島津隆久

薩摩はポルトガル貿易を条件に あっさりとキリスト教の布教活動を認めた 

布教の際 ザビエルが持ち合わせていた ちょっとした風邪薬も布教活動に大いに役立った 

西洋医学の力は すごく人々(日本人)は病気が あっという間に治ったのはイエスキリスト様のおかげだと喜んだ

ザビエルは鹿児島で1年ほど布教活動を行った しかし ザビエルの布教活動は僧侶たちの反対にあい思うようにはいかなかった

さらに追い打ちをかけるようにポルトガルの貿易船が薩摩(鹿児島)ではなく平戸(長崎)へ上陸した。それに怒った薩摩の殿様は即刻 ザビエルを追放した。  

その後 ザビエルは京都へと向かった。しかし京都は応仁の乱から もうすでに80年がたっているというのに すっかり焼け野原状態となっていた。

この時代は京都より中国地方の方がずっと栄えていた。ザビエルはガッカリしたまま中国地方へと戻った

そして山口県で大名の大内義隆(2代目のダメ息子)を訪ねた そこでもポルトガル貿易を条件にキリスト教布教の許しを得た

大内義隆  陶晴賢

ザビエルは仏教の寺を借り そこで半年間ほどキリスト教の布教活動をし500人ほどの信者を集めた

さらにザビエルは大名の大友義重(よししげ)に呼ばれ豊後(ぶんご=大分県)を訪れた

大友義重(大友宗麟)

