テスト

19世紀末 クリミア戦争後のロシア

1878年 – 1881年 第2次アフガン戦争 (イギリス アフガニスタン対 帝政ロシアの戦争)

イギリスはアフガンを援助することでこの地方の影響力を強め のちの植民地化につながる
戦争はイギリス アフガン軍の勝利 イギリスはロシアの南下を阻止した

アフガニスタンの場所
第2次アフガン戦争

1881年 テロ事件によりアレクサンドル2世が暗殺される 続いて息子のアレクサンドル3世が後を継ぐ

アレクサンドル3世は2世の父と違い独裁政治を行う 3世は無政府主義運動を徹底的に市民を弾圧した

アレクサンドル3世

1894年 続いてニコライ2世が帝国最後の皇帝につく 

ニコライ2世
 

この皇帝は滋賀県 大津市を訪問中に切りつけられる事件に遭遇している。

皇帝は当時ロシアの領土にあったフィンランドの締め付けを強化した

フィンランド人にフィンランド語を禁止しロシア語を強制した。

1895年 帝政ロシア(ロマノフ朝)は日本が日清戦争で手に入れた。清(現 中国)東北部の遼寧半島の領土を狙っていた。

中国  遼寧半島の場所

ロシアはヨーロッパでドイツをフランスを仲間につけ 日本に清(中国 大連)遼寧半島を引き渡せと要求する それを三国干渉と言う

日本はロシアとの戦争を避けたかったので清(中国)遼寧半島をロシアに引き渡した。

その後 ロシアは大連を含む遼寧省だけでなく吉林省や黒竜江省など清朝(中国)東北地方の すべて占領する

今でも中国東北部には当時ロシア人が作った大聖堂やロシア人街など多くのロシア風の建物が残っている

ハルビン 聖ソフィア大聖堂(20世紀) 中華民国時代ロシア人が建設
ハルビン 聖ソフィア大聖堂 内部

20世紀

20世紀 1904年~翌年  中国東北部を占領した帝政ロシア(ロマノフ朝)は当時 日本(明治政府)が占領していた朝鮮半島にまで攻めてきた。 

日本(明治政府)は国土防衛のために立ち上がった そしてそこに日露戦争が勃発した。

日露戦争はロシアの敗北に終わり日本はこの勝利でロシアから中国東北部(満州)の領有権と さらに樺太の南半分の領地(現ロシア領)を獲得した

帝政ロシアの敗北は翌年のロシア革命につながる

日露戦争

日露戦争

日露戦争のさなかロシア国内では反政府デモ 血の日曜日事件が発生する

サンクトペテンブルクで起こった労働者デモに軍が出動し血みどろの惨事となった

血の日曜日事件
 

1905年 フィンランド全土で大ストライキが決行され さらにロシア総督も暗殺された。
その後 ロシア人のフィンランド締め付けは緩くなった 

1914年 サラエヴォ事件を切っ掛けに第1次世界大戦が勃発する 帝政ロシアはイギリスフランス組の連合国側として参戦する 

しかしタンネンベルクの戦いでドイツに完敗を期す その後も徹底打が打ち出せずロシアの戦死者は増える一方であった 

そのためロシア国民はロシア ロマノフ王朝への不満がつのっていった

サラエヴォ事件
タンネンベルクの戦い

1915年 当時 国を持たなかったアルメニア人たちは今よりももっと広い範囲で暮らしていた。

そこへ新たな領土を求めてロシア(ロマノフ朝)とオスマン帝国がやって来た。

やがて両国の紛争に発展しアルメニア人もその争いに巻き込まれることになる 

アルメニア人が住んでいた領土は帝政ロシアとオスマン帝国によって分割統治されることになる 

同年(1915) ロシア ロマノフ朝の支配下にあったフィンランドでは内戦が勃発する

1917年 2年間続いた内戦の結果 フィンランド人は やっと独立を勝ち取った

(同年) ロシア革命にはアメリカ イギリス 日本からも出兵する(ロマノフ王朝を援助)

農民をはじめ10万人のロシア人が皇帝の住む冬の宮殿めざし行進した そこへ軍がデモ隊目掛け発砲し100人ほどが亡くなった  
   
大規模なストライキから2月革命が発生し 3月にニコライ3世が退位する

ロシア皇帝ニコライは弟のミハイルに政権を譲ろうとしたが断られた (同年)304年続いたロマノフ王朝は崩壊した 

ロマノフ王朝崩壊後 ロシア内戦へと続く 内戦は外国の勢力の参入もあり様々な勢力が入り乱れての激戦となった 

ロシア革命
ロシア内戦

1918年 2月 バルト三国のエストニアが独立宣言をする 11月にはラトビアとリトアニアも独立する

バルト三国 エストニアの場所

エストニア国内にエストニア民族政権とエストニア共産党と言う2つの勢力が出来 武力衝突を起こす 

さらにドイツ義勇軍とソビエトロシア軍が攻めて来る エストニア自由戦争が勃発する 

エストニア共産党はモスクワの共産党(のちのソ連)に協力を求める 内戦はロシアにまで拡大した

社会主義を嫌うチャーチル率いるイギリス軍も参戦 バルト海に戦艦を送った

戦争は2年間続いたのち共産党軍(のちのソ連)が負け イギリスの協力を得たエストニア民族政権の勝利 その後 平和条約が結ばれる

エストニアはほかのヨーロッパの国々と同じように国連に加盟した そして1921年には日本もエストニアの独立を承認している 

1919年 ポーランドソビエト戦争が勃発する 結果はイギリスとフランスの支援を受けたポーランドの勝利

ポーランドソビエト戦争

ポーランドはロシア(すでに崩壊したロマノフ朝)から多くの領土を獲得する

それらの地域は のちにチェコやスロバニアやルーマニアとなって独立する

チェコ スロバキア ハンガリー の地図

1920年 中央アジアのウズベキスタンの歴代ブラハ ハンの居城として使われてきた。2000年以上の歴史があったアルク城が共産党軍(ソ連)に占拠される

アルク城

1922年  ロシア革命以降6年間続いた内戦はモスクワ共産党からなる赤軍(ソ連)の勝利で終わる

しかし内戦の被害は大きく ロシアはより一層比叡した 工業生産は戦前の7分の1 穀物生産も5分の1に減少した

また内戦中 ロマノフ王朝の一家は皆殺しとなり その事実はソビエト崩壊ののち明らかになった  

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<目次>
1 基本情報とロシア料理

(歴史1) 4世紀キエフ時代から17世紀のロマノフ朝ピョードルまで

(歴史2) 18世紀のロマノフ王朝ロシア時代

(歴史3) 19世紀のロマノフ朝ロシアとクリミア戦争まで

(歴史4) 19世紀末~20世紀 ロシア革命とロシア内戦まで 

(歴史5) 20世紀 ソ連邦の誕生と第2次世界大戦まで

(歴史6) 20世紀と21世紀 ソ連邦崩壊から現在まで