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歴史

古代には革製の民族衣装を着たナキア人が住んでいた トラキア人と同じで がっちりした体形に青い目をしていた

モルドバはローマ帝国時代以降 様々に民族が入り乱れ地獄の侵略を受けてきた 

ルーマニアと言う言葉はローマの国と言う意味 ローママニアも言われていた

271年 ローマ軍がモルドバ ルーマニア地方から撤退した後 いろいろな人が集まりルーマニア人が形成された

14世紀 今のモルドバのあたりでモルドバ国ができる

16世紀にはオスマントルコ(イスラム教スンニ派のスルタン君主制)の属国となる 

その後オスマンはイタリアの手前まで領土を拡大する

1812年 ロマノフ朝ロシアが 不凍港を求め当時オスマン領であったモルドバへ攻撃を仕掛ける 露土戦争の勃発

モルドバ人は そのときロシアへの反感を買い モルドバが将来独立を目指す きっかけとなった 

露土戦争はロシアが勝利しロシアがモルドバの東半分を併合した 

そしてロシアはモルドバの東半分をベッサラビアと命名した 一方 西モルドバは南ワラキアと呼ばれていた

1918年 ロシア革命があり帝政ロシアが崩壊した結果 ベッサラビア(東モルドバ)と南ワラキア(西モルドバ)が統一と独立を果たす

ロシアからソ連へ移行する過程で ソ連(又はロシア)は東モルドバの領土を失う結果となる

1924年 ソ連はモルドバの東隣のウクライナ共和国(当時ソ連領)内にモルドバ社会自治共和国を作り東モルドバを併合してしまう ソ連の領土となる

1930年 ウクライナでは約350人万人がソ連人により虐殺される ホロドモールと言う 400万から1450万人が殺されたと言う説もある

1939年 ソ連とドイツの間に 秘密議定書 不可侵条約(お互い他国を占領しても見て見ぬふりをしましょうという条約)を結ぶ

そしてソ連はドイツがポーランドへ進行するのを許す代わりにソ連も周辺の小国を併合していった

そのときモルドバは同じくソ連領内のウクライナの領土に組み込まれた 

地名もモルドバソビエト社会主義共和国(実際は国ではなく地方の地名)と変更された

1941年 ルーマニアとドイツが同盟を結ぶ その結果 ドイツはサラエボの領土を手にする

しかしその数年後の1944年 ルーマニアはドイツを裏切りアメリカ ソ連 イギリスの連合国側に付く

ルーマニアはソ連の影響下に入り 表現の自由が奪われ詩を読むことが禁止された 特にルーマニアの愛国心を歌った詩は厳しく罰せられた

1945年 第二次世界大戦の時 モルドバのキシノフは激しい空爆にさらされた

1980年 ソ連でソ連の崩壊とつながるペレストロイカ(情報公開 厳しい規則の撤廃など)を行った

モルドバではモルドバ語が話せるようになりキリル文字からルーマニアの文字に変更された

1990年 ソ連領モルドバで三色のルーマニア国旗に似た モルドバ国旗を掲げることが許された

よく似たルーマニアとモルドバの国旗

1991年 ソ連邦の崩壊とともに独立 独立後 モルドバは一党独裁のまま市場経済を導入した。(中国と同じ政策をとった)

しかし長い間社会主義体制であったため競争力のある企業が育たず 景気が悪化

外国へ出稼ぎに行く人が増え 過疎化が深刻な問題となっている 子供を残したまま両親とも出稼ぎに行き そのまま孤児になる子供も増えている

2005年 ルマルマイエイの曲がヒット

2007年にルーマニアはEUに加盟したがモルドバはまだ 今のところ旧ソ連の国でEUに加盟したのはバルト三国のみ

ロシアがモルドバのEU加盟の邪魔をしている もしモルドバがEUに加盟すればロシアはモルドバのガスの供給を止めると脅している

①ウクライナ ②アゼルバイジャン ③モルドバ ④ジョージアの 4か国(すべて旧ソ連からの独立国)はロシアと仲が悪い

<目次>
1モルドバの基本情報&料理
2モルドバの歴史
3モルドバの首都 キシナウ