テスト

1451年 オスマンのムラト2世が亡くなる ムラト2世の息子 メフメット(メフメト)2世がスルタン(トップ)の座に就く

ムラト2世

1452年 オスマンのメフメット(メフメト)2世がボスポラス海峡の海岸に城壁を建設する 大砲付きの要塞と城壁はわずか4か月で完成した。

要塞はボガクケセン(喉を掻っ切る)となずけられた。

ボスポラス海峡沿いの要塞

一方 ビザンチン帝国は最盛期10万いた兵士が4773人に減っていた。

そんなころハンガリー人が新たな新型大砲を売り込むためにビザンチン帝国の皇帝の元を訪れた。

ハンガリー製のウルバヌス大砲は重さ600キロの弾丸を打ち込むことができる強力な兵器であった

ウルバヌス大砲

しかしビザンチン帝国は新型大砲を購入できるだけのお金を持っていなかった

続いてハンガリー人はオスマンに新型大砲の話を持ち込んだ するとメフメット(メフメト)2世は提示された金額の3倍の値段で大砲を買い

 すぐにその大砲を実用化すると約束した。

大砲はボスポラス海峡に設置された。

1453年 メフメド2世がトプカプ宮殿の建設を開始する

オスマン帝国は建国150年を過ぎた頃 バルカン半島全土を制圧 アナトリア全域と中央アジアのシルクロードの拠点を抑え 残るはビザンチンの領土 コンスタンチンノーブルのみとなった

最盛期 人口100万都市だったコンスタンチンノーブルはビザンチン帝国の衰退に伴い3万5千人まで激減していた。(オスマン最盛期には人口50~70万まで回復する)

当時 ビザンチンの領土はミストラル(ギリシャ)とコンスタンティノーブルの2か所しか残っていなかった。

オスマントルコはイスラム法に基づきビザンツ帝国に降伏を求めたが拒否された。

ビザンチン帝国はオスマン軍の侵略に備え城壁の中央に主力兵を置き金閣湾を封鎖した。

さらに金閣輪には敵の侵入を防ぐ為 鎖が張り巡らされた。

金閣湾要塞
ビザンツ時代の金閣湾
金閣湾 封鎖
金閣湾に放たれた鎖
金閣湾封鎖の様子
金閣湾周辺図(ビザンツ時代)

メフメット(メフメト)は10万の兵と指揮を高めるための演奏隊を動員した。 

演奏隊
演奏隊(軍楽泰) (1)
演奏隊(軍楽泰) (2)
オスマン演奏隊 (3)
オスマン演奏隊 (4)
オスマン演奏隊 (2)
オスマン演奏隊 (1)

