テスト

79万年前

ラオス南部に隕石が落下 その直後 

地面に直径10キロ以上のクレータが出来た 

地球全体が灰で覆われた 大きな隕石としては最も新しい 

ラオス南部 隕石落下場所

紀元前5000年(7020年前)

ラオス人の先祖 ラーオ族がアルタイ山脈(ロシア シベリア、モンゴル、カザフスタン)から漢民族に押され中国 黄河や長江の中間のあたりまで南下する

アルタイ山脈(ロシア)
ラーオ族

紀元前1000年(3020年前)

ラオス人の先祖 ラーオ族が西安の西北にムランルン 重慶にはムアンパー 湖南省 長沙にムアンギャオと言う 国家を形成する 四川省にもラーオ族のムアン(国)を形成する

紀元前853年(2873年前)

モンゴル北方より中国へ攻めてきたタタール人により西安ムアンルン(ラオス ラーオ族)は重慶ムアンパー(ラーオ族)へと移住する

その後 重慶ムアンパー(ラーオ族)は周(中国王朝)の攻撃を受け 湖南省 長沙ムアンギャオ(ラーオ族)へ移住する

タタール人

紀元前500年(2520年前)

紀元前500年から1000年以上使われてきた石の壺 ラオス ジャール平原のシェンクワンと言う無数の石で出来た臼型の墓が造られる 臼形の墓は今でも遺跡として残っている

この遺跡はモンクメール族が築いた物

シャール平原 壺型遺跡

紀元前215年(2235年前)

湖南省 長沙ムアンギャオ(ラオス ラーオ族)は秦(中国)の攻撃を受け 雲南省(昆明)へ移り住み ムアンペーガイ(国)を形成する 

紀元前110年(2130年前)

前漢の武帝はインドへ経典を取りに行くため調査団を派遣した。しかし途中 雲南ムアンペーガイ(ラオス ラーオ族)の初代国王は調査団の通行を認めなかったためムアンペーガイと前漢の間で衝突が生じた。

武帝

紀元前87年(2107年前)

雲南(昆明)ムアンペーガイ(ラオス ラーオ族)は前漢の支配下に置かれる

50年

一度復活した雲南ムアンペーガイ(ラーオ族)は後漢によって再び滅ぼされる。以降 ラーオ族は600~700年以上 歴史から姿を消す。

450年

 現在のタイ(東側)とラオス カンボジアの領土を要するラヴォ王国(のちのアユタヤ王国)が誕生する。ラヴォ王国はモン族からなる王朝で都はタイのロッブリーに置かれた ラヴォ王朝は14世紀末まで実に900年近く続く長い王朝

601年

雲南に少数民族からなる6つの国 六詔国が誕生する。 ※ラーオ族もその中に含まれる※

628年 イシャーナヴァルマン1世 率いる(真臘しんろう)が扶南を占領し滅亡させた

(真臘しんろう王国)はジャヤバルマン1世の元 サンスクリット語やインド文化を多く取り入れた クメール文字が使われ始めたのもこのころ

クメール文字は現在 タイやラオス カンボジアで使われている文字の元となった字

クメール文字(タイ文字の元になった文字)

738年

六詔国(雲南全域)を統一したチベットビルマ系民が南詔国を作り大理を都にした。

南詔国は唐の属国となる

754年

勢力を拡大した南詔国は次第に唐(中国)と敵対するようになる 南詔国と吐蕃(チベット)との連合軍を結成し唐に勝利する

779年

 南詔国と吐蕃の連合軍は20万の兵で唐の成都を攻めるが撃退される

829年

 南詔国は唐との同盟を破棄し成都を攻め落とした。

9世紀 クメール アンコール王朝がカンボジアで成立する

アンコールトム(カンボジア)

