テスト

紀元後

1~2世紀 トルコ南部のカシュには1~2世紀 リキュア王国が栄えていたころの遺跡が残っている

2世紀 (又は3世紀) ローマ帝国のキリスト弾圧から逃れてきた人がカッパドキアに住み始める

260年  トルコ南部のエデッサでエデッサ戦い(ローマ対ペルシャ)が起こる

そこではローマ皇帝が捕虜となる前代未聞で出来事が発生する(のちにもう一人捕虜となるローマ皇帝がいる)

この時のローマ対ペルシャ(イラン)の戦争はペルシャ軍が勝利する 

エデッサ戦い(イラン)

3世紀 ローマ帝国の国力低下に伴い各地で反乱が発生する

そんな時に登場したのが皇帝コンスタンティノス(セルビア生まれ) 皇帝は2つの大改革を行った。①キリスト教を国教に定めた 

330年(4世紀) ②ローマ帝国 皇帝コンスタンティノスは都をイスタンブールに移す。

330年 コンスタンティノーブル
図 コンスタンティノーブル

当時 イスタンブールはビザンチンという小さな港町に過ぎなかった。

以降イスタンブールはビザンチン時代とオスマン時代の1600年間 都 そして 貿易の拠点として栄える

333年 トルコの港町ビザンチン(現イスタンブール)はコンスタンチンノーブル改名された。

コンスタンチンノーブルはやがて人口40万の大都市に成長する

コンスタンチンノーブルの港は厚さ5メートルの城壁に囲まれた。城壁は3重構造となっていて その難攻不落の城壁がコンスタンチンノーブルを1000年以上守り抜くことになる

なお城壁は今も残っている

395年 ローマ帝国は東西に分裂し東ローマ帝国はビザンツ帝国となった。なお分裂以降も西ローマのベネツィア(イタリア)と東ローマ(ビザンツ帝国)との交流は盛んに行われ多くの船が行き来していた。

ローマ東西分裂

二つの頭を持つ鷲の頭がビザンツ帝国の紋章となった

その後 ビザンツ帝国は英子総帥を繰り返しながらも1000年以上続く

日本史で例えれば古墳時代から室町時代まで栄えた帝国

世界の富の3分の2がビザンツ帝国に集まったとうわさされた

今でも世界各地にビザンツ時代の財宝が残されている

かつて神聖ローマ帝国の領地であったドイツにはビザンチンから送られた金の布が見つかっている

中国でもビザンチンから送られた金の鏡が見つかっている

ビザンチンと交流が深かったイタリアでは教会にビザンチンの壁画が輝き続けている。

イタリアのベネチアではビザンチン文化を受け継いだ伝統のガラス細工がある

ベネチィアンガラス2
ベネチィアンガラス

ビザンツ帝国は国家の運営にはキリスト教が大きな役目を果たした。

キリスト教は神の国家を地上に実現する唯一の宗教と考えられた。

ただ同じキリスト教でも西ローマ帝国がカトリック信仰するのに対しビザンツ帝国は東方正教を信仰していた。

西ローマの皇帝は政治は行っていたが宗教には手を付けていなかった

一方 東ローマ(ビザンツ帝国)の皇帝は政治と宗教の両方のトップを務めていた。

同世紀(4世紀)  カッパドキアの修道士が修道院を建設 柔らかい岩をくりぬき作られた礼拝堂には 天井に十字架が掲げられ今でも残っている

造りはいたって質素 

同世紀(4世紀) イスタンブールに地下の貯水槽(又は地下宮殿)バシリカ シスタンが築かれる

ビザンツ帝国時代に造られ その後オスマン帝国が使用

長さ140メートル 幅70メートル 高さ8メートル 

内部には大理石の石柱が336本立っている

ビザンチン時代 地下には3か月分の水を貯められる大空間からなる貯水槽が整備された

地下宮殿内部

5世紀 ビザンツ帝国がキリスト教徒に対し宗教弾圧を行う 

ビザンチン年代記に当時の破壊の様子が描かれている

宗教弾圧は その後何度も発生する。

5世紀 イスタンブールから地中海までたくさんの交易船が行き来していた。

445年 アッケラ(ティルク系)がフン王国を築く それが西ローマ帝国の崩壊につながった。

首都はコンスタンチンノーブル(今のイスタンブール)に置かれた。

その後 トルコはセルスク朝(イラン イラク トルクメニスタン)に占領され その時にトルコに初めてイスラム教が伝わった。

480年 西ローマ帝国はゲルマン人の大移動の影響を受け滅亡する

ゲルマン人の大移動

6世紀 エジプト シナイ半島にある聖エカテリニ修道院にはビザンツ様式で描かれた世界最古のイコン(キリストの宗教画)が保存されている

おおよそ6世紀の技法で描かれている。

イコン
シナイ半島
聖エカテリニ修道院(エジプト)

同時期 ビザンチン皇帝ユスティアヌスは領土拡大のため戦争に戦争を重ねた

しかし皇帝は戦費をまかなうのが困難になったため民衆に重税を課しそのため皇帝は市民の反感を買った

ユスティニアヌス1世

532年 ついに市民の怒りは爆発した。事の発端は帝国が市民に課した重税にあった

イスタンブールの戦車競技場で起こったニカの反乱(市民暴動)が発生(ニカとは重税を意味する)

