テスト

———————-1チベットの基本情報

※自由旅行禁止 旅行者に必ずガイドが同行

チベット(自治区以外にも青海の大半 四川の半分と雲南の一部がチベット文化圏 そのチベット文化県の面積は日本の6倍) 

昔は海だった4500年前 陸が隆起してできた  チベット人の6割が遊牧民 曼荼羅マンダラ=カラフルな砂絵カーラチャクラともいう 

基本情報 平均標高が4000メートル 普通の日本人ならちょっと歩くだけで息切れする

太陽の光がまぶしい 面積は日本の6倍 インダス川 ガンジス川 長江 黄河 の水はすべてチベットから流れている 地下資源が豊富 チベット人は宗教上の問題で鶏肉を食べない ヒツジやヤギの肉が多い 魚と野菜も食べない 野菜は育たない  チーズやバター茶が よく飲まれている

人口約600万(日本の20分の1) 人口密度は日本の6分の1 僧侶と尼さんの遊牧民が多い(全人口の10分の1の60万人)僧侶は日本でいうところのエリート大学生のように尊敬されている

今でも年4000人のチベット人僧侶がインドでチベット仏教を勉強するためにネパールに亡命してくる 

ネパールに亡命したのちインドへ向かう

チベット 遊牧民

黄金の釈迦牟尼(ムニ)像

黄金の釈迦牟尼(ムニ)像は唐から嫁いだ王から受け取った

その後仏教は土着の宗教とまじりあいチベット仏教となった

チベットはヒマラヤの壁にさえぎられた標高8000メートルの国だった 前の王朝は200年で崩壊 その後チベットにはいくつもの宗派が生まれる 

学校では中国語とチベット語の授業はあるがチベット仏教の授業がない

(チベット式の挨拶)

お互いの額を合わせる

チベット式の挨拶

(チベット高原) 

日本の6倍の面積 世界で最も広い高原 チベット高原には1500以上の湖がある

チベット高原

(祭り)

4月15日サカダワ

サカダワ
  

(チベット料理)  ツァンパ 

白い粉の様な食べ物

ツァンパ(ヤクのバター入りビスケット)
チベット料理 ツァンパ

 


(歴史)

紀元前2世紀

紀元前127年 根拠はないがチベットに初めての王朝が出来たとされている(未定)

7世紀

618年 チベット系の吐蕃と言う強力な部族がチベット一帯(青海省のあたりも)を統治する ラサは吐蕃王国の都として発展する ソンツェンガンポ王が建国した

昔のチベットは唐王朝も恐れた野蛮な国だったバクダットやインドとも戦った 

ソンツェンガンポ(初代チベット王) 7世紀 吐蕃)

7世紀(日本は奈良時代)にインドから吐蕃(チベット)に仏教が伝わった その後仏教は土着の宗教とまじりあいチベット仏教となった その他 チベット仏教もインドから伝わる インドの文字が元となったチベット文字もこのころ開発された 

※チベットでは唐(中国)よりも約700年ほど遅く仏教が伝わった。(日本仏教もチベットと同時期に発生した) 