859年 中国 雲南省の南詔はミャンマー タイ ラオス カンボジアを攻め さらには当時 唐(中国)の領土であったベトナムの交州(ハノイ)まで攻め落とした

ミャンマー タイ ラオス カンボジア 地図

10世紀前半

ワットプーを含むラオス南部はクメール王朝の支配下にあった

902年

南詔国の宮廷内で殺人事件が発生し800人が亡くなった。その事件を機に南詔国は滅亡した

タイの各地で いくつかのムアン(国)が形成され

ラーオ族はメコン川 上流にスワー王国を立ち上げる

メコン川沿いの洞窟

938年

中国 雲南省では南詔国 滅亡後 短命政権がいくつか続いたのち 大理国が建国される

11世紀 カンボジア クメール王朝統治時代のラオスでワットプー寺院がクメール人の手によって造られる

ラオス ワットプー
ワットプー

950年

アンコール朝(クメール)がモン族ラヴォ王国(タイ ラオス カンボジア)を支配下に置く

1087年 タイ東部 ラオス カンボジアからなるモン族 ラヴァ王国はパガン(ミャンマー)の侵略をうけるが その後 撃退する

パガン朝

12世紀 ラオスのビエンチャンに集落が造られる

現在のビエンチャン

12世紀末(1181年以降) カンボジア クメール王朝(アンコール朝) ジャヤーヴァルマン7世はタイ東北部 ラオスやベトナムにまで領土を広め仏教の影響を強く受ける

ジャヤヴァルマン7世

13世紀初期 元(モンゴル族)の軍勢がラオスのあたりまで攻めてくる 結果 クメールは弱体する

1238年(より後)  カンボジア クメール統治下に置かれていたラオス スワー王国はタイ スコータイの一部に組み込まれる

ヴィエンチャンもスコータイの領土に組み込まれる

スコータイ朝(タイ)

1283年 アンコール王朝(タイ ラオス カンボジア)はモンゴル帝国の侵略をうけるが その後 元(モンゴル)の属国になることで存続を保った

アンコールワット(カンボジア)

1334年 タイ スコータイ王朝の支配下にあったスワー王国(ラオス)内で王位継承者をめぐり内乱が勃発する

1354年  ルアンパバーンにラオス初の統一王朝ランサーン王国(仏教王国)が建国される※スワー王国が立ち上げた国家 

ランサーン王国は都をルアンパバーンに定め その後ルアンパバーンは400年間 ランサーン王国の都だった 

クメール王国(カンボジア)から仏教の伝来とともに仏像が渡された 

ルアンパバーン 町全体が世界遺産
ラオスのルアンパバーン

建国ののちクメールから多くの僧侶を呼び仏教を広めていった 

同じく14世紀 ラオスを支配下に置いていたクメール王朝とヒンドゥー教は衰退し 

もともとヒンドゥー教寺院として建てられていたワットプー寺院(現在は遺跡)も仏教寺院に建て替えられた

1388年  モン族 ラヴァ王国(タイ ラオス カンボジア)はアユタヤ王朝(タイ)に併合される

15世紀 ラオスの僧侶と一般市民が行う托鉢が始まる 以後 托鉢は今に至るまで600年以上続けられ 今ではラオス観光の名物となっている

托鉢
托鉢 600年間続けられている

同じころ 白い象の宝物をめぐってランサーン王国は 隣国 越(ベトナム王朝)との関係が悪化する また国内で内紛も勃発した

 
1479年 大越(ベトナム王朝)が50万の兵を引き連れランサーン王国を攻める 

一時 ランサーン王国の首都ルアンパバーンは壊滅状態となりながらも大越(ベトナム)の軍勢を撃退する

16世紀 ランサーン王国がビエンチャンにタートルアン寺院を建設する

タートルアン寺院

ワットシーサケート(ビエンチャン)には2000体の仏像を安置 

ワットシーサケート2000体の仏像を安置
ワットシーサケートの仏像

ルアンパバーンのワットシェーントーンは16世紀のラーンサーン王国時代に建てられた

ワットシェーントーン

ムアンクーン 寺院(16世紀に建てられたが20世紀ベトナム戦争の被害を受け半倒壊となった)

