テスト

ヨーロッパのお城のような近代的な工場で働く農村出身の女工たちは まるでシンデレラ気分を味わってました。
しかしながら必ずしも勉強と仕事の両立がうまく行っていたとは言えないようでした。

工場は官営(国営)企業と言う事もあり規則が厳しく さらに工場内の騒音が女工たちの勉強と生活にも支障を与えていたそうです。
さらに家柄の違う女工同士が一つ同じ屋根の下で一緒に暮らすのも問題があったようで 決して人間関係がうまく行っていたとは思えませんでした。

その事もあって やがて富岡の工場は女工(従業員)の入れ替わりが激しくなり生産がうまく回らず経営を圧迫した時期もあったそうです。

そこで女工たちの技術向上を目指して導入されたのが昇給制度でした。女工の能力別に成績を付けて1等から3等さらには8等でランク付けを行ったそうです。
この制度はフランス人のブリューナが提案したものでした。

しかしそもそも日本人は欧米人と近い競争より協力を重視する民族であったためその後の日本においてこのような制度は定着する事はありませんでした。

それでも女工たちの糸繰り(ぐり)の技術は年を追うごとに向上しやがてフランスで行われる博覧会で賞を受ける事となります。
その後 富岡製糸場が模範工場となり全国の工場が富岡の工場を手本にするようになります。

そして有り余るほどの技術を身に着けた女工が地方に里帰りし全国各地の製糸工場の技術の向上に貢献(こうけん)していったそうです。

彼女はのちに富岡製糸場での生活を本に書き作家になりました。
富岡製糸場の工場内のラジオ体操の様子
豊岡製糸場の女工たちが寝泊まりした寄宿舎です。

ーーーーーこのあと富岡製糸場の会社と経営について説明します。

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