テスト

1220年~1223年
 朝鮮統一王朝の高麗はモンゴル帝国の属国となる

朝鮮半島の地図

1221年から1327年までの7年間
 モンゴル帝国はインドやパキスタンに侵攻し何度か攻撃を加える

モンゴル インド侵攻

パキスタンやパンジャーブ地方(中国の隣)は数十年に渡りモンゴル帝国の支配下に入った

デリースルタン朝もモンゴル軍の攻撃を何度も受けたが撃退した。

デリースルタン朝(イスラム)とヴィジャヤナガル王国(ヒンドゥー)の場所

同年(1221年)
モンゴル軍がグルジア(現ジョージア)へ侵攻した。

ジョージアワイン2

同年(1221年)
モンゴル帝国とホラズムシャー朝(ペルシャ)アフガニスタン パルヴァーンで衝突 パルワーンの戦い チンギスハーン時代のモンゴル軍が唯一敗れた戦い

パルヴァーン州

同年(1221年)
モンゴル帝国とホラズムシャー朝(ペルシャ)がパキスタンで衝突する インダス河畔の戦い 戦いはモンゴル軍が勝利した。

インダス河畔の戦い

1223年
モンゴル軍 ヴォルガ・ブルガール侵攻(現 ロシア タタールスタン共和国)計4回行われた戦闘はモンゴル軍の圧勝だった

ロシア タタールスタン共和国 の場所
タタールスタン共和国

1223年
モンゴル軍がアルメニアに侵攻した。

アルメニアの場所

ウクライナでキエフ公国(ロシア)など4つの連合国軍とモンゴル帝国軍が衝突した。カルカ河畔の戦いが起こる。兵力(人数)で勝った連合軍だが結束力にかけ大敗 モンゴル軍が圧勝した

カルカ河畔の戦いを描いた絵

ウクライナ連合軍は50万の犠牲者を出し人口は半分に激減した。

この敗北を機にスラブ人は分断され ロシア人 ウクライナ人 ベラルーシ人の3つの民族に分裂した。

スラブ人2

1225年
 高麗がモンゴル帝国からの使者を殺害する事件が発生する しかし その時 チンギスハーンは遠征中で高麗はモンゴル帝国の報復を免れた

1227年
 モンゴル帝国は西夏(中国北部)を攻める さらに西夏は大地震に見舞われ滅亡する

西夏王陵2

同年
 チンギスはーが亡くなる チンギスハーンの残虐な話は 大げさに造られた話が多いとされている

またチンギスハーンの死後 10万の兵のうち8割が4男のトルイが相続した。

一方2代目皇帝は3男のオゴデイが継いだ

2代目 オゴデイ ハン
チンギスハーンの葬儀の様子

1230年
第二次対金戦争 モンゴル軍は河南省 開封へ逃れていた金王朝に再び攻撃を仕掛ける 

1231年
 ホラズムシャー朝(ペルシャ)はモンゴル帝国によって滅ぼされる。

1231年から1273年

(日本の蒙古襲来より約50年前)

42年間で6回の攻撃を受ける

2代目 オゴデイは高麗に(モンゴル使者殺害事件)の報復攻撃をするとの通達を出す。そしてモンゴルの朝鮮侵攻が始まった。

まもなく高麗の首都ケソン(現 北朝鮮)が陥落した。

モンゴルは高麗に対し1万枚の毛皮、2万頭の馬、100万人分の軍服および大量の奴隷を要求した。

モンゴル 対 高麗
モンゴル高麗 戦争

1232年
 チンギスハーンの4男 トルイが金(中国東北部の満州国の国)との戦いで命を落とす。

同年
 高麗(朝鮮)ではモンゴル帝国の官僚ら72人全員殺害される

高麗は次のモンゴル侵攻に備え江華島(カンファド=ソウル郊外)に要塞を構え 海への戦いに誘い込む作戦に出た。まもなくモンゴルは2度目の朝鮮侵攻を行い北朝鮮を超え韓国まで攻めたが失敗に終わり撤退した。

