テスト

1940年代(約70年前)ついに生糸や絹(きぬ)に代わる全く新しい素材がアメリカで開発されてしまいました。それは化学繊維を使用したナイロンの登場でした。

そして時代は第2次世界大戦へと突入します。その頃 富岡製糸場では3つ目の民間会社でもある片倉工業が運営を開始してました。
しかしその時 工場で生産をしていたのは本来の生糸ではなく絹(きぬ)で出来たパラシュートなどの軍事製品だったそうです。

そもそも戦前 富岡製糸場では主にアメリカ向けの生糸を生産していました。しかしそのアメリカが敵国となってしまった以上 生糸を作る意味も無くなってしまったのでした。
戦争末期 日本各地の遺跡遺産がアメリカ軍の空襲で焼失して行きました。そんな中 日本のとって大事な産業遺産でもある富岡製糸場が残った事は本当に不幸中の幸いでもありました。

そして片倉工業の片倉社長は昔から富岡製糸場を手に入れたかったそうでした。過去に富岡製糸場の入札にも参加していたみたいでした。
そのため片倉社長はやる気満々で買い取った工場ですが買い取って間もなく運悪くすぐに日本は戦争に突入してしまいました。

そしてそのとき片倉社長はじっと辛抱強く戦争が終わるのを待ち続けました。そして待ちに待って終戦が訪れ日本に平和が訪れると共に日本にも好景気の風が吹いて来ました。
しかしかつて安価な生糸を求めヨーロッパから日本へ生糸産業が移って行ったように今度は日本から第3国へと産業は移って行きました。

さらに当時 好景気に沸いた日本では所得が上昇しそれに伴い生糸産業もより人件費が安い中国やインドにとって代わるようになって行きました。

そしてついに1987年(29年前)富岡製糸場は115年の歴史に幕を下ろす事になりました。
工場内には今でも昭和40年代以降(約50年前)に設置された日産製の自動製糸器(最後に生産を行った機械)がそのままの形で展示されています。

そしてその後 最後の経営者となった片倉社長は富岡製糸場の保存の分野で活躍するのでした。

約90年前 世界大恐慌は日本の繊維業にも大きなダメージを与えました。
戦後繊維関連の仕事はこれらの国が受け付く事となりました。 (1)
戦後繊維関連の仕事はこれらの国が受け付く事となりました。 (2)

ーーーーーこのあと片倉社長も頑張りますが結局最後は豊岡市が工場を買い取ることになります。 

つづきをどうぞ