テスト

<基本情報> フランス領の島

位置はニュージーランドの北でオーストラリアの東 大きさは日本の四国ほど 

季節は日本と逆 日本が夏の時カレドニアが冬で日本が冬の時はカレドニアは夏

ニューカレドニアの場所
ニューカレドニアの地図

本土をグランドテール島と言いい南北400キロの細長い島 ミクロネシアやポリネシアに比べると大きい

台湾や東南アジアがルーツの原住民 カナック人が40% アジアとヨーロッパ系が それぞれ30%ずつ

ヨーロッパ系白人はフランス人が多い

原住民2
原住民 (1)
原住民 (2)

(公用語)
公用語はフランス語 日本人移民も多く日本語もよく通じる 

島民はとても親日的で日本人が市場を歩けば〃おみやげ〃と日本語で声をかけられ果物を無料で手渡してくれえる

ただし地方では日本語はもちろん英語も通じない

(宗教)
日本からの距離は約7000キロ 宗教はキリスト教 カトリックが60%でプロテスタントが30%

もともとはフランス人宣教師がカトリックを広め イギリス人がプロテスタントを広めた

教会のステンドグラスに白人が島に上陸する絵が描かれている 

白人宣教師が島に降り立った時の様子

白人が島へ初上陸したその年 農作物が不作であったため原住民は白人を嫌った

原住民の間で不作は白人のせいだとうわさが立ち とうとう一人の白人宣教師が殺されてしまう

島に不作を持ち込んだとして白人宣教師を処刑する

しかし それから長い月日がたち19~20世紀にかけて先住民のほとんどのメラネシア人がキリスト教徒に改宗された

一般的なキリスト像(白人)以外に褐色のメラネシア人のキリスト像(偽物)の像もある

ニューカレドニア独自のキリスト像

(国名の由来)
ニュー(新)は英語でカレドニアはスコットランドのラテン語 地元の人はニューカレドニアの事をカラーキー島と言う

1960年代大ヒットベストセラーになった小説 天国に一番近い島 の舞台になった 

通貨はフランス領ポリネシアのパシフィックフランを使用

パシフィックフラン

(歴史)約3000年前 今の先住民にあたる人の先祖が東南アジアの方からカヤックに乗って島へ上陸した。

1744年 初めて文献にニューカレドニアが登場する 白人で最初に島を見つけたのはイギリス人のクック船長だった

それから数年後 フランス人が島に上陸する そして木材を求めフランス イギリス両国の商人が島を多く訪れる 

断崖絶壁を切り開き港が作られた 島は1853年までフランスとイギリスの共同統治が続く 

しかし その後 フランスがイギリスに戦争で勝ち フランスがニューカレドニアを統治することとなる 

イギリスはオーストラリアを開拓するために700人の囚人をシドニー送った
 
それから65年以上後にフランスもニューカレドニアを開拓するために本土から4万人の囚人を島へ送り込んだ

フランスは1864年から34年間も流刑地として囚人を送り続けた

ニューカレドニアに送られた囚人は その後 約30年間 島の発展に尽くした 
 
そんな中 フランスで暴動が起こりその時の政治犯もこの島へ送られてきた。

送り込まれた政治犯は 貧しいフランス人が多かった その中の一人 詩人でもあるルイーズは

原住民にフランス語と革命の精神パルコムンを教えていた

1878年 ついにメラネシア人の大蜂起(だいほうき=革命)に発展する フランス軍が動員され革命はあえなく失敗に終わる

その後も何度か革命運動が繰り返されるが成功には至らない

メラネシア人の大蜂起

(転機)
フランス人が島でニッケル(ステンレスの材料)を発見する。すると世界中の人がこの島に集まった。

1905年 ニューカレドニアから日本へニッケル関連の仕事の労働者募集の声がかかった

1905年 船でニューカレドニアにやって来た日本人
ニッケルの採掘現場

明治時代 短期労働が条件だが 日本から600人の日本人が自主的に島に移住 特に九州 沖縄からの移住者が多かった

危険な作業に狭い小屋に20~30人 一緒に暮らした。鉱山を逃げ出した日本人は農業に重視した。

日本人は野菜作りが得意でニューカレドニアの農業の基盤を作ったのは その時の日本人だった

日本人を乗せてやってきた船

その後 20年間(1919年までに)で5700人の日本人が島に移住した。当時の日本人は島全体の人口の5%を占めていた。

しかし1941年 第2次大戦が始まると島の日本人は強制的に収容所に送り込まれてしまう

中にはニューカレドニアからオーストラリアの収容所に送られた日本人もいた

収容所で差別を受けながら亡くなっていった日本人も少なからずいる 首都ヌメアには日本人の墓石が建っている

ヌメア 日本人墓地

戦争が終わると島に住んでた日本人の多くが強制的に日本へ帰国させられた それでも現在8000人の日系人が島で暮らしている

なおニッケルの採掘は今も行われていて日本の50円玉や100円玉にも使用されている

ただ現在 ニューカレドニアの経済は観光業で潤っている

(島に再び独立の機運が高まる)
1960代に入り 島民に再び独立の機運が高まる 原因は原住民と白人との間にあった格差と差別であった

独立運動は留学生が原動力となった 1987年 独立運動は激化し戒厳令がひかれる

運動は裁判官やフランス人が殺されるまでに激化 ついにフランスから特殊部隊が出動し鎮圧を行った

対応に困ったフランス政府は1988年ころから自治区を認めるようになった

2018年に独立を問う選挙が行われたが独立反対派が過半数の56%の票を取り 結果 フランス統治に留まることとなった。

ニューカレドニア 国旗


<もくじ>
1歴史と基本情報
2首都ヌメアとその他の島々