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15世紀初頭 室町幕府(義満)は明の属国になることで

明と国交が結ばれ経済的に豊かになる

14世紀末 沖縄に首里城が築かれる

首里城

当時の日本にとって沖縄以外のもう一つの外国 北海道では

15世紀 北海道に住んでいたアイヌ人はロシア カムチャスカ半島まで活動範囲を広げる 

一方 日本本土では1401年 義満は明へ使者を送り明の2代皇帝 建文帝に親書を送った 経済を重視していた義満は明(中国)の属国となった

建文帝

明は室町幕府(日本)に国交を開く条件として海賊を取り締まるよう要求してきた

義満は さっそく 倭寇(わこう)と言う 当時 日本と朝鮮半島に出没していた海賊を取り締まった

倭寇は九州の貧しい農民が中心となってできた組織で 彼らは生活の場を海に求め やがて海賊となった

倭寇

義満は明と国交を結び 明との間で貿易を始めた そして義満は貿易で大儲けした。日本では そのころ明のお金が多く流通した

明のお金

さらに義満は皇族との関係強化を図った このころ日本に北山文化が開花した

義満は後小松天皇を北山山荘に招き壮大な宴会を開いた 足利家は武家(武士)から公家(貴族)化し やがて天皇の真似をするようになった

後小松天皇

1404年 李氏朝鮮は日本の室町幕府と国交を結ぶ また李氏朝鮮は明(中国王朝)とも友好関係を築く

1408年 4代目に足利義持(義満の次男)が選ばれる そのわずか10日後 義満は51歳で流行りの病にかかり亡くなる

義満の死後室町幕府は急速に力を失っていく

足利義持

1419年 李氏朝鮮は倭寇(海賊)退治を理由に対馬に攻め込むが返り討ちに会う


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15世紀初頭  室町幕府 三代目義満以降 

相次ぐダメ将軍のため足利家の衰退

光義の後を継いだ<4代目将軍>足利義持(よしもち)<義満の息子>は義満(父)から授かった大乗法皇の称号を断る

なぜなら 義持は<3代目将軍>満義(父)を嫌っていた

そのため父 義満が築いた北山山荘は義持の命令によって取り壊された ただ銀閣寺だけは残された

さらに義持は倭寇の海賊行為を取り締まらなかった さらに明の使者も追い返した 

1416年 鎌倉で上杉がしかけた内乱により足利持氏(もちうじ)が屋敷を追われ逃げ出す そして持氏は自害する

1418年 京都 銀閣寺にいた 義持(よしもち)の弟 足利義嗣(よしつぐ)もとらえられ義持の命令で処刑される※兄が弟を殺す

1420年 その年は全国的に日照りがが続きで作物が育たなかった 京都の五条河原は流れ込んだ難民であふれた 

義持(よしもち)は諸大名に命じて河原で炊き出しを行った

同年 足利義持(よしもち)は将軍として何の手柄も上げられず愚痴を言いながら43歳で亡くなった

1422年 座喜味城跡 琉球王国 沖縄  15世紀(1416年-1422年) 