7世紀 リッチャヴィ朝(ネパール)の王は殺害されナレーンドラ王子は吐蕃(チベット)に追放された

643年 ナレーンドラ王子(リッチャヴィ朝)はソンツェン・ガンポ王(チベット)の援軍を得てネパールの奪還根成功した

643年 西チベットにあったシャンシャン王国の王は吐蕃に殺害され 王国も吐蕃によって占領された

647年 ヴァルダナ朝(北インド)の王が後継ぎを残さず没すると王朝内で内乱が発生し唐の使節がヴァルダナ朝に捕らえられる

そこでチベットの吐蕃とネパールの王朝が8000の兵を出し唐(中国)の使節を救出にあたった

648年 文成公主(唐の王妃)と その夫(吐蕃のチベット人)が祀られたお寺 2人は制約結婚だったが唐からチベットへ貴重な仏教文化が伝わった

文成公主は多くのチベット人から親しまれている 彼女がチベットに仏教を広めた 岩山に掘られたチベット文字

文成公主亡き後 再び唐と吐蕃が争いを始める 

文成公主

649年 チベット吐蕃のソンツェン・ガンポ王が亡くなるとチベット国内で反乱が発生する 唐(中国)との争いもあり吐蕃(チベット)は衰退する

ネパール リッチャヴィ朝はチベット支配から脱却し独立国となる

ただ 唐(中国)はリッチャヴィ朝(ネパール)を吐蕃(チベット)の属国とみていた

663年 吐谷渾(とよくこんモンゴル)は吐蕃(とばんチベット系)によって滅ぼされる 

吐蕃人

674年 唐(中国)からの使節 王玄策がインド(グプタ朝)を訪問中 豪族に捕らえられた

リッチャヴィ朝(ネパール)は吐蕃(チベット)軍1200人 ネパール軍7000騎をインドのグプタ朝に派遣し唐からの使節 王玄策の救出を行った 

ナレーンドラ王子(リッチャヴィ朝)が王に就任するとその後数年間 リッチャヴィ朝(ネパール)はチベット吐蕃の傘下に入る

8世紀

703年 チベットでチベット人とネパール人が入り乱れての内乱が発生する 

704年 チベット王が死去する 内乱は王の死とともに沈静化した 

722年 吐蕃(チベット)がギルギット(パキスタン北部)を占領する

763年

吐蕃(チベット)が唐の領土6州(青海省 甘粛省など)を占領する

763年

吐蕃の長安は吐蕃に占領される チベット ラサには その時に建てられた記念碑 ゾルの外の碑 が今も残っている

781年

 唐が統治していた敦煌も11年の抵抗ののち吐蕃に制圧される

敦煌は吐蕃の支配下に入った 以後 70年間 敦煌は吐蕃が統治することとなった

唐は その後 仏教弾圧を行う 結果 莫高窟は吐蕃(チベット)の保護により守られた。

敦煌

時を同じくして中央アジアではイスラム勢力が拡大していった やがて一世を風靡したソグド人は自然消滅していった  唐も 同じく弱体する 

8世紀末 吐蕃(チベット)の侵略により古代クチャ王国は滅びた 

9世紀

9世紀になると拝金主義に走った僧侶によりチベット仏教は腐敗していく 吐蕃も分裂する

815年 唐15代皇帝は大きくなりすぎた仏教に対して弾圧をする 4800の寺院を破壊 僧侶26万人の財産没収

唐の多くの僧侶は吐蕃(チベット)が制圧した敦煌に逃げる 仏教を信仰していた吐蕃の王は唐の僧侶を大歓迎で受け入れる

吐蕃は莫高窟に新たに48の窟を増設する 実は吐蕃が唐から莫高窟を救った

莫高窟 正面 九層の寺院

842年

吐蕃が唐から奪った領土は 唐に奪い返され吐蕃は滅びた

 吐蕃の王族の一部が西チベットでグゲ王国(古格王国)を建国した

同年 インドと中国の国境近くにあるカシミール地方(西ヒマラヤ)のあたりではラダック王国が建国される

古格王国遺跡(吐蕃から独立した国)

9世紀後半 統一したチベット仏教が成立する それまでは各自 それぞれ違った形の仏教を信仰していた

9世紀末 ネパール全土を統一したグルカ王朝(ネパール)はチベットやインドにも進出する

11世紀

11世紀 チベット系の民族 タングートの首長 李元昊(りげんこう)が中国北部の平原に西夏王国を立ち上げる

内モンゴルのカラホトは西夏の中心地として栄える 

李元昊の像

13世紀

13世紀 チベットを支配下に置いたモンゴル帝国はチベット仏教の影響を受け のちにチベット仏教を信仰するようになる 以降 チベットとモンゴルは今日に至るまでの長い期間 友好関係が続く

