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サウジアラビアの歴史

紀元前3000年ごろの遺跡が見つかっている

そのころ遊牧民がシナイ半島にある砂漠のオアシスに定住し始めた

紀元前350年 マケドニアのアレクサンダー大王がサウジアラビアへやって来る

当時 サウジアラビアからヨルダンにかけてアパキア人が統治していた

アパキア人の都はペトラ(ヨルダン)に置かれた

紀元前3世紀 古代王国 ナバティア遺跡(1962年公開の映画 アラビアンロレンスのロケ地としても有名)

ナバティア遺跡
ナバティア遺跡2

6世紀 サウジアラビアはエチオピアの支配下に入る

6世紀の後半 クライシャ族の支配下にあったサウジアラビアは ペルシャの支配下に入る

570年 サウジアラビアのメッカでイスラム教の創始者 ムハンマド(クライシャ族)が生まれる

商人出身のムハンマドは40歳の時に預言者となる

当時 メッカにはイスラム教以外の様々な宗教の神殿が建てられていた。

イスラム教は まだ少数派で迫害を受けていた。

ムハンマドは その後 ヒジュラへ移住する

預言者ムハンマド

632年 メディナでムハンマドが62歳で亡くなる

その後 メッカには神殿 メディナにはモスクが建てられる メッカとメディナはイスラムの2大聖地となった

メッカとメディナにイスラエル(パレスチナ)のエルサレムを加えればイスラムの3大聖地となる

イスラム3大聖地の場所

お祈りの際 メッカとメディナから生中継の放送がある。

ムハンマドの死後 イスラム教は北アフリカで信仰が広がる シリアのウマイヤ朝やスペインまで信仰を広める

また それらの地域はイスラム王朝の支配下に置かれる

スペインはレコンキスタが登場するまで700年間イスラム支配に置かれた

当時 アラビア半島は部族間の争いが絶えず そのためイスラム王朝を政治の拠点を北アフリカに置いた

16世紀 オスマンがサウジ一帯を統治する

1744年 第1次サウド家王国が建国される

砂漠の荒れ地で豪族を束ねたサウド家が造った国家

サウド家はイスラム厳格主義を主張するワッハード家と手を結ぶ

1818年 第1次サウド家とワッハード王国はオスマンとエジプトの連合軍に攻められ滅亡する

1824年 第2次サウド家王国が建国される

ところがサウド家は北部のラッシード家の攻撃を受けクウェートに亡命する

その後 サウド家はリアドに戻り領土を奪還する

20世紀初頭 サウド家はハシム家を倒しナジド王国を立ち上げる

ナジド王国はアラビア半島全域を統治した。

1902年 アブドラアジズが40人の親族を連れ遠征に出かける

最初にリヤドを攻略した 勢力拡大の為 遊牧民族イフハーンの軍事力を利用した

アジズとイフハーンの軍隊は次々と表土を拡大し聖地メッカにまで迫った

アブドルアジズ

1926年 アブドラアジズはメッカを占領する

しかし その後 イフハーンの反乱が発生する その反乱を鎮圧したのがウラマーだった

今でもウラマーが政治の実権を握っている

1932年 第3次サウジ王国(現王朝)が立ち上がる

1938年 第2次世界大戦勃発直前にサウジアラビアで石油が見つかる(アメリカ人が5年がかりで掘り当てた) 

