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ロシアの歴史

4世紀頃 ウクライナあたりにフン族が進出 マジャール ハザールと続き

ノルマンからバイキング出身のユーリックと言う強い人を連れて来る

紀元1世紀 862年 今のバルト3国辺りにノゴボルドと言う国を立ち上げる 

 キエフと言う人物がウクライナあたりで国を興す

1200年(13世紀)頃 モンゴル帝国(タタール人も)が攻めて来る 

ロシアのあたりはタタール人にも占領される

40年ほど遅れてモンゴル軍は日本にまでやって来る 

当時日本は鎌倉時代で刀や弓を使用 一方 モンゴル軍は大砲を使っていた

しかし台風が日本に味方し台風のおかげで船でやって来たモンゴル軍を撃退した

陸での戦いでは無敵を誇ったモンゴル軍も船に乗った戦いには弱かった

モンゴル軍は東南アジアのベトナム攻略にも失敗している

13世紀~15世紀 1243~1400年頃 キプチュハン国 のちのモスクワ公国 その後 

ポーランドなど いろいろな国と戦争を起こす

17世紀 1612年 ドミトリボジャルスキー国民軍がモスクワに侵攻しポーランド軍を撤退させる

ミハイルルマノフが皇帝に昇進しロマノフ王朝が始まる

歴代皇帝の名は3000ある候補の中から選ばれるが大体同じ名前が多い

 

2頭のワシはロマノフ王朝のシンボル

大地主が農民を奴隷のように扱う時代が長く続く 

そして たびたび反乱がおこるが どれも失敗する

当時は今よりももっとロシアは西ヨーロッパより遅れていた

17世紀~18世紀 1682~1725年 

ロシア皇帝 ピョードル一世が それまで弱かった 海軍を強化

ピョードル一世

ピョードルは凍らない港が欲しかったためスウェーデンと戦争を起こした

ロシアを発展に導いたピョードル皇帝の評価は高い 

一方 家族とは敵対し 何度も家族に殺されそうになっている

ピョードルもまた家族を処刑している 

妻エカテリーナの浮気相手の男はエカテリーナの目の前で処刑された

大皇帝ピョードルの最後は座礁した船を助けた際 ケガと病気を患い亡くなっている 52歳だった

そのあと 妻エカテリーナが帝政ロシアの女帝となる その後何度も クーデターを繰り返す

7年戦争ではオーストリア フランスと手を組み 

プロイセン(現ドイツ)を破り ベルリンを占領したこともあった

エカテリーナの後 おいのピョードル3世が皇帝の座に就く 

皇帝はドイツ プロイセン フドーロリッヒ大王と手を組み 

ドイツ人と結婚し ドイツかぶれと呼ばれるようになる その不評だった皇帝は追放され 

代わりにエカテリーナ(皇帝の奥さんドイツ人)が皇帝の代わりに女帝となる

女帝は ボルジョイ劇場やエルミタージュ美術館などロシアの文化面で活躍する

一方 露土戦争(ロシアトルコ戦争※ロシアの負け)やポーランド分割(一回目)も行った

露土戦争


エカテリーナ2世の後を継ぐのが

バーベル1世(在位期間1796~1801年)弱い皇帝であったためクーデターで失脚

次にエカテリーナ2世の孫 アレクサンダー1世が皇帝に次ぐ 

この皇帝は教育に力を入れ大学などを開設した

クーデターで失脚したバーベル皇帝は

ナポレオン(フランス)と手を組んでいたがアレクサンダー皇帝は手を切った

代わりにイギリスやオーストリア スウェーデンと手を組んだ

露土戦争ではオスマンからエッサラビアの領土を獲得する(今のイランからグルジアまでの領土)

しかしその後 ロシアはフランス ナポレオンに攻められロシアは自国の町を焼き払いながら撤退する

ナポレオン

9月ついにモスクワもナポレオンの手によって陥落する しかし冬将軍の到来とともに燃料が付き

暖もとれない状態でナポレオン軍はモスクワから撤退する(第2次大戦中ドイツ ナチスが同じ事情で撤退する)

その後 ナポレオンはイタリアのエルパ島へ抑留される しかしナポレオンはその島から脱失する

だが その後ナポレオンは捕まってしまい 

今度はアフリカの絶対の孤島 セントエレナ島へ抑留され ナポレオンはその島で亡くなる

ウィーン会議ではナポレオン亡き後の領土分配の話がなされていた 

一方ロシア(ロマノフ朝)は アレクサンダーの弟が皇帝の後を継いだ

南下し3回目の露土戦争(ロシアトルコ戦争)を起こしオスマンに連勝する(※ロシアの2勝1敗)

ステファノ条約を結び 東ヨーロッパ のオスマンの支配下にあったブルガリアなどの国々が独立を果たす。

しかしその後ロシアはクリミア戦争(イギリス フランス オスマン対イタリア サルギニア ロシア)で敗北する

クリミア戦争

ロシア最大の要塞セバトスポリも陥落する しかし今でもウクライナ 

クリミア半島の付け根にはロシア軍基地がある 黒海に面した要塞のような場所

クリミア戦争に負けたロシアは国内改革に乗り出す 農奴解放令(のうどかいほうれい)徴兵制などの改革

日本の明治維新のあとの富国強兵によく似ている

アレクサンドロス2世は農民の味方だったが国民と対立し暗殺される 続いて息子のアレクサンダー3世が後を継ぐ

3世は父と違い独裁政治を行う 続いてニコライ二世が帝国最後の皇帝につく  

この皇帝は滋賀県 大津市を訪問中に切りつけられる事件に遭遇している

1904年の日露戦争の敗北が翌年のロシア革命につながる

 

日露戦争

日露戦争

ロシア国内では反政府デモ 血の日曜日事件が発生する

血の日曜日事件
 

ロシア革命にはアメリカ イギリス 日本からも出兵する(ロマノフ王朝を援助)

農民をはじめ10万人のロシア人が皇帝の住む冬の宮殿めざし行進した 軍が発砲し100人ほどが亡くなった  
   
大規模なストライキから2月革命が発生し 3月にニコライ3世が退位する

第一次大戦後の1917年 革命から5年 10月革命でレーニンがリーダーとなり

1922年  ソビエト連邦が誕生する 

 

ソビエト連邦 国旗

ソビエト連邦 国旗
 

 ニコライは弟のミハイルに政権を譲ろうとしたが断られた その時304年も続いたロマノフ王朝は終焉を迎えた

(同年)300年続いたロマネフ王朝が崩壊  当時は世界第2位の金の保有国だった

ウィキペディアにはロシア革命の際 ロマノフ王朝の一家は皆殺しとなり 

その事実はソビエト崩壊ののち明らかになったと書いてある

ソ連 建国の2年後 レーニンは亡くなる

独裁者スターリンがソ連のリーダーとなる スターリンはポーランドの捕虜 2万人を銃殺し

100万人を粛正する  第2次大戦の戦死者数はソ連が一番多く2000万人の人が亡くなっている

戦後は集団農業の失敗で24万人が餓死等で亡くなる

ただロシアの発表では合計1200万が亡くなったとされている ソ連は たった74年で崩壊

ソ連邦崩壊

<目次>
1基本情報とロシア料理
2ロシアの歴史