テスト

(歴史)

紀元前60万世紀
の頃の恐竜の卵の化石 モンゴルで見つかる

紀元前20世紀~紀元前15世紀

オーシギン ウブリーン遺跡(モンゴル)鹿石からなる遺跡 

元前10世紀~紀元前6世紀
のモンゴルの草原に人工的に建てられた石柱が今も残っている

鹿石(ルーシー)

紀元前4世紀
 モンゴルが匈奴の支配下にあったころの墓が今でも残っている

6世紀
 モンゴルとカザフスタンを支配していた突厥の王冠他金銀財宝2300点がモンゴルで見つかった

8世紀
 

モンゴル国のオルホン川西岸にウイグル可汗国がハル ボヘン バルガス遺跡を建設した。

11世紀
 チベット系の民族 タングートの首長 李元昊(りげんこう)が中国北部の平原に西夏王国を立ち上げる

中国 内モンゴルのカラホトは西夏の中心地として栄える 

李元昊の像
カラホト遺跡

12世紀末
 テムジンが幼いころテムジンの父はタタール族により殺されている

幼いころテムジンは母親とともにモンゴルの中を逃げながら暮らしていた


13世紀

13世紀初頭(1206) モンゴルの草原で生まれたテムジンが仲間と協力しモンゴル帝国を建国した テムジンは皇帝(大カーン)に昇進しチンギスハーンと改名する

チンギスが初めて小さな部族を束ねた指導者だった

孫のフビライハーンが世界中の領土を拡大

モンゴル帝国時代 全人類の半数がモンゴルの支配下にあった

チンギス ハーン像テーマパーク 

1211年 チンギスハーン率いるモンゴル帝国は金に侵攻

1215年 モンゴル帝国は金の都を攻め落とす 金王朝の皇帝は内紛のさなか殺害された

金は大部分の領土を失うも河南省 開封へ逃れ存続した

1220年 チンギス率いるモンゴル帝国はホラムズ王国(中央アジア イランイラク)を攻める

そしてオトラル(カザフスタン)を攻め落とす その後 首都サマルカンドも陥落しホラムズの領土はモンゴル帝国の支配下に置かれる

ホラムズ王国の支配地域

1227年 モンゴル帝国は西夏(中国北部)を攻める さらに西夏は大地震に見舞われ滅亡する

同年 チンギスはーが亡くなる チンギスハーンは特に大きな略奪や虐殺は行っていなかった 

のちに侵略された側が大きく話をでっちあげ作られた話が多い

モンゴル帝国の支配地図

1234年 河南省 開封へ逃れていた金王朝が 2代目皇帝 オゴタイ率いるモンゴル帝国によって滅ぼされる

開封

1235年 オゴタイ ハンがモンゴル高原のカラコルム(モンゴル)に都を構える カラコルムはモンゴル帝国最初の首都となる

1238年 チンギスハーンの孫 バトゥ率いるモンゴル軍がロシア東北部のウラジミール大公国を攻め落とす

ちょうどそのころモンゴル帝国 第3代皇帝 グユクもイラン系遊牧民のアラン人を支配下に置いた 

1241年 チンギスの孫バトゥ軍はドイツ ポーランドの連合軍との戦いで大勝利を収める

1243年 バトゥは南ロシアにキプチャクハン国と言うモンゴル帝国とは別の政権を立ち上げる

1247年 三代目皇帝 グユクは軍を率いてバトゥ征伐に向かう あわや内戦勃発と言うところでグユクは遠征途中で病死する

1250年 モンゴル帝国 第4代皇帝に モンケ(クビライハーン(5代目)の兄)が即位する

その後 モンケとバトゥは手を組み グユクたちのオゴタイ家やチャガタイ家と対立する

1254年 クビライが4代目モンケの命を受け雲南省の大理(国)を制圧する

クビライは内モンゴルに開平府(上都=世界遺産)に都城を築き南宋や高麗との戦いに備えた

クビライ

1256年 モンケは弟のクビライの功績を妬みクビライを解任してしまう

モンケは手柄を上げるため自ら戦場に向かうが伝染病にかかり亡くなる

1258年 チンギスハーンの孫 フラグがイスラム王朝のアッパース朝を滅ぼし

今のイランからトルコにかけ広大な領土を持ったイルハン国を立ち上げる

アッパース朝 支配地域の地図

1260年 多くの人の支持を得たクビライカーンが第5代 モンゴル皇帝に選ばれる

1267年 モンゴル帝国 クビライは26年かけて大都(現 北京)の町を作り上げる 

北京の伝統民家 四合院(フートン)や 北京の故宮も そのころ建てられた

そのころイタリア人のマルコポーロも大都を訪れ元の皇帝 クビライと面会している

またマルコポーロが書いた東方見聞録はのちの時代に活躍するコロンブスが愛読していた。

13世紀末 中国の演劇は元(モンゴル帝国)の時代から始まったと言われている

マルコポーロ(イタリア人)