座喜味城跡

1425年 5代目将軍 足利義量(よしかず)も即位してから たった1年ちょっとで命を落とした。19歳だった その後 4年ほど将軍不在の期間が続く

1429年 6代目将軍に 足利義教(よしのり) がつく

足利義教


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15世紀初頭  庶民の怒りが爆発し

市民革命や農民一揆が多発する

15世紀 本州では 当時 馬で荷物を運ぶ馬借が大勢いた しかし一つの国に200もの関所(検問所)があり 

彼らはその都度 通行税を払っていた。そのため馬借たちの不満はたまる一方だった

さらに寺の僧侶や酒屋や小売貸しは農民に金を貸し返せない農民がいると土地を取り上げていた。そのため年貢(税金)に借金と農民たちの生活は困窮していた 

そこで生活に困窮した多くの農民が結成し さらにそこに身分の低い侍も合流し 数万の人が寺などを襲う 大規模な農民一揆(暴動)が発生した

武力だけでは暴動を抑えきれないと考えた僧侶は徳政令(借金を帳消しにするという法律)を発令した これら一連の動きを 正長の土一揆という

6代目将軍 義教(よしのり)は一揆(暴動)を防げなかった僧侶に腹を立て再び独裁政権を続ける事になる

義教(よしのり)は 実の兄弟を皆殺しにし寺も焼いた そのため義教(よしのり)に対する抗議として自殺する僧侶が相次いだ

1441年 うつわの小さい足利義教(よしのり)は多くの人の恨みを買い 最後は有力大名 赤松満祐により殺害される

赤松満祐

このように足利家は3代目将軍 満義以降 どくでもない将軍ばかりであった 

赤松満祐は その後 兵庫県の木山城に立てこもる 山名と細川(2人は犬猿の仲)を大将とする幕府軍が討伐(とうばつ=反乱を鎮圧)した

木山城

赤松は自害し 赤松の領地は山名持豊一族の物となった さらに山名は細川の領地も狙っていった


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15世紀初頭  沖縄本島で琉球王国が誕生する 

東南アジアや明と貿易により栄える

1429年 沖縄本島では北山、中山、南山の3つの王朝を統一した琉球王国が誕生する※当時まだ本州(日本)から見て北海道と沖縄は外国であった※

また琉球は明だけでなく東南アジアのシャム(タイ) スマトラ(マレーシア) ジャワ(インドネシア)との貿易を行っていた

なお琉球の東南アジア貿易は室町幕府(中央政権)の東南アジア貿易よりの100年早かった

琉球には日本にはない中国やベトナムの文化を取り入れた陶器が作られた

琉球王国


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15世紀中頃 応仁の乱 戦国時代の始まり

一人の女の野心が引き起こした悲劇  

1443年 7代将軍は 足利義勝 わずか8か月で病死する その後 4年9か月間 将軍不在が続く そのあと 8歳の義政(よしまさ)が8代目将軍となる

足利義政

1455年 岡崎城 (愛知)

岡崎城

1457年 北海道アイヌ人と本州和人との間でコシャマインの戦いが行われた 

和人の鍛冶職人とアイヌ青年との間で起こた衝突が発端となって起きた紛争

結果は和人の勝利

コシャマインの戦い

同年 1457年 初代江戸城が築城される 江戸城は築城から約150年後の江戸時代に改築される

1459年から3年間にわたって 長雨と干ばつが交互に襲った 

都では飢えと疫病で約8万4千人が亡くなった それら大量の遺体を鴨川(京都)に捨てたため死体の悪臭が京の街にあふれた

鴨川(京都)

一方そのころ足利王朝は相変わらず堕落していた  8代目将軍 義政(よしまさ)23歳の時 義政は遊んでばかりで政治に全く興味がなかった

さらに義政は幕府の財政など全く考えていなかった 

ある日 義政(よしまさ)の命令で花の御所に大量の丸太が運ばれ大規模な御所の再建が行われた

義政は早々に引退を決意し後継ぎは弟の義視(8代目)に決めた もし仮に義政に男の子が生まれたとしても弟に将軍の座を譲ると約束した 

細川勝元を引き続き 幕府の後見役(後ろ盾=補助役)にすると決めた  その1年後 義政と義政の妻の日野富子の間に 待望の男の子が誕生する

細川勝元
日野富子

その時 富子は自分の息子を将来 必ず足利家の将軍にさせると決意する 

そこで富子は細川(8代目の補助役)と対立する山名宗全を味方につける 富子は山名の元へ行き 山名に自分の息子の後見役お願いする 

1467年 畠山家の後継者争いに細川と山名が協力する やがて後継者争いは戦闘にまで発展する 
 
山名は将軍 義政の命令をそむき戦闘に加わる 一方 細川は義政の命令を守り戦闘には加わらなかった

細川と山名の対立は やがて将軍家の後継ぎをを めぐる争いに発展する

細川と義視(将軍の弟)に畠山政長が加わる 一方 山名の方には畠山義就(よしなり)が加わる

1467年 応仁の乱が始まる 日本全土が内戦状態となる戦国時代も その年に始まった。

地方からも兵が駆け付け戦闘はますます激化していった 数か月後 京都中の寺や神社 屋敷や民家はすべて灰となった

また戦火を一層ひどくしたのは盗み強盗を働いた浮浪者や貧しい人たちからなる兵士だった

応仁の乱

1469年 犬山城 (愛知)

