テスト

1915年~1916年

ガリポリの戦いでは連合軍がイスタンブールを攻める 

第1次大戦時にはクルド人はアタチュルク(トルコ共和国の建国者)と協力し4年間 イギリスと戦った。

アタチェルク(トルコ)はガリポリの戦いでイギリス軍の進行を食い止めた。

ガリポリの戦い2
ガリポリの戦い (2)
ガリポリの戦い

ムスタファケマル アタチュルクが大功績をあげた

アタチュルク

第1次大戦はオスマン軍の敗北に終わったが海峡の領土だけは守った

アッシリア人の多くは第1次大戦の混乱時期 ヨーロッパやアメリカへ引っ越していった

第一次大戦で敗北を期したオスマントルコは欧米各国からセーブル条約(無理な要求)を迫られる 

結果オスマントルコはギリシャをはじめ多くの領土を失うこととなる。

今も続く資源開発禁止の条約は2023年 解禁となる予定

それに反旗を翻したのがアタチュルクであった

第一次大戦後 ローザンヌ条約によりトルコ住民とギリシャ住民の強制移住が行われた。

135万のギリシャ人がトルコからギリシャへ50万のトルコ人がギリシャからトルコへ強制的移住させられた。

第一次大戦前の中東地図
第一次大戦後の中東の地図

同じく 1915年 

当時 国を持たなかったアルメニア人たちは今よりももっと広い範囲で暮らしていた。

そこへ新たな領土を求めて帝政ロシアとオスマン帝国がやって来た。

やがて両国の紛争に発展しアルメニア人もその争いに巻き込まれることになる 

やがてアルメニア人が住んでいた領土は帝政ロシアとオスマン帝国(トルコ)によって分割統治されることになる 

聖地エチミアジン(元アルメニア領)を含む今のアルメリア領土は そっくりそのまま帝政ロシアの新領土となった

一方 オスマン帝国は異教徒であるアルメニア人とロシア人が結びつくのを襲て

オスマンの新領土(アララト山付近)に住んでいたアルメニア人を強制移住せせる

難民となった多くのアルメニア人は砂漠の中を歩き 多くの家族が生き別れとなった 

そのとき150万人の人が生き別れになったとされている

100年以上たった今でもトルコとアルメニアは険悪な関係にある

トルコは その時アルメニア人が30~50万人が事故死したと主張 一方アルメニア側は150万人がオスマンにより虐殺されたと主張している

(アルメニア虐殺記念館) the armenian genocide museum アルメニア人虐殺博物館

アルメニア虐殺記念館
アルメニア人虐殺博物館
アルメニア人虐殺博物館2

1916年 イギリスの協力の元 黒海沿岸の細長い領土を持つヒジャーズ王国(現サウジ)が建国される

1918年 アラブの反乱軍が当時オスマン領であったシリアのダマスカスを占領する アラブ人はダマスカス(シリア)で臨時政府を樹立した。

1919年 フランスのパリで戦後の国際秩序を決める会議が行われた。

会議にはファイサルとローレンスも参加した。アラブの独立国家を主張するが受け入れてもらえなかった。

フサインの息子 ファイサル

1919年~1922年(3年間) 国の立て直しを図ったアタチェルクはトルコ ギリシャ戦争を起こす

切っ掛けはギリシャ軍がトルコ イズミールへ侵攻ことに始まる

ギリシャ軍はアンカラの西50キロのところまで攻めてきた。

トルコ軍はゲリラ戦に持ち込み戦闘は長期化した。

ギリシャ軍はアンカラまで攻めたが撃退され敗北

トルコはギリシャにローザンヌ条約を結ばせた

アタチュルクがトルコ消滅の危機を救った

戦後 トルコに住むギリシャ系住民が国を追われる形で強制移住させられた。

140万人の難民のうち半数がギリシャへ移住したが残りはグルジアや南ロシアへ逃れていった。

1920年 中東(オスマン領)分割地図が完成した。定規で引いたようなまっすぐな国境線が特徴

オスマン領 イラク ヨルダン パレスチナ エジプトはイギリスが占領

同じくオスマン領であったレバノン シリア モロッコ チェニジアはフランスが占領した。

さらにオスマントルコの財政権と資源開発と重工業の権利まで イギリス フランス イタリアに奪われた 

中東の地図。

同年 フランス軍はアラブの支配下にあったシリア ダマスカスへ侵攻する アラブ独立政権を武力で倒しファイサルを国外追放された

1921年 イギリスの傀儡(かいらい)国家 イラク王国が誕生する。

イラク王国はイギリス統治に反感を持つイラク人の反発を招く

一方 サウド家(18世紀から続く王国)は第一次大戦ではイギリスと協力関係にあり戦後も独立を保った

1922年 オスマントルコは王政(スルタン製)を廃止 オスマントルコは崩壊した。623年の長い歴史に幕を下ろした。 エフマト6世は海外へ逃亡した。

1923年 ムスタファケマル アタチュルク(アタチルク党)がトルコ共和国を建国する。ケマルは新たな憲法を制定し政教分離を訴えた。

新たな首都はイスタンブールからアンカラへ移された。

トルコ共和国建国宣言

それまでトルコ人男性が使用してきたトルコ帽をかぶるのを禁止された。