北京の街を築いたモンゴル帝国はチベット仏教他様々な宗教を取り入れていたが 中でもイスラム教徒は帝国の財政を支えていた

1271年 クビライはモンゴル帝国を中国風の呼び方の元と国名を変更した

中国大陸を制圧 イスラム教世界を飲み込み さらにキリスト世界まで 足を踏み入れたモンゴル帝国

東西9000キロに及ぶ地域を支配する 

13世紀(1276年~1279年にかけて) 

南宋は福建省の泉州を拠点にアジアの海を制圧していた 主にインド産の胡椒 香木 乳香などを扱っていた

モンゴル軍はついに新兵器 投石機を手に入れる そして南宋の都 杭州は ついにモンゴル軍の手に落ち 南宋は滅亡してしまう

最強を誇ったモンゴル帝国は陸だけでなく海の道も手に入れた 泉州に回族(イスラム教徒)が多いのはこの時の影響 

泉州古船陳列館には13世紀 南宋が築いた木造大型船のが展示されている

泉州古船陳列館

元の時代 宋(中国)の焼き物にペルシャ(中東)の青い原料などを使った景徳鎮(江西省)が完成する 景徳鎮の焼き物は遠くヨーロッパにまで運ばれた

景徳鎮古窯民俗博覧区

13世紀 南北朝鮮がモンゴル帝国の手に落ちる

13世紀末(1274)  蒙古襲来(1回目) 鎌倉幕府軍VS最強の外敵!モンゴル軍!!(日本 福岡)

モンゴル軍は2度日本を攻めるが2回とも台風に阻まれ侵略に失敗する 

そのとき鎌倉幕府により福岡県に元寇防塁と言う防護壁が築かれた 元寇防塁は今も残っている

1294年 モンゴル帝国のクビライカーンが80歳で亡くなる

14世紀中頃
 (1351年)

白蓮教徒(宗教団体の一つ)が起こした元王朝に対する反乱 紅巾の乱が発生する

反乱の指導者から現れた朱元璋(しゅげんそう=安徽省出身)が 1368年に明を建国

その後 朱元璋は明(首都 南京)の初代皇帝となる 南京郊外に朱元璋の墓がある

朱元璋
明の初代皇帝 朱元璋 の陵墓

元は明に大部分の領土を奪われたが中国北部に逃れ北元として その後 数百年間存続する

14世紀 元王朝(モンゴル帝国)が築いた北京の故宮を明朝が改築される

故宮

明の初代皇帝 朱元璋は首都南京に長さは35キロの世界一長い城壁を築く

南京 城壁 世界一の長さ 25キロ
 

内モンゴルのカラホト(元)では砂漠化が進んでいた そこへ明が黒河の水をせき止めたため深刻な水不足に陥り 結果 カラホトは滅びた

16世紀
 当時 中国北部(万里の長城より北側)は北元(モンゴル系の王朝)の王 アルタン ハーンが明を脅かしていた 

そんなアルタン ハーンはモンゴル全土にチベット仏教を普及させた 

18世紀中頃
 1755年 モンゴルは清の領土に組み込まれる

清王朝はロシア(ロマノフ朝)の侵略を防ぐためモンゴル領内に漢民族を移住させた

しかしモンゴル民族は漢族の入居をよく思わなかった

20世紀初頭
(1924) 中国で起こった辛亥革命ののち清が崩壊しモンゴルはソ連の協力を得て社会主義国家として独立する

ソ連が作ったモンゴル社会主義共和国はソビエトの16番目の共和国と言われた

ただ内モンゴルは もうすでに多くの漢民族が入植していたため中国(当時は中華民国)に留まることとなった
 

当時 モンゴル経済は97パーセント ソ連から援助されていた モンゴル人のキリル文字の使用などソ連はロシア文化をモンゴルに推し進めた

ソ連統治下のモンゴルでチンギスハーンはロシアを占領した悪者扱いされてしまった。

ソ連のスターリン政権下でチンギスハーンの子孫の処刑が行われた。

集団農場やブリヤート人の大虐殺で多くの人が亡くなった

知識人の虐殺により多くのモンゴルの歴史も失われた

1939年 今の中国 内モンゴルで日本が立ち上げた満州国とモンゴル国(ソ連の協力のもと中華民国から独立した国)との間で大規模な国境紛争(ノモハン事件)が発生する。

今でも草原にノモハン事件の時に使われた戦車が残っている

紛争にはソ連も参戦し大日本帝国と満州国の惨敗となった。その後 それまであいまいだった国境線が確定した。 

1961年 モンゴルは国連に加盟する 

ソ連と中国の関係が悪化しソ連はモンゴル国内に軍を配置する 

ソ連崩壊の直前 ペレストロイカ(情報公開)が行われモンゴルもその影響を受ける

20世紀末(1990) ソ連崩壊後 モンゴルも民主化されウランバートルのスターリン像が撤去された チンギスハーンも再び かつての英雄に復帰した 

昔はモンゴルにも多くあったスターリン像

1992年 モンゴルはモンゴル国と国名を変更 国の制度も改められた

<モンゴル目次>
追加情報 モンゴルの歴史
1基本情報
2モンゴル人にとっての正月ナーダム祭
3フブスグル湖
4イーグルフェスティバル
5ゴビ砂漠
6ウランバートル(首都)
7カラコルム
8その他の情報(モンゴル料理ほか)