ムアンクーン 寺院はアメリカ軍の空爆により半壊
ムアンクーン 大仏

1520年 ランサーン王国(ラオス)の国王はチェンマイ王国(タイ)の妃を受け入れる

1540年 ランサーン国王とチェンマイ王妃の間に生まれた子供がランサーンとチェンマイ両王国を兼ねる国王となる 

しかし その後 両国の関係は悪化する 同年 アユタヤ王国(タイ)がクメール王国(カンボジア)を支配下に置く

タイ アユタヤ王朝

1557年 タウング王朝(ミャンマー)によりチェンマイ(タイ)が陥落する

1560年 ランサーン王国はタウング王朝(ミャンマー)との戦いに備えて首都をルアンパバーンからビエンチャンへ移す

1570年、アユタヤ王国(タイ)はタウング王朝(ミャンマー)によって滅ぼされる※アユタヤ王朝は後に復活を遂げる※

1571年 タウング王朝(ミャンマー)がランサーン王国の首都ヴィエンチャンを攻めたが、食糧補給路の確保に苦慮し、撤退していった

1574年 ランサーン王国の首都ヴィエンチャンはタウング王朝(ミャンマー)に攻められ陥落する 

ランサーン王朝はタウング(ビルマ人)支配のもとで存続を続ける

当時最強を誇ったタウングー王朝(ミャンマー)の都 タウングー
タウング王朝 全盛期の領土

1603年 ランサーン王国(ラオス)はタウング王朝(ミャンマー)から独立する 

その後 周辺国との関係も良くなりランサーン王国は奇跡の繁栄を遂げる

1641年にはランサーン王国で初めて西洋人の移住区が造られた

1707年 ランサーン王国で内部分裂が起こりルアンパバーン王国がランサーン王国から独立する

その独立を阻止するためランサーン王国はアユタヤ王国に援軍を要請したが 

ランサーン王国の弱体化を狙ったアユタヤ王国はランサーン王国の要請を断った 

ランサーン王国からビエンチャン王国が独立した。

1713年 さらにチャンパーサック王国(ラオス南部)がヴィエンチャン王国から独立させられる

それにより 約350年続いたランサーン王国は ①ヴィエンチャン王国 ②ルアンパバーン王国 ③チャンパーサック王国 の3分割され消滅

1777年 ビルマ(ミャンマー)が再びシャム(タイ)に攻め込んでくるがシャム王国はビルマの軍勢を撃退する

今度はシャムがヴィエンチャンに攻め込みヴィエンチャン王国をシャム国の属国にしてしまう

1778年 ルアンパバーン王国もシャム国(タイ)に占領されてしまう

1779年 ラオス南部のチャンパーサック王国もシャムの支配下に置かれる これでラオス全土がシャム(タイ)の支配下に置かれた

しかしシャム王国のラオス統治は緩く ヴィエンチャン王国は大きな自治権を認められていた。

1782年 シャム(タイ)で反乱がありトンプリ王朝が崩壊しチャクリー王朝(現王朝)が誕生する

※シャム=チャクリー王朝 現在まで200年以上 続くタイの王朝 

1796年 ルアンパバーンにワットマイが建設される

ワットマイ

1828年 ヴィエンチャン王国はシャム王国に反乱をたくらむもルアンパバーン王国に密告され 

結果 ヴィエンチャンはシャム(タイ)に徹底的に破壊されてしまう そしてヴィエンチャン王国は滅亡した。

ヴィエンチャン王国消滅後もルアンパバーンとヴィエンチャンとの間で何度も衝突が起こる

1856年

雲南省で回族(イスラム教徒)とビルマ人(ミャンマー)清朝に対してパンゼーの乱(内乱)を起こす。内乱の死者は100万人 ミャンマー タイ ラオス は難民で溢れた。 内乱は17年続いた。