また新生トルコでは女性は公共の場で頭にスカーフを巻くのが禁止された。一夫多妻制の禁止 女性の社会進出政策も積極的に行った

それまで使っていたアラビア文字をやめローマ文字の使用を義務付けた 西洋と同じ 太陽暦(西暦)を採用し教育の近代化も進められた。

徹底した西洋化が推し進められた。

今だ達成できぬEU加盟を目標に掲げた。

アタチュルクは もともとはギリシャ人で 宗教はユダヤ教を信仰していた。

そのためイスラム教には強い反感を持っている。

アタチュルクの生家もトルコではなくギリシャのテッサロニキにあり

今はトルコ領時間として使われている

ギリシャ テッサロニキ
アタチュルクの生家

1924年 トルコ政府はカッパドキアに住む住民を強制移住させた。

同年 オスマン帝国 最後の皇帝 メフメト6世が亡命する

メフメト6世

1929年 独立を求めたクルド人がトルコ軍に大規模な攻撃を仕掛けた それ以降 トルコ政府のクルド人弾圧は厳しくなった。

クルド人

1933年 シリア正教の総司教の場所はトルコからシリアのダマスカスに移された

シリア正教祭壇
シリア正教祭壇(祈りの儀式)
シリア正教祈りの儀式

1938年 アタチェルク(57)が亡くなる

現在 アタチェルクが亡くなった執務室は一般公開されている

アタチュルクが眠る棺(アタチュルク霊廟)
アタチュルクの執務室2

1978年 トルコ国内にクルド人からなる政治組織PKK(クルド労働党)が発足される。

PKK(クルド労働党)

1980年 軍のクーデターが発生

トルコでは建国以来 宗教色の強い政党が政権を取るたびに軍がクーデターを起こし 宗教色の強い政権は転覆させられる

1980年代 トルコ軍はクルド人の独立を阻止するためにクルド人武装組織とPKK(クルド労働党)に対し空爆を加えた

PKK(クルド労働党)はイラクへ逃亡し イラク北部に拠点を置いた。

1980年~90年にかけて と1992年

トルコの隣国でナゴルノカラバフでアルメニアとアゼルバイジャンの紛争も発生

トルコはトルコと同一民族の国 アゼルバイジャンを支援 

一方 アルメニアはロシアの支援を受けている

紛争以前は両国(アゼルバイジャンとアルメニア)の関係は良好だった

アルメニア人とアゼルバイジャン人が一緒に田畑を耕し家族ぐるみの付き合いをしていた

しかし近年 アルメニアでの大統領選挙が原因で 隣国アゼルバイジャンとの武力衝突が発生している

※2019年6月現在 外務省の発表ではアルメニア国内の治安は比較的安定している

1985年 イランイラク戦争時 トルコ政府は和歌山県沖トルコ船転覆事故の恩返しにと日本人救出のために わざわざ飛行機を隣国 イラクに飛ばしてくれた。

1985 トルコ政府が日本人吸湿の為にイラクにチャーター機を飛ばした。

1990年代 トルコ軍は村の住民がPKKクルド人武装組織と橋梁句しているとの情報を入手

トルコ軍はクルド人が住む村を破壊し40万人のクルド人が住処を追われた。

1993年 地下の駐車場工事をしている最中 地下からビザンツ帝国時代の住居跡が見つかった。

6世紀に描かれたモザイク画は修復を終え一般公開されている
 
ビザンツ時代 壁の隙間に熱した空気を入れ部屋を暖めていた。

当時の人々はギリシャ語を話し麦やオリーブを栽培していた。

同年(1993年) トルコ軍の銃撃にあい廃墟となった町

かつては50件ほどの民家があった

当時 トルコ軍はPKKに協力するものを狙っていた。

トルコ軍は人々を外に追いやり次々と火を放って行った。

その時 村を守ろうとしたトルコ人が射殺されなくなった。

全国で3000か所のクルド人の村が焼き放たれた。

クルド人の村を襲撃するトルコ軍
トルコ軍に焼き放たれた村

1999年 トルコ大地震発生

1999年 トルコ大地震発生

2005年 イラクの大統領に初めてクルド人のタラバーニが選ばれた。

クルド人初の大統領

2008年 和歌山県沖でエルトゥール号(沈没船)から遺品の引き上げ作業が行われた

当時使われていたコインなど2年間で7558点も引き上げられた。

トルコ記念館には その遺品が展示されている

5回目の引き揚げ作業では明治時代の硬貨や船の部品が見つかった

エルトゥール号(木造船)
エルトゥール号から見つかった遺品
エルトゥール号から引き揚げられたコイン

2009年 トルコで初めて高速鉄道が開通する

アンカラ~イスタンブール間の533キロを3時間で結ぶ鉄道

デジ公園ショッピングモール事件

公園内にショッピングモールを作るか作らないかでもめた事件

エルドアンの支持率は弱まりつつあるが それでも50%の支持率を誇っている

エルドアンは強権だが貧しい人には優しい政策をとってきた

トルコリラ暴落のニュース


<目次>
1トルコの基本情報
2トルコの年中行事
3歴史1(紀元前 ヒッタイト帝国時代)
4歴史2(ローマ帝国東西分裂 紀元後~9世紀)
5歴史3(ビザンチン最盛期 10~15世紀)
6歴史4(ビザンチン滅亡 オスマン帝国時代へ)
7歴史5(オスマン滅亡 17世紀~第1次大戦まで)
8歴史6(トルコ共和国建国~現在)