犬山城

1473年 戦いのさなか山名宗全は70歳で亡くなった その2か月後 細川勝元も40歳で亡くなる

地方でも反乱が飛び火し 京都へ集まった兵も救援のため地方へと帰っていった そこで やっと都での戦いは終わった

1474年 山名と細川(それぞれの息子=後継者)の間で話がまとまった 和平が結ばれた 一方 畠山家の高家者争いはまだ続いていた

将軍家の後継者争いは日野富子が執念が勝り わが子 足利義尚(よしひさ)を9代目将軍にすることに成功した

足利義尚

しかし京都は焼け野原となり三代将軍 足利義満が栄華を誇った花の御所(足利家宮殿)も死体の捨て場と盗賊のたまり場となっていた

1477年 11年間続いた応仁の乱は終わった 一人の女の野心の代償としては あまりにも大きすぎた  応仁の乱であった


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15世紀末  応仁の乱が終わっても

日本は戦国時代(内戦状態)が続く

応仁の乱 以降 8代目将軍 義政は花の御所を離れ室町御所で暮らしていた 日野富子は御所の修理代を稼ぐため為 都にある7つの関所で通行税を取ることにした

日野富子は高利貸し業(金貸し)も始めた 義政は新築の御所に今も残る東求堂を建てた  

東求堂 15世紀
東求堂のふすま

狩野 方伸(かのう まさのぶ)が東求堂のふすまの絵を手掛けた。狩野派は その後 江戸時代まで伝統の絵を描き続ける

またこの時代の建物や芸術作品を東山文化という 畳の部屋もこの時代から使われつようになった また一寸法師や浦島太郎はこのころ作られた童話

一方 国内は 応仁の乱が終わっても戦国時代(内戦状態)は終わっていなかった。

庶民派の浄土真宗 本願寺に古い貴族中心となった延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵が乱入する 

本願寺の僧侶 蓮如(れんにょ)は福井県へ逃げ そこで布教活動を行った 

本願寺
蓮如

そして畠山の戦いに不満を持つ地方の有力者(金持ち)と農民たちが武装化し国人という集団を結成する 

さらに その国人に36人の武士と幕府の細川が後ろ盾となっていた。

国人は畠山に撤退を要求した。畠山 義就(よしなり)も畠山政長も戦うことなく国人の要請を受け撤退していった。 それを山城国一揆という。

そのような一揆が日本各地で発生し 中には10~20万規模の一揆も発生した

もはや大名は幕府の言うことは聞かず 幕府に兵を出す力もなくなっていた。そんな中 義尚は 病にかかり倒れる

1489年 足利義尚(よしひさ)は亡くなる

翌年 息子の後を追うように1490年 義政(よしまさ)も亡くなる それ以降 室町幕府は急速に没落していく 

室町時代(応仁の乱のころ)福井、愛知、静岡(それぞれ半分)の領地は斯波(しば)氏が支配していた

しかし斯波(しば)氏は家来の朝倉に滅ぼされる そして斯波の持っていた領地は 朝倉、織田、甲斐の3つに分配統治される

福井県(半分)を朝倉 愛知県(半分)(尾張地方)を織田 静岡県(半分)を甲斐が統治する事となる

この時代 そのような家来が支配者を滅ぼす 下剋上(げこくじょう)が日本各地で相次いだ

1476年 今川義忠(静岡県 駿河の統治者)が亡くなり伊勢新九郎(北条早雲)が その後を継ぐ 

伊勢新九郎(北条早雲) 

新九郎は領土拡大のため 足利茶々丸が統治する伊豆(静岡県)の堀川を陸と海の両方向から攻め落とす 

茶々丸は自害し新九郎は静岡県の伊豆一帯を支配した さらに新九郎は伊豆に韮山城を築いた その後 新九郎は 自らの名前を早雲と改名した 

早雲(旧名 新九郎)は新時代の到来を予言し 地侍や農民に配慮した統治を行った

今川義忠

1495年 75歳となった早雲(新九郎)は さらなる領土拡大のため箱根山(神奈川県)に立てこもり 大森が統治する小田原城(神奈川県)を攻めた

箱根山
小田原城

その後 早雲(そううん)は小田原城に続き相模(さがみ)鎌倉(ともに神奈川県)も攻め落とし支配下に置いた 

1498年 日本の南海トラフ(西日本太平洋沿い)にマグニチュード8.6の明応(めいおう)地震が襲う

1519年 北条早雲は韮山城(にらやまじょう=静岡県伊豆)にて88歳で亡くなる

後を継いだ早雲の息子(北条氏綱=うじつねな)は さらに勢力をあげ武蔵(東京)を攻め落とし支配下に置いた

北条氏綱

その後 早雲の孫(北条氏康=うじやす)も早雲の意思を引き継ぎ 関東一帯をすべて支配した

北条氏康

さらに氏政(うじまさ)氏直(うじなお)と親子5代にわたって約100年間 北条家が関東一帯を支配し続けた また戦国時代は殺し合いだけでなく復興と建設も行われていた

16世紀の室町時代末期 沖縄 琉球貿易の船から鰹節が輸入される


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