テスト

みんながみんな富岡製糸場の写真は小学校の教科書で見たと言うのですが僕は全くその記憶がありません。
残念ながらその当時 教科書を枕代わりに授業中 居眠りをしていた僕はそのような夢を少し見た程度でした。

しかし富岡製糸場が2014年に世界遺産になるまで実際にそんな古い建物が存在しているとは思わなかったと言う人は少なくないようです。

さて日本のテレビではよく日本の民間企業の社員が海外(主に発展途上国)に出向きその地域の発展を手助けをすると言う番組をよく見かけます。
実はその昔 日本も外国から発展の手助けを受けた事がありました。それは2人のフランス人技術者の協力ののち完成した富岡製糸場でした。

時は明治5年(約140年前)の日本はまだ江戸時代が終わったばかりでまだまだ発展途上の国でした。明治維新(革命)を成し遂げたばかりの明治政府は日本の近代化を図ります。
近年アジアの多くの国がより良い暮らしをと日本を手本にしたように そのとき明治政府は当時より日本より発展していたヨーロッパを手本にしたのでした。

江戸時代の終わり頃(約150年前)からもう既に日本の生糸(きいと)は海外で大人気のようでした。
さらに明治初期(約150年前)ヨーロッパでは蚕(カイコ)が病気にかかり養蚕業(ようさんぎょう=糸生産)は壊滅状態となります。

するとますます日本の生糸に注目が集まるようになります。そうした背景を踏まえ明治政府は近代的な大きな製糸工場を造る事となりました。
そのため明治政府は当時 日本より発展していたフランス出身の才能のある技術者を2人雇う事となりました。

その一人が当時 横浜のフランス商館に勤務していたポールブリューナでした。彼はフランスの製糸工場の一人息子でした。 
ブリューナは富岡製糸場の建設から資材の調達さらには生糸の出荷まで全てを任された言わば総合プロデューサーでした。

そしてもう一人のフランス人が工場や倉庫などの建物の設計を任されたバスティアンでした。
そしてこのあと群馬県に突如として大きなフランス風の建物の工場が〃ドカーン〃と建つのでした。

学校の教科書に載っていたとされる富岡製糸場の写真 (1)
学校の教科書に載っていたとされる富岡製糸場の写真 (2)
群馬県に富岡製糸場を建てたフランス人

ーーーーーこのあとなぜ富岡製作場が富岡に建てられたのか?その経緯を説明します。

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