テスト

10世紀 ビザンツ帝国ではテオファノが王に即位する ビザンツ帝国は2度目の絶頂期を迎える。

当時 北アフリカはイスラム王朝ファーティマ朝が勢力を伸ばし 西のヨーロッパでは神聖ローマ帝国が勢力を伸ばしていた。

10世紀 新生ローマとビザンチン ファーティマ朝の勢力地図

ビザンツ帝国は軍の立て直しを図り かつてイスラム王朝に奪われたっ領土を次々と奪還していく

テオファノ

10世紀後半 軍人ニケホロス2世(マケドニアとビザンチンの皇帝)はイスラム王朝から クレタ島 シリアを奪還した。

ニケホロス2世
ビザンツ兼マケドニア王国 皇帝ニケフォロス2世

さらにビザンツ皇帝が死去すると未亡人となった王妃を妻にした。 

軍人ニケホロス2世は神聖ローマ帝国の王妃を そそのかし皇帝の殺害に加担する。

王妃テオファノはヨハネスと組み皇帝暗殺に成功する。

神聖ローマ皇帝暗殺事件

その後 神聖ローマ皇帝にヨハネス1世が就く

新皇帝ヨハネスは皇帝殺害の罪をすべて王妃テオファノに押し付け テオファノは島流しとなった。

王妃テルファノの島流しの様子

その後 テオファノの子供がヨハネスの次の皇帝となった

ヨハネス1世 (2)

バンレイオス2世(テオファノの子供)は50年間 神聖ローマ帝国の皇帝を務めた。パレスチナやブルガリアを占領する

バンレイオス2世 領土拡大と戦闘の様子 (2)
バンレイオス2世 領土拡大と戦闘の様子 (1)

バンレイオス2世は領土拡大に生涯をかけ一生独身で過ごした。

1038年 セルジュク朝(中央アジア系民族) 建国

セルジュク朝の領土

1071年 マラズギルトの戦いでセルジュク朝(中央アジア系民族)がビザンチン帝国に勝利する トルコ系住民がトルコに入植を始める。

マラズギルトの戦い

1077年 セルジューク朝(中央アジア系民族)は都をイズミックからコンヤへ移す

1204年 第4次十字軍(カトリック信仰)がコンスタンチンノーブルを制圧する ビザンチン皇帝(東方正教)も十字軍に殺害される。

第4次十字軍2
第4次十字軍

ビザンチンの王族たちは各地へ逃れ亡命政権を立ち上げる

事の発端はベネチアで海軍の中枢を担う人物が離反し十字軍側に就いたことに始まる

十字軍はコンスタンチンノーブル陥落後ラテン帝国を結成した。

ラテン帝国の国旗

十字軍の兵士には3日間の略奪が許された。ビザンツの数多くの宝物が略奪された。

そのときベネチア人も略奪行為に参加していた。そのためイタリアのベネチアには当時 イスタンブールから盗み出された財宝が今でも多く残っている。イタリア サンマルコ寺院2階の宝物殿に展示されている。