江華島の場所
江華島

1234年
 河南省 開封へ逃れていた金王朝が 2代目皇帝(チンギスハーンの息子)オゴタイ率いるモンゴル帝国によって滅ぼされる

1235年
 2代目 オゴデイ ハンがモンゴル高原のカラコルム(モンゴル)に宮殿と城壁を築き都を構える カラコルムはモンゴル帝国最初の首都となる

カラコルム

1235年(同年)
モンゴル軍 カシミール(インド パキスタン)へ進行する

インド パキスタンの紛争地帯 カシミール

同時に別のモンゴルの部隊がパキスタン ペシャワールに侵攻した

ペシャワール 旧市街

また20〜30kmおきに宿舎を構え帝国内の伝達を効率よく行った

同年(1235年)
モンゴルの3度目の高麗(朝鮮)侵攻で江華島(韓国)は陥落した。

1238年
シチ川の戦い チンギスハーンの孫 バトゥ率いるモンゴル軍がロシア東北部のウラジミール大公国を攻め落とす

ウスペンスキー大聖堂(ウラジミール)2

同年
 モンゴル軍はクリミア(ウクライナ)とモルドヴァにも攻撃を加えた

クリミア半島の場所

ちょうどそのころモンゴル帝国 第3代皇帝 グユクもイラン系遊牧民のアラン人を支配下に置いた 

同年
高麗は一般の人を皇族と偽り奴隷としてモンゴル帝国に差し出した。奴隷を引き取ったモンゴル軍は とりあえず朝鮮から撤退した。

1240年
 キエフの戦い モンゴル軍がウクライナに侵攻して始まったモンゴル帝国 対 キエフ公国(ウクライナ)との戦争

モンゴル軍は32の投石機で攻撃を仕掛けた 大敗を期したキエフ公国は滅亡した。 キエフの人口は5万から2千人へと激減した。

ウクライナと首都キエフの場所
キエフの戦い
現在のキエフ
投石機

同年
モンゴル軍は ポーランドへ侵攻した。

トゥルスクの戦いでモンゴル軍は圧勝した

ポーランドの場所

1241年
 チンギスの孫バトゥ軍はドイツ ポーランドの連合軍との戦いで大勝利を収める

フミェルニクの戦い レグニツァの戦い モヒの戦い が一昨年から続いて行われ戦闘は4回ともモンゴル軍が勝利した。

フミェルニクの戦い レグニツァの戦い モヒの戦い

同年(1241年)
 バトゥ率いるモンゴル軍はハンガリーに侵攻してハンガリーを降伏させた。

ハンガリーの場所

同年(1241年)
モンゴル軍はパキスタン(インド国境)ラホールを包囲した。

ラホール フォート3

同年(1241年)
モンゴル帝国2代目皇帝でチンギスハーンの3男オゴデイが急死する。その後 皇帝不在の期間が5年続く 

1242年
モンゴル軍はチェコのモラヴィアやオーストリアまで攻めるが 軍は2代目皇帝 死去の知らせを聞き撤退した。

オーストリアの場所
チェコの場所

1243年
 バトゥは南ロシアにキプチャクハン国と言うモンゴル帝国とは別の政権を立ち上げる

キプチャクハン国の領土

同年(1243年)
モンゴル帝国はキョセ・ダグの戦いで トルコ セルジューク朝とトレビゾンド帝国に圧勝する この戦いを機にグルジア(ジョージア)もモンゴル軍に従うようになった。

キョセ・ダグの戦い

1246年
 チンギスハーンの孫 グユク(病弱)が第3代皇帝の座に就くが就任2年で病死する

同年(1247年)
モンゴル帝国は さらなる奴隷を求めて朝鮮へ攻め込む 4度目の朝鮮侵攻は3年間続いた 

1248年
 三代目皇帝 グユクは軍を率いてバトゥ征伐に向かう あわや内戦勃発と言うところでグユクは遠征途中で病死する

3代目 グユク

1251年
 モンゴル帝国 第4代皇帝に モンケ(クビライハーン(5代目)の兄)が即位する

その後 モンケとバトゥは手を組み グユクたちのオゴタイ家やチャガタイ家と対立する

1253年
 モンゴル帝国は6度目の朝鮮侵攻を行う 最後の高麗(朝鮮)との戦いは6年に及んだ

同年(1253年)
 クビライ(弟)が4代目モンケ(兄)の命を受け雲南省の大理(国)を制圧する

大理の場所

クビライは内モンゴルに開平府(上都=世界遺産)に都城を築き南宋や高麗との戦いに備えた

クビライ

1256年
 モンケは弟のクビライの功績を妬みクビライを解任してしまう

1257年
 モンゴル帝国はイラン高原を征服する

イランの場所
イラン高原

1258年 
チンギスハーンの孫 フラグがイスラム王朝のアッパース朝(イラク シリアなど)を滅ぼし (アッパース朝はのちの時代に復活する)

アッパース朝 支配地域の地図

バクダードの戦いでは80万人ないし200万人が戦死したと言われている 多くの貴重な書物や文物も焼かれてしまった。

バグダードの戦い イラクにおける蒙古襲来の様子

同年
今のイランからトルコにかけ広大な領土を持ったイルハン国を立ち上げる

トルコの場所
中東イルハン国の領土

<目次>
1 国家創設~帝国誕生(紀元前~13世紀初期)
2 モンゴル帝国①ヨーロッパ中東 遠征(13~14世紀)
3 モンゴル帝国②アジア遠征(14世紀)
4 清朝 ソ連支配~独立(15世紀~現在)