義重(よししげ)はザビエルにキリスト教布教を許し その代わりにポルトガル貿易をおこなった 大友義重(よししげ)はのちに大友宗麟(そうりん)と名前を変える

1551年 ザビエルは日本を離れインドへ行き明国(中国)で亡くなった

ザビエルの後も次々と宣教師が訪れ30年間の間に九州で12万 近畿地方で2万5千の人がキリスト教へ改宗した
  
1554年 大飢饉が日本を襲った時 多くの宣教師たちは飢えた人々の救助に力を尽くしたと伝えられている そうしたことから次第にキリスト教信者が増えていった

1582年 日本人のキリスト教徒4人がローマへまぬかれる

1585年 日本人キリスタンはローマ法王へ謁見し(会い)イタリア各地で絶賛された 日本人キリスタンは8年半に及ぶ長い旅のあいだ多くの白人に日本の文化を伝えた

日本人キリスタン

16世紀 琉球貿易の船から 日本へ初めて鰹節が伝わった 


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16世紀初頭  武田信玄VS上杉謙信 

川中島の決戦! 第1ラウンド

1534年 今の山梨県で武田信玄が生まれてから約10年後 ちょうど新潟で上杉謙信が生まれ 四国地方では毛利と大内が争っているころ

 今の愛知県名古屋市で織田信長(吉法師)が生まれる

信長の父は愛知県の一部の地域を統治するだけの小さな勢力であった 信長はその家の3男として生まれた

信長(吉法師)は10歳で生きた蛇を素手でつかみ人に投げつけるなど 大人をも いじめる 悪ガキに育った

1540年ごろ ①新潟では上杉謙信(うえすぎけんしん)の父が越後(新潟)を統治していた

②三河から駿河(愛知と静岡)にかけては今川義元(よしもと)が統治

今川義元

③甲斐(山梨県)は武田信玄 ④また東京から千葉へかけて北条氏康(うじやす)が統治

この時代①上杉②今川③武田④北条の4人が勢力争いをしていた

甲斐(山梨県) 武田晴信(信玄)の父 武田信虎(のぶとら)は今川(駿河)へ嫁いだ嫁に会うために今川が統治する駿河(静岡県)へ行く 

武田信虎

かねてから父のやり方に反対していた信玄は甲斐(山梨)の関所(国境=検問所)を封鎖し父親を甲斐に入れないようにした。

父を追放した晴信(信玄)は家臣に与える領地を広げるため 当時 長野県を統治していた諏訪頼重(すわよりしげ)を攻めた

降伏してきた諏訪(すわ)に晴信(信玄)は切腹を命じた 諏訪は晴信(信玄)と親戚関係にあった それでも晴信(信玄)は諏訪に切腹を命じた

この時代まだ新潟県や山梨県(越後や甲斐)は米が育たず貧しい土地であった そのため武力を持った農民も多く しかも強かった

晴信(信玄)は父と違い いずれ天下を取るなら民衆の協力が不可欠 そんため信玄は農民の暮らしを最優先に考えた

また晴信(信玄)は釜無川(富士川)の反乱を防ぐため信玄堤と言う堤防も作った 堤防は長い間 甲斐(山梨)の国を水害から守った

釜無川(富士川)
信玄堤

さらに晴信(信玄)は金山の開発にも力を入れ経済的にも力をつけていった

晴信(信玄)は長野の信濃や小笠原長時(おがさわらながとき)を攻め落とし着々と領地を広めていった

また越後(新潟県)でも長尾景虎(上杉謙信)着々と力をつけていた 景虎(謙信)は幼いころ僧侶になる修行をしていた

父の死後 景虎(謙信)の兄が後を継ぎ8代目の城主となった しかし兄は病弱であった そこで景虎(謙信)が兄の代わりに後を継ぐことになった

そのころ景虎(謙信)は付近の豪族を倒し名声を挙げていた 景虎(謙信)もまた武田と同じく天下統一(天下=北海道と沖縄を除く日本)を目指していた

そこで竹虎(上杉)はまず越中(富山県)を攻め落とした やがて景虎は北陸一の武将としておそれられるようになっていった


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16世紀中頃 岐阜の武将 斎藤道三と

愛知尾張の織田信長 

スペイン船 小笠原諸島に上陸!

16世紀中頃 スペイン人の船乗りが東京都小笠原諸島を発見する

それから120年後 航路を見失った日本人漂流者が初めて小笠原諸島に到達する

その後 小笠原と言う嘘つきの人物が現れ 小笠原諸島を最初に発見したのは小笠原本人だと主張した。

その嘘が認められ小笠原諸島は小笠原の所有物となり島の名前も小笠原諸島と名づけられた。

その後 小笠原の でっちあげ話がバレ小笠原は詐欺罪で捕まるが 小笠原諸島の地名だけは今に至るまで約280年間使い続けられることになった。

 

小笠原諸島を最初に発見したスペインの船

1552年 同じころ愛知県織田信長では信長のもとへ父が亡くなった知らせが届く 葬式の際 信長は遅刻し 焼香の粉をぶちまけ帰っていった

平手正秀(まさひで)は信長と信長の父を支えてきた城主 その正秀(まさひで)は葬式の後 ショックのあまり自殺する 

親族は誰もが 信長の弟 織田信行(のぶゆき)を後継ぎにしたいと願っていたが しかし後を継いだのはやはり 信長だった

稲葉山城(今の岐阜城)の城主 斎藤道三は油売りから武将に成り上がった通称マムシと言われた人物 

稲葉山城 (岐阜城 金華山)
岐阜城
斎藤義龍 または斎藤道三

そんな道三は自らの娘を当時 うつけ(相手を侮辱する言葉)と呼ばれた織田信長に嫁がせている

そんな ある日 道三は那古野城(名古屋城)にいる信長に会いたいと手紙を出した 

それを父の罠だと考えた濃姫(道三の娘で信長の妻)は信長を父のもとへ行かせるのを拒んだ それでも信長は道三のところへ行った
 
2人は名古屋にある正徳寺(聖徳寺)で会うこととなった そこで2人は意気投合する

正徳寺(聖徳寺)

もともと尾張の国のいち領主(小さな支配者)に過ぎなかった織田信長は国内の反対勢力を次々を統治破っていった

そのころ信長より2つ年下の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は清州城(愛知県)で信長の家来として働いていた。(主に信長のぞうりを温める仕事) 

豊臣秀吉
清州城(愛知県) 

信長は今までの武将と違い身分の低い人でも才能が有れば次々と戦力として抜擢した 秀吉もその一人であった

1556年 新たに稲葉山(岐阜)の城主となった斎藤義龍(よしたつ)は自分の父だと思っていた斎藤道三が実は実の父の仇(かたき)の人物と知り 

義龍(よしたつ)は道三を討つ機会を狙っていた それを知った信長は道三を助けるために すぐに馬を出したが 間に合わず 斎藤道三は戦死してしまう

斎藤義龍 または斎藤道三


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16世紀中頃  武田信玄VS上杉謙信 

川中島の決戦! 第2ラウンド

1553年 晴信(信玄)は長野県の武将 村上義清を攻め土地を奪っていった 信玄に負けた村上は新潟の景虎(上杉謙信)のもとへ行き助けを求めた

同年の夏 川中島(長野県 信濃)において ついに武田と上杉(景虎(上杉謙信)VS晴信(武田信玄)の決戦が行われることとなった 川中島の決戦の火花が散った

武田信玄
川中島の決戦

1559年 武田晴信は出家し武田信玄と名を改めた

1560年 奈良の大仏 2回目の焼失 大仏は その後すぐに再建される


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