戦車競技場で起きた小競り合いが切っ掛けとなり大暴動へと発展する

3万の犠牲者を出した。

映画 ベンハーではその時の反乱の様子が再現されている。

映画 ベンハー

暴動は全土に広がったが皇帝ユスティニアヌス1世により鎮圧された。

(同年) この暴動で焼き放たれた教会跡地に聖ソフィア大聖堂が建設されることとなった。

ユスティニアヌス1世は暴動を鎮圧した記念にアヤソフィア(東方正教の聖堂)を建設した。

50万の作業員が動員され6年で完成させた。

アヤソフィア
ユスティニアヌス1世の壁画(アヤソフィア内)

中国 西安で見つかった古代の墓から6世紀ごろに使われていたビザンツ帝国の金貨が見つかっている 

この時期 ビザンツ帝国の金貨が国際通貨として用いられていた。

ビザンツ帝国の金貨

当時シルクロードを利用し東ローマ(中東やトルコ)と中国(髄から唐にかけて)まで貿易をしていたことを示している。

また それまで中国が独占していた絹織物の技術は6世紀ごろまでには ひそかにイスタンブール(ビザンチン帝国)にまで伝わっていた。

トルコでの絹産業はビザンツ皇帝が独占し王室の財政を潤していた。
絹織物は外交手段としても使われた。

7世紀 ビザンチン帝国は急速に勢力を拡大してきたアッパース朝(イスラム王朝)にシリア エジプト など次々と領土を奪われる

同世紀(7世紀) イスラム教徒から迫害を受けたキリスト教徒がカッパドキアへ移住する

674年 ウマイヤ朝(シリア ダマスカス)が中東とアフリカ北部へ侵攻 ビザンチン帝国の都コンスタンチンノーブル(イスタンブール)も陥落した。

7世紀 ウマイヤ朝の支配地域

コンスタンチンノーブルはウマイヤ朝の1000隻の戦艦に取り囲まれ 戦いは5年間 続いた。ただ海軍ではビザンツ帝国のほうが勝っていた。9世紀に書かれた書物に海の火は3万のウマイヤ兵を撃退したと書かれていた。

ビザンツ帝国は この時代もうすでに火炎放射器を使用していた。

ビザンツ帝国のスパイ活動も功を奏した。ビザンツのスパイはお金でゲリラ兵を雇いウマイヤ国内で反乱を起こさせた。

ビザンツ帝国が1000年も続いた理由として こう言ったスパイ活動があったからだとされている。

シリア ウマイヤモスクは なぜか敵対関係にあるビザンツのビザンツ様式で建てられた。

また両国の捕虜交換の際はビザンチン(コンスタンチンノーブル)を訪れたイスラーム特使が聖アヤソフィアに招かれている

8世紀 ビザンツ帝国は宗教弾圧(2度目)の一環としてイコン禁止令を発令した。

イコンを描くことは もちろん所有することも許されなかった。

さらに教会のキリストがも破壊された。

ビザンチン美術館(ギリシャ)ではキリストの顔が深くえぐり取られたイコンが展示されている

ビザンチン美術館の展示物

またビザンツ帝国では聖像破壊運動も行われた。

イコンを守ろうとした修道士は目と顔をつぶされて手足を切断された。

聖像破壊運動2
聖像破壊運動

当時 エジプト シナイ半島の聖エカテリニ修道院にも破壊命令が下ったが修道士たちはそれに従わなかったためイコン他 貴重な品々が守られた。

コンスタンチンノーブルの都から遠く離れていたことが幸いした。

聖像破壊運動がきっかけとなりビザンツ帝国(東方正教)と西ローマ(カトリック信仰)が対立するようになった。

当時 西ローマでは北から移住してきたゲルマン人に対し絵を使い布教活動を行っていた。(ゲルマン人は西ローマ人とは違う言葉と文字を使っていたため)

そのためビザンツ帝国が行ったイコン破壊命令(偶像崇拝の禁止)は西ローマにとって都合が悪かった。

ビザンツ帝国は西ローマから徴収していた税収が入ってこなくなった

9世紀 ビザンツ帝国が行っていた聖像破壊運動は ようやく終息した。

それ以降 イコンの製造が再開されたが書き方の制限が厳しく生々しく過去事は禁止された。

牛の肝臓や卵を混ぜた顔料が使われた。

800年 ローマ教皇レオ3世はフランク王カールに美残地にしか許されていない皇帝の称号を与える

ローマ教皇レオ3世
フランク王カール


<目次>
1トルコの基本情報
2トルコの年中行事
3歴史1(紀元前 ヒッタイト帝国時代)
4歴史2(ローマ帝国東西分裂 紀元後~9世紀)
5歴史3(ビザンチン最盛期 10~15世紀)
6歴史4(ビザンチン滅亡 オスマン帝国時代へ)
7歴史5(オスマン滅亡 17世紀~第1次大戦まで)
8歴史6(トルコ共和国建国~現在)