モンゴル

北京の街を築いたモンゴル帝国はチベット仏教他様々な宗教を取り入れていたが 中でもイスラム教徒は帝国の財政を支えていた

16世紀

16世紀 シェルパ族がチベットからヒマラヤを超えてネパールにやって来る

1551年 当時 中国北部(万里の長城より北側)は北元(モンゴル系の王朝)の王 アルタン ハーン(ダライ・ラマ政権姪の名付け親)が明を脅かしていた 

そんなアルタン ハーンはモンゴル全土にチベット仏教を普及させた 

その後 アルタン ハーンの孫はチベット王国のダライ・ラマ4世となる

アルタン ハーン
内モンゴル 大招寺前のアルタイハン像

17世紀

17世紀にチベットは戦うのをやめた チベットと清朝は友好関係にあった

1630年 ラダック王国とバルティスターン王国が手を組み グゲ王国を滅ぼす

1642年 ゲルク派からなるダライダマを頂点にするチベット ダライ・ラマ政権が成立する

ダライラマ王朝

ダライラマとはモンゴル語で 大きな海のような指導者 と言う意味

モンゴル人のアルタンハーンが命名した。

初代ダライ・ラマ1世
赤枠の所が17世紀チベットが確保していた領土

さらにオイラトはチベットに4代80年続くグシハン王朝を立ち上げる

グシハン朝はダライ・ラマ政権の向上に役立った。

現在 ダライ・ラマ政権はインドで亡命政権として活動中

ラサにポカラ宮殿が建設される(屋根はネパール ネワール様式で作られた)
 

