テスト

吸血鬼の噂もあり創業当時の従業員(女工)は210人ほどでした。しかし翌年には前年の倍近くの404人の女工が集まりました。さらに女工の数はどんどんと増えて行きました。

以前フランス人技術者ブリューナが住んでいたブリューナ館は学校の校舎として使われるようになりそこでは女工たちの読み書きや裁縫の授業が行われました。
さらに工場の敷地内に寄宿舎(きしゅくしゃ)も建てられ そこでは武家や農家など様々な身分の女性が一緒になり共に生活をしたそうです。

当時はまだ江戸時代が終わったばかりで身分制度が撤廃(てっぱい)されたばかりでした。
そのため江戸時代まで位の低かった農家出身の女工たちは格上げされた気分できっと生き生きしていたに違いないでしょう

当時の農村の生活が厳し過ぎた事もあって農家出身の女工にとって工場での生活は快適その物であったそうです。

特に農村出身の女工さんは毎日お風呂に入れるのが何より嬉しかったと言ってました。現在 都市と地方の格差は中国を始め多くのアジア諸国で深刻な問題となってます。

昔から農家は貧乏暇なしと朝から晩まで休みなしで働いたそうですが富岡の工場では日曜定休の週休性を新たに導入しました。

そもそも日曜定休のシステムはキリスト教の教えから来ているそうですが日本でもその欧米式の勤務体制がこの頃 初めて取り入れられる事になりました。
さらに一日の就業時間は毎日8時間と決まり そして食事や医療の福祉も充実していたそうです。さらに年末年始は10日間の長期休暇が取れたそうです。

今の日本では当たり前となったこの欧米式の勤務体制ですが当時としては画期的システムだったそうです。

富岡製糸場で働く女工たち
錦絵に描かれた富岡製糸場の女工

ーーーーーこのあと立派に成長した女工たちのその後についてです。 

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