その時 演奏隊が演奏したトルコ行進曲はのちのベートーベンやモーツァルトにも影響を与えたといわれている

トルコ発祥のシンバルはオスマントルコ軍が大きな音で対手を驚かす(又は威嚇する)ために開発されたのが始まり

シンバル

オスマン軍は海に400隻の軍艦 陸には20万の兵士を配置した 一方 ビザンチン軍は4773の兵と わずかな外国人しかいなかった

さらにオスマン軍は新兵器 大砲も準備した。

オスマン軍大砲

オスマン帝国 大砲

オスマン最初の攻撃は停船命令を無視したベネツィア船に向け放たれた。船は大砲の玉 たった一撃で沈没した。 

オスマン海軍が金閣湾の鎖に手こずっていたころ 陸地では難攻不落の城壁に重さ600キロの大砲の玉が放たれ城壁は崩れていった。

その時の大砲の傷跡は今でも残っている 

大砲の玉がめり込んだ城壁の跡
オスマン軍に破壊された城壁

大砲は1.5キロ離れた場所から打つことができたが 1日 7発までしか打てなかった。

そのすきをみてビザンチンの守備兵は城壁の修復と大砲の衝撃を弱めるため羊毛を積んだ俵を準備した。

夜 住民たちが板や泥を樽を持ち出し城壁の修復にあたった

城壁近くの攻防戦は15日にも及んだ

一方海ではオスマン軍が苦戦していた。

オスマン軍は海から攻め落とすのは困難と見て船の陸揚げを考える

メフメット(メフメト)2世はガラタ地区の急流地帯に道路を建設した。

さらに戦艦(船)を陸に上げた。船底に油を塗り滑りやすくしたうえで船を牛にひかせ金閣湾の内側から50隻の船を入れた。

そのとき高台で警備していたビザンチン兵は70隻の船が山を登る光景を目にする。この奇策はベネチア人が考案したとされている。

1453年 山を越える船の様子
船の陸越えルート
船の山越えを再現した模型2
船の山越えを現した絵
船の山越えを再現した模型

そして金閣湾はオスマン軍によって完全に包囲された

コンスタンチンノーブルは金閣湾を使えなくなったことで物流が途切れ食糧不足に陥った。

山越えを終えた戦艦(船)は大城壁の裏側に回る

オスマン軍はついに難攻不落と言われた城壁を突破する

そして2か月の戦いの末 ついに1000年の都コンスタンチンノーブルは陥落した。

1453年 コンスタンティノーブル陥落 
オスマン軍がコンスタンチンノーブルを包囲した時の図

聖アアソフィア大聖堂内も遺体であふれたとされている

ビザンチン皇帝 コンスタティノス11世は山のように積まれた遺体の中から発見された。現在 コンスタティノス11世はアヤソフィアの祭壇にまつられている。

コンスタンチンノーブルにあった数多くの教会はイスラムモスクに改築された。

ビザンツ帝国の学者がオスマン支配からイタリアへ逃れ それがきっかけとなりルネッサンスが始まったとされている

コンスタンチンノーブル陥落後も熱心な東方正教徒は城壁近くの無名戦士の墓を訪れ墓参りをする。無名戦士の墓に皇帝が埋葬されているといううわさもある。

なおコンスタティノス11世の弟はビザンチン帝国の唯一残った領土 ミストラ(ギリシャ)に立てこもり抵抗運動を続けた

その後 メフメット(メフメト)2世は北は黒海を挟んでロシアのあたりまで 南は地中海を挟んでアフリカまで領土を広めた。

オスマン帝国 最盛期の領土

1478年 イスタンブールにトプカプ宮殿 完成

トプカプ宮殿 (2)

1481年 メフメット(メフメト)2世は海への進出を目指しイタリア遠征を計画するも49歳の若さで亡くなる

結局 オスマン帝国のイタリア遠征は行われなかった。

15世紀 オスマン帝国がベオグラード(セルビア)を占領する 

さらにオスマン帝国はモハーチの戦い(セルビア コソボの戦い)で強敵ハンガリーを倒す

続いてオスマンはハプスブルク家(オーストリアの帝国)を狙った

オーストリア ハプスブルク家

フランソワがオスマンと手を組みウィーン(オーストリア)を包囲する

しかし冬将軍の到来で占領に失敗する

ウィーン包囲

しかしオスマン帝国はキリスト侵攻の周辺国に大きな脅威を与えた。

エルギネはオスマン帝国の第2の都市となった

プレメザ海戦ではローマ教皇と神聖ローマ帝国が艦隊を派遣したが 力及ばずオスマン帝国が大勝利した。

プレメザ海戦

陸の大部分をオスマントルコが占領し通行料を取っていた。 

陸の移動が制限されたヨーロッパ人が仕方なく海の移動を考え大航海時代が起こったともいわれている

オスマン帝国はキプロス島を制圧する

キプロス島の場所

レパンド海戦でオスマン帝国は敗北する この敗北を機に帝国は少しずつ傾き始める

オスマン帝国内で大反乱が発生する

1574年 ムラト3世が第12代スルタンに即位するとすぐ兄弟を皆殺しにした。

ムラト3世


<目次>
1トルコの基本情報
2トルコの年中行事
3歴史1(紀元前 ヒッタイト帝国時代)
4歴史2(ローマ帝国東西分裂 紀元後~9世紀)
5歴史3(ビザンチン最盛期 10~15世紀)
6歴史4(ビザンチン滅亡 オスマン帝国時代へ)
7歴史5(オスマン滅亡 17世紀~第1次大戦まで)
8歴史6(トルコ共和国建国~現在)