イタリア サンマルコ寺院

1243年 トルコの大半を支配していたセルジューク朝(中央アジア系民族)はモンゴルの支配下に入る

1258年 

チンギスハーンの孫 フラグがイスラム王朝のアッパース朝を滅ぼし

今のイランからトルコにかけ広大な領土を持ったイルハン国を立ち上げる

アッパース朝 支配地域の地図

1261年 地方に逃げていた皇帝ミハイル(ビザンチンの王族)が十字軍からコンスタンチンノーブルを奪還する

ミハイルがコンスタンチンノーブルを奪還した時には もうすでに城壁の中に かつての支配者 十字軍の姿はなかった。 

しかし帝国に かつてのような富はなく帝国内では内紛が勃発していた。ビザンチンの領土も かなり縮小していた。

ベネチアを通し いろいろな物が西ヨーロッパへ流失したのがビザンチン衰退の原因の一つであった

1299年 トルコ系民族を中心としたイスラム国家 オスマントルコ(オスマン朝アナトリア)が建国される 600年以上続く巨大帝国

兵士集団からなるオスマンベイがオスマントルコを建国した。

オスマンベイの息子 オルハンが今のイスタンブールに当たるブルサを制圧する 

オスマントルコは建国後すぐにバルカン半島に侵攻し 小アジア アナトリアとビザンツ帝国の町 アナトリアを制圧した 

1326年 オスマン帝国はセルジューク朝の領土 ブルサ(北西部)を奪い ブルサに都を置いた。

1338年 ビザンツ皇帝の後継者を巡り内乱が発生する

ガラタ地区ではジェノバ人が要塞を作り事実上の独立を果たす

ジェノバ人の要塞

内乱はビザンツ帝国第2の都市テッサロ(現テッサロニキ ギリシャ)にまで飛び火する 

重税に苦しんだ住民と東方正教の過激団体とセルビア王国が加わり内乱の規模は拡大していった。

ビザンツ帝国はセルビア王国を駆逐するためオスマントルコに援軍を依頼する。今に続くコソボの民族紛争はそのころから始まった。

軍事力の勝オスマンはバルカン半島の各地域を次々と鎮圧していく

内乱の鎮圧に成功したビザンツ帝国は以後100年間も持ちこたえることとなる

ビザンチン オスマン帝国とセルビア王国の地図

1362年 ムラトー1世がスルタン(イスラム王)に即位すると異教徒を誘拐し無理やりイスラム教に改宗させる政策がとられた。

誘拐された奴隷の中にはスルタンに近づき出世する者もいた。

当時 オスマンが都を構えていたブルサにはイスラム勢力の最前線基地が置かれた

1354年 ヒエラポリスは大地震に見舞われ町は壊滅状態となった。

人々は町を出て行きヒエラポリスの町は廃墟となった

約1500年栄えてきた街も崩壊した。

遺跡温泉(観光名所)の遺跡もその時の地震により崩壊した物。

1389年 オスマントルコとセルビア アルメニアの戦いはオスマントルコが勝利する。セルビアの王族たちは処刑を恐れコソボへ脱出した。

残ったセルビア人とアルメニア人はオスマンによりイスラム教徒に改宗させられた。

この戦いでオスマン軍はバルカン半島の多くの領土を手にする

1391年 マヌエルは父ヨハネス5世が亡くなると宮殿を脱出した。汚名を背負ったまま皇帝を継いだ

皇帝に就任したマヌエルはスルタン(イスラム王)に忠誠を尽くすという誓いを破棄した。

帝都攻略を見据えて海峡と海岸沿いに城砦を建設した

海峡は帝国にとって物資と食料の輸送路となる いわば生命線でもあった。

1396年 ハンガリーがオスマンに対抗するため十字軍を結成する

ニコポリスの戦いでオスマンと十字軍が衝突 オスマンが十字軍を倒し勝利する

ニコポリスの戦い

14世紀末 オスマン帝国は かつてのビザンチン帝国のように広大な領土を保持する  アジアからヨーロッパにかけて広い範囲がオスマンの領土となった

15世紀 十字軍がトルコのボドゥルム基地を構えた。

1402年 オスマン帝国は軍事と経済の面で力をつけていった。

 オスマンは書簡にてビザンツの皇帝マヌエルにコンスタンチンノーブルを受け渡すように要求してきた。

書簡は その後も何度も送られた その書簡は今 図書館に保管されている

マネエルがその書簡を目にすることはなかった。マヌエルはその時 ヨーロッパに援軍を求める為 旅に出ていた。旅は1399年から丸3年にも及んだ

マヌエルはフランスとイギリスで歓迎されたが援軍の要請には消極的で大した成果は得られなかった。

マヌエルの父ヨハネスも同じくヨーロッパ各国を回り援軍を求めていたが断られていた。

マヌエルは旅の最後にパリで無駄な2年を過ごし帰国することになった

(同年) ついにオスマンがコンスタンチンノーブルに攻撃を加えた

ちょうどそのときモンゴルからティムールが割り込んできたオスマンは急遽撤退せざる負えなくなった。

(同年)アンカラ(現トルコの首都)でオスマン軍とティムール軍(モンゴル)が衝突 アンカラの戦いが起こる 敗れたオスマン帝国は分裂した。

オスマンの軍勢はガラタ地区のジェノバ人の力を借りヨーロッパへと脱出する。

その後 オスマン帝国は10年間 スルタン空位の時代が続く

アンカラの戦い

1403年 バヤジットはティムールに殺害された

1412年 ティムール(モンゴル)の敗北から10年後 オスマン帝国は立ち直った

オスマンのスルタン(イスラム王) メフメット(メフメト)1世とムラト2世は50年かけて今まで失った領土を取り戻した。

メフメト1世

またビザンチン帝国 悲劇の皇帝 マヌエル2世はオスマン帝国に人質として差し出されオスマンの指示に従いながらオスマンの宮殿内で数年間 暮らした。

1425年 ビザンツ皇帝 マヌエル2世は どんなことがあっても 歩み寄りをするな との遺言を残し亡くなった。

しかし後を継いだヨハネス8世は西のカトリックの協力なしにはオスマン帝国にはかてないと考えた  

1439年 東西のキリスト教徒(カトリック&東方正教)が一緒に集まり合同会議が行われた しかし両宗教の融和とまではいかなかった。

さらにイスタンブールの住民はカトリックとの協力に大反発した。

1444年 第7代 オスマン帝国 スルタンにメフメト(メフメット)2世が18世で即位する

図書館にはメフメト2世が描いた落書きが彫刻として残っている

メフメト2世は漫画を描くのが好きでメフメト2世が描いた多くの漫画が残っている

ギリシャ マケドニアの英雄 アレクサンダー大王は牙を持った怪獣の姿で描かれていた。

メフメト2世
メフメト2世 (2)
メフメト2世の騎馬像
メフメト2世の像
メフメト2世が描いた漫画
メフメト2世が描いたアレクサンダー大王

1449年 ビザンチン最後の皇帝コンスタチノス(コンスタンティノス)11世が皇帝の座に即位する 

コンスタティノス11世
コンスタンティアノス11世
コンスティアノス11世の像 (2)
1450年ごろのギリシャとトルコのあたりの地図


<目次>
1トルコの基本情報
2トルコの年中行事
3歴史1(紀元前 ヒッタイト帝国時代)
4歴史2(ローマ帝国東西分裂 紀元後~9世紀)
5歴史3(ビザンチン最盛期 10~15世紀)
6歴史4(ビザンチン滅亡 オスマン帝国時代へ)
7歴史5(オスマン滅亡 17世紀~第1次大戦まで)
8歴史6(トルコ共和国建国~現在)