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16世紀中頃 信長VS今川 桶狭間の戦い

1560年 駿河(静岡)を納めていた今川義元は武田北条と同盟を結んでいた さらに今川は天下統一(日本統治)を目指し2万5千の兵を引き連れ京(京都)へと向かった 

京(京都)へ行く途中 今川は織田信長と戦う事になる しかし信長の兵は そのとき5千人しかいなかった

織田信長の兵は清州城(愛知県)を出て途中 熱田神宮(名古屋市)で勝利祈願し善照寺の砦(名古屋市)へと向かった 世に言う桶狭間の戦いの始まりだった

桶狭間
桶狭間の戦い
善照寺の砦
熱田神宮

勝負は信長の奇襲攻撃によって始まった 不意を衝くその攻撃により 大半の予想を覆し信長の大勝利に終わった その戦いで今川は戦死する


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16世紀中頃  武田信玄VS上杉謙信 

川中島の決戦! 第3ラウンド

1560年 長尾景虎は関東へと出かけ上杉謙信と名を改める

1561年 上杉謙信は1万5千人の兵を引き連れ妻女山(長野県 長野市)へ立てこもった 

一方 武田信玄は2万の兵を引き連れ同じく長野市にある海津城(現 松代城)に立てこもった

海津城
松代城

川中島の決戦は お互い こう着状態へと入った そこで武田軍は2手に分かれ挟み撃ち作戦を取った

戦いは早朝に始まり その日の夕方 終わった 両軍の戦死者は6千人 戦いの勝敗は付かないまま 引き分けとなった


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16世紀中頃 信長と家康は同盟を結ぶ 

信長と秀吉の京都巡り

1562年 信長は三河(愛知県)の岡崎城で信長より8歳年下の松平元康(のちの徳川家康)と同盟を結び 武田家との戦いに備えた

信長と家康の結束は強く生涯 死ぬまで協力関係を保った

岡崎城
徳川家康

この同盟もそうだが信長は一見 暴力に満ちた人物だと思われがちだが 実際は交渉能力(話し合いによる和解)に優れた人物であった。

信長は家来の秀吉を引き連れ少人数で京都の視察に出かけることにした。

しかし京都は まだまだ復興が進まず すっかり廃墟となっていた。とりあえず信長は京都でありったけの鉄砲を買うことにした。


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16世紀中頃 織田信長 稲葉山城(岐阜城)での戦い

1561年 美濃(岐阜県)の斎藤義龍が病で亡くなる

義龍の死を機に信長は稲葉山城(岐阜県 岐阜城)の攻撃を始めたが なかなか攻め落とすことができなかった

信長は岐阜県の長良川と揖斐川(いびがわ)の間 墨俣(すのまた)城を築かせた

その時 信長から城造りを命じられた秀吉であった 秀吉は張りぼてではあったが短期間で見事な城を作り上げた

秀吉は信長から墨俣城の城主の地位を与えられる

墨俣城

その後 信長軍は墨俣城を本拠地において稲葉山城(岐阜城)に総攻撃を加えて攻め落とした そして信長は美濃(岐阜)の国を手に入れた

織田信長は美濃の斎藤竜興(たつおき)を滅ぼし手に入れた稲葉山城を岐阜城と改名した 岐阜とは天下の元という中国からの ことわざからきている


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16世紀中頃  信長 

室町幕府を味方につけ関西を統治する

信長の妻の いとこである明智光秀(あけちみつひで)が 信長に足利義昭(よしあき=ラストエンペラー)を美濃(みの)へ招待するように提案する

明智光秀
足利義昭

そこで信長は岐阜県の立政寺(りゅうしょうじ)に足利義昭を招いた そして信長は愛知と岐阜を明智と足利に任せ自分は京都へ行くことにした。

1563年 小牧城(愛知県) 

小牧城

1568年 信長は兵を引き連れ京都に入る 足利義昭は義秀の後を継いで足利15代将軍となった。 

京都 本圀寺(ほんこくじ)で信長は義昭(ラストエンペラー)に堺(大阪)大津(滋賀)草津(滋賀)の領地を要求する 

本圀寺

信長に心を許していた義昭をその要求を あっさりと認める 信長は その お礼として義昭のために京都の二条御所を改築した。

二条御所

信長はまず大阪の堺の改革から始める 堺(大阪)の町は鎌倉時代(12世紀)から商業都市として栄えてきた

信長が統治しだしたころ千利休も堺の発展を支えた大商人であった 信長は堺を統治するにあたって次々と経済政策を打ち出していった 

まず関所(検問所)の取り締まりをやめを商人の出入りを自由にした 

続いて 今までは寺や僧侶が仕切る商人(あきんど)の組合に入らなければ商売ができなかった そのため一部の者が商売を独占していた

そのやり方を改め場所代さえ払えば誰でも商売が始められるようにした それは楽市楽座と言う その政策により それまで寂れ切った城下町は一気に活気づいた

楽市楽座

南蛮寺(京都にある和風のキリスト教寺院)では威勢のいい鐘の音が鳴り響いていた

南蛮寺

信長は さらに西洋との貿易(南蛮貿易)を活発にし 海外から鉄砲を三千丁輸入した

信長は かねてから宗教には興味がなかった そのため政治にさえ口を出さなければ宗教活動を認めていた

とりわけ白人に対しては南蛮貿易(ヨーロッパとの貿易)で潤っていたため大歓迎であった そのため白人もキリスト教の布教活動がしやすかった

一方 信長が嫌っていたのは 政治に口出しをする寺や僧侶たちであった ある日 信長は僧侶たちを呼び出し 堕落した僧侶に対して活を入れた


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