テスト

17世紀

オスマントルコの支配下となる 多くのアルメニア人が国を追われ海外へと逃れて行った 

それらの人々をアルメニアディエストラと呼ぶ オスマン支配下では異教徒に対する課税はあったが宗教に関しては寛容であった

ただオスマンとアルメニアの関係はオスマン帝国末期に悪化 オスマンによるアルメニア人虐殺も起こった 

オスマンはササディー朝ペルシャと何度もアルメニアの領土を奪い合う

同じく 17世紀 トプカプ宮殿(イスタンブール)に王子の幽閉所が作られる 

ハレム(トプカプ宮殿)のはずれに女性たちが立ち入る事の出来ない 皇子(王子)の幽閉所が作られた。 現在は土台のみが残っている

後継者となる王子はスルタンになるまで幽閉所の中で孤独な生活を送った。

王子は4歳で監禁され55歳になったときに やっと解放されスルタンとなる  幽閉生活で精神に異常をきたし即位1年で王座を追われたスルタンもいた。

何も知らないスルタンがトップを務めることとなり 帝国は どんどん衰退していった。

皇子の幽閉所2
皇子の幽閉所

1622年 オスマン2世(長男)は13歳でオスマン帝国 第16代 スルタンに即位した 

オスマン2世は即位後すぐ次男の弟を殺害する

その4年後 軍の謀反(むほん=反乱)によりオスマン2世(17)は処刑される。

オスマン2世
第16代 オスマン2世

1623年 ムラト4世がオスマン帝国 第17代 スルタン(三男)に即位する  ムラト4世は自ら兵を率いて戦地に向かう勇敢な王

ムラト4世が衰退しかけた帝国を再び繁栄させる

しかしムラト4世は黄金の鳥かごに幽閉されていた弟を次々と殺害していった。

第17代 ムラト4世
ムラト4世 (2)

1640年 オスマン帝国 ムラト4世が28歳で急死 
第18代 スルタンには唯一オスマンの血を引くイブラヒムが即位した 

イブラヒム

しかしイブラヒムは長らく幽閉されていたため精神がやんでいた。

そこでイブラヒムの母親 キョセムが帝国の政治を担う事となる

ハレム(トプカプ宮殿)の中にはキョセムが使用したハレムの中で一番 日当たりがよく一番大きな部屋が今も残っている

キョセム(オスマンの女帝)

1648年 オスマンのスルタン(王)イブラヒムは娯楽に明け暮れたという理由で再び黄金のかご(収容所)に幽閉される

10日後 イブラヒムは処刑される 

母キョセムも処刑に同意した。

第19代 スルタンにはキョセムの孫(イブラヒムの息子)が7歳で即位 オスマン帝国の政治は引き続きキョセムが行う事となった。

1651年 親族の反感を買ったオスマンの女帝キョセムが処刑される

1683年 オスマン帝国はオーストリアのウィーン包囲を行うが失敗に終わる

ヨーロッパ諸国が結束しオスマン帝国に抵抗する オスマン帝国はハンガリーの大半の領土を失った

1717年 オスマン帝国はベオグラードの領土を手放した。オスマンの領土はどんどん縮小していった。一方 ヨーロッパの白人諸国は植民地領土を拡大していった。

ただイスラム教徒の聖地 メッカとメディナ(サウジアラビア)の領土だけは確保し続けた。

メッカの巡礼の様子(サウジアラビア)