サウジアラビアに外国企業が次々と参入した

しかし 本格的に石油が採掘されるのは第2次大戦あと  となる

そんな中 国王に気前よく大金(前払い金)を支払ったアメリカのアラムコ会社(のちにサウジが買収しサウジアラムコとなる)が石油の利権を得た。 

サウジ国内に米軍基地が設置される

1954年 エジプトでナセルが政権を取ると エジプトとソ連が急接近し 中東の勢力バランスも大きく変わる 

同年 エジプトの国王が初めて国賓としてアメリカに招かれた

会談では米軍のダーラン海軍基地の使用を延長することが決められた

その見返りとしてサウジはアメリカから戦車や戦闘機を譲り受けた

1964年 サウド家はアメリカから受けた援助金を豪華なヨーロッパ旅行に使ったことが国民にばれウラマーの判決により国外追放となった

宮殿内の歴代 国王の肖像画も外された サウド家一行はギリシャへ亡命し余生を過ごした

 政権交代によりファイサル国王が王位につきサウジの近代化を強いられるがイスラムの伝統が大きな障害となった

ファイサルの甥が指揮するテレビ放送の禁止を求めたデモが発生する。

そのとき ムサイド王子が銃で撃たれ死去する

ファイサル

1967年 第3次中東戦争でサウジを含むアラブ連合軍は たった6日間でイスラエルに敗北する

イスラエルは建国時の4倍(聖地エルサレムを含む)の面積の領土を得ると同時に多くのアラブの文化が失われた

アメリカはイスラエルを支援していた。そのためサウジとアメリカとの関係も悪化した。

サウジ国王は たしかにヒトラーのユダヤ人大虐殺は人が人にするものではないと言いながらも

ユダヤ人がパレスチナの地を占領するのが許せなかった

ユダヤ人にドイツの土地を分け与えればいいじゃないかと最もらしい事を言った。

なおファイサル国王は第1次ダイセンの講和会議に出席し50年間パレスチナに尽くしてきた経歴を持つ

1973年 サウジは石油を減産し西側諸国に大打撃を加えた

アメリカはベトナム戦争を行うためサウジの石油を必要としていた

サウジはアメリカに妥協してアメリカへの石油の輸出を再開した。

しかし 国王は身内の皇族によって暗殺されてしまう

1975年 テレビ放送禁止を訴えたデモで殺害されたムサイド王子弟がファイサル王を暗殺する

1979年 メッカ大モスクの占拠事件が発生する。数100人による武装集団の犯行

事件現場では銃撃戦が行われたが宗教指導者ウラマーが事件の鎮圧にあたった

武装勢力に18日完成凌され 国王は ついに外国の特殊部隊に依頼し鎮圧にあたった

フランスのテロ特殊部隊は武装集団68名をとらえ次々と処刑していった。

同年 イラン革命が発生し イランはだらくしたアラブの王を批判した。

同年 ソ連がアフガンに侵攻 アメリカから武器の援助を受けたサウジアラビア人がアフガニスタンでソ連と戦った。

その中には のちにアメリカと敵対するオサマビンラディン(財閥出身のサウジアラビア人)も含まれていた。

 
1981年 湾岸6カ国(アラビア半島)による湾岸協力会議が開かれGCCが結成される

サウジアラビアなど近隣諸国との友好関係を築く

1982年 ファハドがサウジ国王に就任する ファハドは多少のカジノ好きであったが政治種案に優れていた。

原油価格が急落したため国王はイランイラク戦争時 イラクに500億ドルの支援を行った(アメリカもサウジ同様イラクを支援)

1990年の湾岸戦争では米国やサウジアラビアと同じ反イラクの立場をとる

湾岸戦争は財政アラビアの財政を圧迫した。

さらに湾岸戦争が始まると米軍がサウジアラビアに入り戦争が終わっても駐留し続ける 

アメリカはサウジアラビア人の反感を買った

1995年 リヤドで米軍を狙った爆破テロ事件が発生する

犯行はビンラディン(サウジアラビア人)率いるアルカイダの仕業だとされている

国王(首長)と皇太子は たびたび外国との外相問題で対立した

ビンラディンは王族に対しても武力闘争を開始した。

2019年 外国人旅行者の個人旅行を解禁した。


<目次>

1サウジアラビアの基本情報
2サウジアラビアの歴史
3首都リヤド聖地メッカとメディナほか
4ヒジャーズ鉄道 アルヒジェル古代遺跡ほか