パンゼーの乱

1858年 フランス人宣教師迫害を理由にフランスはベトナムにナポレオン3世を送り込み侵略を始める 

そしてフランスとベトナムとの間で仏越戦争が勃発する 戦いはフランスの勝利

1863年 その後フランスは当時タイの領土であったカンボジアを占領する

1887年

フランスが統治するラオスベトナムカンボジアからなるフランス領インドシナが出来上がる その中のハノイがフランス植民地の中心となった

フランスはカンボジアやラオスの役人にフランス人の言う事を聞くベトナム人を使った そのような間接的な統治を行うことで直接フランスが批判を浴びるのを回避した 

フランス領インドシナの地図
インドシナの地図

同年 ルアンパバーン王国はベトナムの傭兵としてフランスや中国南部の武装勢力と戦った

同年 ルアンパバーン王国は中国南部のチワン族からなる武装勢力 黒旗軍の攻撃を受け壊滅的な被害を受ける

そこでルアンパバーン王国は黒旗軍と敵対するフランスに助けを求める 

黒旗軍

1893年 ラオスの領土をめぐりフランスとタイとの間で仏泰戦争が勃発する 戦争はフランスの圧勝で終わった フランスはタイからラオスの領土を獲得した フランスによりルアンパバーン王国とヴィエンチャン王国は併合された。

同年 シャム王国は国名をタイ王国へと変更する

1899年

 フランスはシエンクワーン王国(ラオスベトナム国境)をフランス領インドシナの領地に組み込んだ 

1940年 フランス本土はナチス ドイツの手に落ちたためインドシナ(ベトナム ラオス カンボジア)はナチスと同盟を結んでいた日本軍が駐留することとなった

当時は まだ日米開戦には至っていなかったが中国大陸では日中戦争が繰り広げられていた。

中国の支援に回ったアメリカはベトナムの港で陸揚げされた物資を中国大陸に輸送していた 

その輸送ルートを援蒋ルート(蒋介石を援助する道)と言う 日本は そのルートを断ち切るのが目的でベトナムに入った

援蒋ルート

ホーチミン(革命家)はフランスと日本に対抗すべくベトナム民族独立同盟 ベトミンを結成する

ベトミンはベトナム共産党だけでなくカンボジア共産党とラオス共産党が合併したインドシナ共産党として活動していた

ベトミンはアメリカと中華民国からの支援を受け日本軍とゲリラ戦をし戦った(抗日ゲリラ活動)を行う

ホーチミン(ベトナム人)

1941年 カンボジアとラオスの領土をめぐってタイとフランスの間で衝突が発生する。

タイ・フランス領インドシナ紛争(仏印国境紛争)が勃発する 約半年間続いた戦闘はタイ側の勝利 

タイはラオス カンボジアの一部の領土をフランスから譲り受ける

またタイのバンコクにはこの時の勝利を記念する記念碑が建っている

タイ・フランス領インドシナ紛争 の戦勝記念日(タイ バンコク)

1945年

明号作戦 日本軍とインドシナに駐留するフランス軍との戦い 結果は日本軍が圧勝しフランス軍はアジアから撤退した。

日本軍の協力の元 グエン朝の王族からなるベトナム帝国が建国される

日本はベトナム同様 ラオス王国とカンボジア王国(シアヌーク)にも同様の独立国を建国させた。

ラオス王国

1946年 独立を目指すベトナムと独立を阻止するフランスとの間で第一次インドシナ戦争が勃発する 

日本軍撤退後 ルアンパバーン王国が母体となって結成されたラオス新政権 ラオ イサラ(自由ラオス)が結成されるが 再びラオスに戻って来たフランスにより制圧される 自由ラオスはタイへと亡命し亡命政府を樹立する

