テスト

昭和30年代の初め戦争の傷跡があちこちに残っていた日本はまだ国民の住まいですら足りていない状態でした。
しかしやがて世界の国々と肩を並べていずれは追い越す日を夢見ていました。そして東京タワー建設現場には全国から多くの志願者が次々と集まっていました。

そんなある日 タワーの建設現場ではクレーンを使ってよっぽど重い鉄骨を運んでいるのかその鉄骨は風にあおられ大きく揺れてました。
なんと そこで見てはいけない物を見てしまいました。その風にあおられ大きく揺れる鉄骨から なんと5~6人を見ました。

その時代の建設現場ではクレーンを使って建築素材だけでなくを運ぶのは当たり前に行われていたのでしょうか?今ではとても考えられない光景でした。

あくる日も壁のないむき出し状態のエレベータの箱が宙に浮いていました。そしてその箱の中にはすし詰め状態の作業員が乗せられ さらにその箱の上にも数人の人が乗ってました。
その状態でワイヤーに吊るされたその箱は各部署の現場まで職人を運んでました。そして建設現場では高さが増すにつれ当然 職人が強風にあおられる危険性も増えてきます。

しかし納期があるため風速15メートル程度の風(※い日にさした傘がひっくり返るほどの強さ)であれば平気な顔をして作業を行っていたそうです。
機械の発達してない当時 部品を一つ一つ運んでは高所で組み立てる作業が続きました。さらに作業の邪魔になるからと言って安全帯(命綱)をつけずに作業は行われていました。 

まさに危険と隣り合わせの仕事だったため収入もよく当時の(とび)職の平均日給は500円だったのに対しタワー建設の作業員は日給750円だったそうです。

しかし建設 間もない頃 強風にあおられた職人が高さ61メートル(14~15階の建物に相当する高さ)から転落死してしまいます。
その殉職者は東京タワー近くの増上寺で葬儀が行われたそうです。こんな惨事があってもなお建設現場では命綱をつけずに頑張る職人の姿がありました。

東京タワーの建設はまさにこの綱渡りのように危険であった
死亡事故が発生したのちも絶対に命綱をつけない職人たち
恐怖のゴンドラに乗り込むとび職人たち

ーーーーーこのあと東南アジアキャッチボール事情をお伝えします。つづきをどうぞ