ポカラ宮殿2
ポカラ宮殿

1644年と1648年 1649年  ブータンはチベットダライ・ラマ政権の攻撃を受けるが ブータンはチベット軍との戦いに勝利 

ダライ・ラマ4世

18世紀

1718年 清がチベットに軍を派遣させる

1720年 清がチベットのダララマ6世をたてる 

一方 正当に選ばれたダライ・ラマ6世もいたが趣味の芸術に走り政治には興味がなかった

1724年 清はチベットを保護国とする

1750年 チベットは清朝の支配下にはいる ただ実効支配には至っていなかった

1788年~1792年 ネパール王国はチベットとの間に貿易(領土侵犯)で もめ事となり衝突が発生した。

チベットの宗主国 清朝が もめ事に介入し 清 ネパール戦争へと発展する

結果 清朝の勝利 その後 ネパールは清に貢物を送ることとなる

その代わりにネパールが外国勢力の攻撃を受けた時 清が援軍を送る約束をした

またこの戦いで清はチベットでも影響力を高めた

清 ネパール戦争

18世紀 日本人の河口というお坊さんが古い経典を求めて初めてヒマラヤを訪れ

インドからネパール チベットを渡った ネパールの王様とも仲が良かった

 1年半滞在し友好橋も建てられた 明治23年 帰国 本も出版されている

河口慧海(えかい)
河口慧海チベット旅行記

1689年

清はモンゴルとチベットを属国(保護下)に置いた

19世紀

19世紀 チベットもネパールも鎖国をしていたため

1814年 イギリスとネパールの間で戦争が勃発する グルカ戦争と言う 2年間 続いた戦争

戦争の原因は両国の領土拡大にあった

イギリスはチベットまで攻めるが清の軍隊に敗れる

グルカ戦争

1834年  イギリス統治とともに この地方にカシミール藩王国が出来

それに伴ってラダック王国は滅亡する そしてその後 レー王宮も人が住まなくなり廃墟となった ラダック王国はジャムー王国に併合された

1841年 清朝(中国)チベットの連合軍とシク王国(インド)との間で戦争が勃発する 結果はインド シク軍の勝利

戦後 清はチベットの関係が悪くなり 代わりにチベットとインドの関係が強固となった

1855年 ネパールチベット戦争が勃発する 当時ネパールはイギリスと清に連敗していたがチベットとの戦いで勝利した。

戦後 両国の関係改善を図ったタパタリ条約が結ばれた

20世紀

1904年 大英帝国がチベット侵攻し制圧する その際 イギリス軍により多くのチベット人が虐殺された

1905年 清朝の軍隊が四川省のチベット文化地域に進行する

1907年 イギリスはロシアの南下を恐れチベットとブータンに条約を結んだ

1910年 清朝の軍がラサに進行し陥落させる その時 ダライ・ラマ13世はインドへと逃げた

ダライラマ13世 

1911年 辛亥革命により清朝が滅び それに伴い チベットは清朝支配から脱却した。

1912年 ダライ・ラマ政権下の元 チベットは独立を果たす インドに亡命していたダライ・ラマ13世はチベットに帰国する

同じく清から独立したモンゴルはチベットと協力しお互いで独立国を維持しようと言う友好条約が結ばれた。 

1913年 ダライ・ラマ13世がチベットの独立宣言を行う

1914年 インドのシムラでイギリス 中華民国 チベットの3者でシムラ条約が結ばれた

内容は内チベット(現在のチベット自治区)を独立させるというもの(外チベットは四川や雲南も含む)しかし中華民国は それに同意しなかった

1917年~1933年の間で中華民国とチベットの間で何回か紛争が起こる

1920年 イギリスはロシアの南下と共産化に対抗するためにチベットに対して開発の援助を申し出たが断られた その後 チベットとイギリスの関係は悪化する

1930~40年 チベットのラマ僧は3~5000人いた 

1933年ダライラマ13世が崩御 それ以降 中華民国とチベットの交渉がイギリスの仲介なしで
直接行われるようになった

1935年 ダライ・ラマ14世が中国 青海省で生まれる 神のお告げを元にラサで行われた後継者会議の結果 ダライ・ラマ14世が選ばれた 14世は5歳まで故郷で暮らす 

1940年 ダライ・ラマ14世(5歳)はラサへ移りダライ・ラマ(チベットの長)に即位する 14世の家族もポカラ宮殿内の重要な職に就くことが許される

ダライラマ14世 

1949年 中国 国民党と共産党の間で再び国共内戦が勃発する

その際チベットではチベット内のすべての中国人を国外追放し チベットは国民党と共産党の両方から非難される

1949~翌50年 中国軍のチベット侵攻 

1959年 チベットで中国(共産党)軍とチベット軍の衝突が発生する チベット動乱と言う

ダライラマ14世をはじめ現在2万人のラマ僧がインドに亡命

 そのほか10万のチベット人がインドやネパールへ亡命した 

またチベットでの抵抗運動の後 中国共産党はチベット人に対して大虐殺を行った

1962年 イギリス人が勝手に引いたインドとチベットの国境線が原因となり 中印国境紛争(インドVS中国)が勃発する。

戦争の結果 中国が勝利し中国はカシミールの一部の地域の領有権を取得する

カシミール地方の国境未画定地帯

1965年 チベットは中国の自治区となった 自治とは名ばかりで共産党が派遣した人物がチベットの実権を握った 

1966年 文革で多くの寺院が破壊される チベットにおいては実に99%の寺院は破壊される
会話以外のチベット語の使用を禁止し毛沢東の思想が書かれた毛沢東語録が配布された

なお インドのチベット文化圏でもあるラダック地方は香港や台湾と同様 文革の影響を受けなかったため8世紀以降続くチベット文化が今の残っている

1967年 ラサ市内では紅衛兵同士が衝突し巻き沿いを食った多数のラサ市民が死傷した

現在 中国政府がお金を出して寺院の修復を行っている  

1974年 インドラダック地方は外国人に一般開放された

1982年 外国人旅行者がチベットを旅行できるようになった

1985年 外国人にチベットの個人旅行が認められた 一方 チベット政治犯による中国共産党の弾圧は続いた ラサだけで750人の政治犯が逮捕された

1988年 チベットの僧侶がチベット独立を叫んだのを切っ掛けに大規模なラサ暴動へと発展した。

暴動では中国人が経営する商店が焼かれた一方 中国武装警察により2500人のチベット人が逮捕され一部 虐殺が行われた

1989年にも大規模な暴動があり3000人のチベット人が逮捕され内400人が虐殺された

21世紀

2006年 チベット高原を走る青蔵鉄道が完成する 鉄道は天空のシルクロードと言われ世界一高いところを走る鉄道

2008年 チベット暴動がおこる 暴動から1年400個の監視カメラが設置された

チベット暴動2
チベット暴動

2016年 それまでチベットを統治する共産党の幹部がウイグルに移った その後 ウイグルでもチベットのように締め付けが強くなる

<目次>
1チベットの基本情報と歴史
2チベット王国の古都ラサ 
3チベット その他の名所