1950年 ラオス共産党(現政権)が結成される

ラオス(共産国家)国旗 

 
1953年 第1次インドシナ戦争の戦火はラオスにまで拡大する 

第一次インドシナ戦争ではラオス王国はフランス側に付き北ベトナム軍と戦った 又ラオス共産党は北ベトナムと共にフランスと戦った

第一次インドシナ戦争

(同年)ラオス王国(アメリカ フランスよりの政権)とラオス共産党(中国ベトナムよりの政権)との間で ラオス内戦が勃発する 

内戦には外国勢力も加わり22年間も続いた

1954年 8年間に及んだ第一次インドシナ戦争(ベトナム独立戦争)はホーチミン率いるベトナムの勝利 ベトナムはフランスからの占領を阻止した

第一次インドシナ戦争 ベトナム勝利

ただフランス側は7万5千の戦死者に対し北ベトナムは30万もの戦死者を出した。

第1次インドシナ戦争の巻き沿いを食ったラオスでは引き続きラオス王国とラオス共産党の内戦は続く

1955年 フランスが去ったあと今度は大国アメリカがベトナム退治にやって来た そこに米軍をはじめ多くの国が参戦したベトナム戦争が始まる

ベトナム戦争

アメリカ支援に乗り出したタイはラオス(ヴィエンチャン)国境近くのウドンタニーに米軍が北爆を行うときの基地がおかれた

ラオス北部のバンビエン(ヴィエンチャン郊外)にも米軍が使用する滑走路が設けられた その滑走路は現在市場となっている

バンビエン アメリカ軍滑走路跡
バンビエン アメリカ軍滑走路跡 ナイトマーケット

1964年 ベトナム戦争時 北ベトナムがソ連や中国から受け取った大量の軍事物資をラオス カンボジアを経由し南ベトナムへと送った

南ベトナム(反米組織=通称ベトコン)は北ベトナム(ホーチミン)から支援を受ける

北ベトナムが同じ共産党国家 ソ連や中国から受け取った大量の武器をラオス カンボジアを経由し南ベトナム(ベトコン)へと送った

アメリカはその輸送路をホーチミンルートと呼んだ 最終的にホーチミンルートは4000キロに達した

アメリカは そのホーチミンルートを断つためとラオス共産党を一掃するためにラオスやカンボジアにまで空爆を加えるようになる

ホーチミンルート

 ベトナム戦争時アメリカはラオスに200万~300万トンの爆弾を投下した ラオスの人口1人あたり1トンの爆弾を落とした計算になる

 ひと月1.7万~2.7万回の出撃し 1日800回もの空爆が行われた この空爆により70万人以上の難民が発生し35万人の人が亡くなった 

その莫大な量は第2次世界大戦で使われたすべての爆弾よりも多い

戦闘機は余った爆弾を積んだまま着陸するのは危険だったため余った爆弾は すべてラオスの湿地帯に落とされて行った

その時 沼に落とされた爆弾は爆発することなく今でも土の中で不発弾となって残っている

やわらかい土に落ちた爆弾が 今も そのまま爆発しずに残っている 不発弾が今でも土の中に眠っている

ラオスでは これまでに4万2000人以上が不発弾でなくなっている

クラスターの爆弾の小爆弾の数は2億6千万発 7800万発が不発弾となって今も土の中に残る 爆弾の大きさはテニスボールほど

不発弾
ラオス不発弾処理プロジェクト ビジター センター

1972年 パリ和平会談が行われラオス王国における王政維持を含む合意がなされた

1973年 米軍がベトナムから撤退し ベトナム戦争が終わった 戦争は共産党軍の勝利で終わった

1974年 ラオス内戦はラオス共産党の勝利により ラオスの王国政府が解体される

1975年 2万人規模のデモが発生 同年 王政が廃止されラオス共産党(現政権)が政権を取る 

ラオス人民民主共和国(社会主義国家)が誕生する その年 22年続いたラオス内戦は共産党の勝利で終戦となった。

ラオスが王政から社会主義体制に移行したことにより

社会主義(企業の国営化 富裕層の弾圧)を恐れたタイ人や華僑などの富裕層が国外へ逃亡しラオス経済は比叡した

タイはラオスとの国境を封鎖した(国境封鎖は翌年解除される)

ラオス政府はベトナム 中国 ソ連 などの共産国と協力し国家の立て直しを図った

ラオス内戦の勝利を祝ってラオス共産党がヴィエンチャンにパトゥーサイ凱旋門を建設

パトゥーサイ凱旋門
パトゥーサイ凱旋門2

1976年 ラオスの刑務所で囚人600人が脱走する事件が発生する

1979年 ラオスは市場経済を取り入れると共にインフレを防ぐため通貨の価値を100分の1に下げるデノミを行った。

ラオスのお金

1980年と1984年にラオスとタイ
の国境で銃撃事件が起こった

1987年にはタイとラオスの間で軍事衝突が起こった 

1988年 タイとラオスの間に和平が提携され停戦協定が結ばれた

<目次>
1ラオスの歴史
2ラオスの年中行事と料理
3ビエンチャンとバンビエンとラオス北部
4古都ルアンパバーン 
5シーパンドンとシャール平原
6チャンパーサック(ワットプーとパクセー)