オスマントルコ領内ではヨーロッパ人と取引を行う商人が増える

1718年 オスマン帝国内でチューリップブームが起こる 今でもトルコにチューリップ模様が多いのはこの時の影響

ちょうどそのころオーストリア ハプスブルク家とオスマン帝国がパッサル条約を結んだ

オスマン帝国はハンガリーとベオグラードの領土を失うもオーストリアとの和平の道を選んだ

その後 イラン情勢が悪化する アフメト3世(在位期間1703年~1730年)は幽閉される

アフメト3世

オスマン帝国内 イスラム教徒 居住地でも民族の違いが原因で独立運動の機運が高まる 各民族がそれまで以上に団結力を高める

1754年 オスマン3世は50年間 幽閉されたのちスルタンに即位した

トプカプ宮殿内には年老いたオスマン3世が建てた明るく大きな部屋が残されている 

きれいな網目模様の窓が特徴

1768年 帝政ロシア 女帝エカテリーナ2世は クリミア半島(ウクライナ)の領有権を手にするため オスマントルコに宣戦布告する

クリミア半島の場所

第1次露土戦争=ロシア王朝VSオスマントルコ(1768~1774年)の勃発となる 一回目はロシア(ロマノフ朝)の勝利 

※クリミア戦争と第1次世界大戦を合わせるとロシアとオスマンの戦争は全部で12回行われておりロシアの8勝2敗2引き分けと 圧倒的に分がいい※

ロシアは露土戦争(ロシアトルコ戦争)で広大な領土を獲得したがのちの時代それがチェチェン紛争の原因となった

露土戦争

1825年 ロシアでデカブリストの乱(一種の農民一揆)が発生する 

ロマノフ朝ニコライ一世は 国内不満をそらすためギリシャ独立戦争やトルコ エジプト戦争に参戦した

デカブリストの乱

1828年 3度にわたるロシアペルシャ戦争の結果 トルコマイチャーイ条約が結ばれ

もともとペルシャ領であったアルメニアの東部はロシア領となる 

残る西アルメニア(オスマン領)ではロシアとオスマン(トルコ)との間で領土争いが起こる

アルメニアの場所

 
1839年 第31代(最後から2番目)スルタン アブデュルメジャド1世が即位 

アブデュルメジャド1世がトプカプ宮殿で暮らす最後のスルタンとなる 西洋の文化を好んだスルタンでもある

それまでのスルタンと違い頭にはイスラム伝統のターバン(シーク教の元とは別)を巻いていない。

第31代アブデュルメジャッド1世

1853年 オスマン帝国の王族の住まいがトプカプ宮殿から別の宮殿へと移される 

トプカプ宮殿内にあったハレムの新たに作られた西洋風の宮殿に移された。

ドルマバフチェ宮殿

1854年 ロシアは東地中海に進出しようとしてオスマン トルコと衝突したイギリスとフランスはトルコを援助し 

そこにクリミア戦争(イギリス フランス オスマン(トルコ)対イタリア サルギニア ロシア)が勃発した。 ロシアは この戦いで大敗を期す

戦後 ロシアは衰退する 一方 イギリスとフランスは力をつける ロシア最大の要塞セバトスポリも陥落する 

しかし今でもウクライナ クリミア半島の付け根にはロシア軍基地がある 黒海に面した要塞のような場所

クリミア戦争

1877~1878年

 ロシア帝国とオスマントルコの戦争 露土(ろと)戦争 (ロシアの勝利)

1890年 オスマントルコ戦遭難事故(和歌山県 串本町)が発生する

オスマントルコ戦遭難事故(和歌山県 串本町) 慰霊碑
和歌山県串本町

オスマントルコの艦隊 エルトゥール号(木造船)が親善友好の為に日本にやってきた。

そのときエルトゥール号は運悪く台風にあおられ岩礁に衝突し転覆し

さらに戦艦は海上で水蒸気爆発を起こし587人のトルコ人がなくなった

和歌山県の串本は小さな集落であったが住民が必至の救助活動を行った。

助かった64人のトルコ人は日本人に手厚く保護された

その出来事はトルコの教科書にも載り トルコ人の親日へとつながった

当時 新聞記者をしていた山田寅次郎は義援金を集め 単身 オスマントルコへと足を運んだ

そのときスルタンは山田から日本の明治維新などを学んだ。

その中にはアタチュルクもいた。アタチュルクは のちに日本の明治維新を参考に国造りを行った。

山田はその後もトルコにとどまりトルコの近代化に貢献した。

19世紀の末 西洋人はオスマンに異民族の反乱をそそのかしたかす。

その欧米列強のあおりを受けたオスマン帝国は異民族の反乱を恐れ異民族の大弾圧に乗り出した。

1904年 日露戦争で日本がロシアに勝利 

 トルコはロシアと過去に何度も戦争し今でも仲が悪い

しかし日本は日露戦争でロシアよりも多い死者を出しながら辛うじて勝った その勝利を機にトルコで親日の人が増えた

日露戦争

ヒジャーズ鉄道

1908年開通

オスマントルコ時代に造られたシリアのダマスカスからサウジアラビアのメディナまでを結ぶ鉄道

鉄道路線は第1次大戦でイギリスの支援を受けたアラブ反乱軍によって破壊された

映画アラビアンロレンスに鉄道爆破の様子が再現された

今でも砂漠の真ん中に機関車の残骸(鉄の塊)が横たわっている

ヒジャーズ鉄道路線図

1909年 新宮殿に移されたハレムが解散する。

1914年 第1次大戦以前 オスマン帝国は近代化政策の一環タンジュマートを行うがイギリスやフランスに多額の借金を残し失敗した 

結果 ヨーロッパ諸国が中東地域でも大きな影響力を持つようになった。さらにドイツやロシアも中東に進出してきた。

オスマン統治時代の中東ではアラブ人が独立したがっていた。

イギリスはオスマン領内のアラブ人に もしイギリスがオスマンに勝利した際にはアラブ人の独立国家を承認すると嘘の約束をしアラブ人の橋梁句を得る

一方 イギリスはフランス ロシアとの密約でオスマン領 分配の密約 サイピスコス協定を交わす。

オスマン領シリアなどの農業地帯はフランスが統治し

地中海とペルシャを結ぶルートはイギリスが統治

アラブ人に領土を分け与えるつもりは初めからなかった。

メッカ(サウジ)の指導者フサインはイギリスの協力の元 オスマン帝国領内で反乱を起こす。その反乱にイギリス人ローレンスも加わった

フサイン

第1次大戦の戦果はヨーロッパから中東へと広まった。

アラブ軍はローレンスの力を借り まずはヒジャーズ地方(現サウジ)に勢力を置く

その後も戦いに勝ち続ける

映画 アラビアンロレンス
アラビアのロレンス ヒジャーズ鉄道 爆破シーン

オスマントルコ軍は第1次大戦で アラブの反乱軍以外にイギリス フランス ロシア オーストラリア ニュージーランドとも戦った

オスマン軍はロシアとの戦いに苦戦しながらも地中海とインドを結ぶ イギリスの連絡ルートを脅かし続ける

イギリスはトルコのダーダネルス海峡(チュナカル)を攻める イギリスの狙いはトルコの海峡封鎖 

黒海までつながるボスポラス海峡を攻める

ダーダネルス海峡の場所
ダーダネルス海峡

第1次大戦後 敗北したオスマンは多くの領土を失い その時 セーブル条約によりアルメニア(トルコの隣国)の独立も容認された

その時 未確定の国境も定まり聖地アララト山はトルコ領土に組み込まれ今に至っている

アララト山 


<目次>
1トルコの基本情報
2トルコの年中行事
3歴史1(紀元前 ヒッタイト帝国時代)
4歴史2(ローマ帝国東西分裂 紀元後~9世紀)
5歴史3(ビザンチン最盛期 10~15世紀)
6歴史4(ビザンチン滅亡 オスマン帝国時代へ)
7歴史5(オスマン滅亡 17世紀~第1次大戦まで)
8歴史6(トルコ共和国建国~現在)