テスト

18世紀 (中央アジア ロシア ヨーロッパ)

1703年 モンゴル系の民族がカザフハン国(現カザフスタン)に攻めてくる 
カザフ国は防衛のためロシア(ロマノフ朝)と同盟を結ぶ 

やがてロシアからカザフスタンにコサック兵(ウクライナ系)が派遣される 
そしてそのままカザフハン国はロシアにより乗っ取られてしまう

カザフ族
コサック兵が得意なコサックダンス

18世紀(1700~1721年) 大北方戦争が起こりバルト海(バルト三国)の支配権がスウェーデンから帝政ロシアへ移る

ロシア(ロマノフ朝)のピョードル皇帝は急激な近代化を図る

 ロシアのエリート層に多くのエストニア人がついた 当時 ロシアのエストニア統治は緩かった

大北方戦争

18世紀 1725年 大皇帝ピョードルの最後は座礁した船を助けた際 ケガと病気を患い亡くなっている 52歳だった

そのあと 妻エカテリーナが帝政ロシアの女帝となる その後何度も クーデターを繰り返す

エカテリーナ1世

1741年 ロシア人のベーリングがアラスカを発見し アラスカは120年間 ロシア(ロマノフ朝)の領土となる

その時 ロシアロマノフ朝が人類史上最大の領土を獲得する 帝政ロシアの当時の領土の広さは13世紀のモンゴル帝国以上 (※ただ寒すぎて人が住みずらいと言う難点もある)

世界一広大な領土を獲得したロシア ロマノフ朝

ロシア人がアラスカに入植してきたときに建てられたロシア正教会が今もアラスカに残っている

聖ミカエル教会(1844) 19世紀 帝政ロシア(ロマノフ王朝)  

ロシア人は豊富な毛皮(ラッコ アザラシなど)を求めてアラスカに進出
 しかし 乱獲で動物が減少

ラッコ
アザラシ

ロシアの南下を恐れ スペインがメキシコからアラスカに探検家を送っていた

探検家は本土から人が住んでいないところを植民地にするように命令を受けていた

当時 イギリスやアメリカもアラスカを狙っていた。ジェームスクック(イギリス)もアラスカに到達していた。

エカテリーナの後 おいのピョードル3世が皇帝の座に就く 皇帝はドイツ プロイセン フドーロリッヒ大王と手を組み さらにドイツ人と結婚した 

ドイツかぶれと呼ばれるようになり皇帝は追放され 

ピョードル3世

1762年 代わりにエカテリーナ2世(皇帝の奥さんドイツ人)が皇帝の代わりに女帝となる エカテリーナ2世ロシアの近代化を図るは

エカテリーナ2世

エカテリーナ2世は ボルジョイ劇場やエルミタージュ美術館を建設するなどロシアの文化面で活躍する

ボリジョイ劇場 バレエ
エルミタージュ美術館(冬宮)

1763年終結の7年戦争ではオーストリア フランスと手を組み イギリス プロイセン(現ドイツ)と戦った 

一時は ベルリンを占領したこともあったが 最後はフランス ロシア組の敗北に終わった

7年戦争

  

1772年 ロシア プロイセン(ドイツ) ハプスブルク(オーストリア)による1回目のポーランド分割が起こる

ベラルーシ東部は帝政ロシアに編入される

女帝エカテリーナ2世は クリミア半島の領有権を手にするため オスマントルコに宣戦布告する

クリミア半島の場所

露土戦争(何度か行われたオスマンVSロシア戦争の一つ)=ロシア王朝VSオスマントルコ(1768~1774年)の勃発となる 一回目はロシア(ロマノフ朝)の勝利 ※クリミア戦争と第1次世界大戦を合わせるとロシアとオスマンの戦争は全部で12回行われておりロシアの8勝2敗2引き分けと 圧倒的に分がいい※

露土戦争

ロシアは露土戦争(ロシアトルコ戦争)で広大な領土を獲得したがのちの時代それがチェチェン紛争の原因となった

クリミア半島はロシアの占領地となったが住民の多くはイスラム教徒でオスマンを支持していた

そこでエカテリーナ2世は ポチョムキン(兵士)を派遣し強制的にロシア化を図る

ウクライナの観光名所

映画 ポチョムキンの戦艦や観光名所 ポチョムキンの階段で知られるあのポチョムキン

ポチョムキンの戦艦
ポチョムキンの階段

さらにロマノフ朝ロシアはアメリカ独立戦争にも干渉し、加えて日本の千島列島にも進出した

18世紀末 スウェーデン グスタフ3世ははロシアと戦争をしたがっていたが議会が承知してくれなかった 

そこでグスタフは我が部隊を偽ロシア兵に襲わせ でっち上げの口実を作ることにした

この作戦は見事に成功し議会を動かし開戦に踏み切った 開戦から2年後 スウェーデン軍は見事にロシア軍を打ち負かした

グスタフ3世(スウェーデン人)

1787年 第2次露土戦争(ロシアVSオスマン)が起こる クルミア半島のロシア化が戦争勃発の原因となった  

ロシア側にはオーストリア(ハプスブルク)がつく 一方 オスマンにイギリスとスウェーデンがつくが しかし両国は のちに手を引く

その結果 2回目もロシアの勝利(連勝)となり クリミア半島は完全にロシアの領土となる  

1792年 ロシアの使節ラックスマンが乗った船が根室を通り

北海道の一番東から北海道の一番西の松前(函館)に貿易を求めて やって来た 

当時 まだ鎖国を行っていた江戸幕府はそのロシア船を追い返した。

ロシアの使節ラックスマン

1793年  第二次ポーランド分割により 支配者はポーランドから帝政ロシア(ロマノフ王朝)へと移る ベラルーシの中央部も帝政ロシアに編入される

1795年 第3回のポーランド分割では ポーランドは一時 地図上から滅亡する

ポーランドの場所

それによりウクライナの西半分も帝政ロシア領となる 

今の領土の8割が帝政ロシア領となり 小ロシアと呼ばれるようになる

残りの2割はオーストリア ハプスブルク帝国の領土となる この状態が第1次大戦終結までの約120年間続く 

またベラルーシは全土が帝政ロシア領となる

ベラルーシの場所

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<目次>
1 基本情報とロシア料理

(歴史1) 4世紀キエフ時代から17世紀のロマノフ朝ピョードルまで

(歴史2) 18世紀のロマノフ王朝ロシア時代

(歴史3) 19世紀のロマノフ朝ロシアとクリミア戦争まで

(歴史4) 19世紀末~20世紀 ロシア革命とロシア内戦まで 

(歴史5) 20世紀 ソ連邦の誕生と第2次世界大戦まで

(歴史6) 20世紀と21世紀 ソ連邦崩壊から現在まで