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14世紀中頃  後醍醐天皇の短命政権! 

後醍醐天皇(皇族)VS足利尊氏(武士)

 

同年 後醍醐天皇が京都の御所へ戻って来る 天皇が武士から政権を取り戻し武士の領土も天皇の権限となった

1334年 後醍醐天皇は自ら新しい政策を次々と打ち出す しかし政治も裁判もすべて天皇が行う独裁政権であった

さらに ちまたでは汚職が蔓延し格差が広る それを不満に思った武士たちは源氏の武士 足利尊氏を頼る

1335年 政情不安が続く中 東条時行が動き出した 足利尊氏は東条軍に敗れ 三河(愛知県)へ逃れる 

後醍醐天皇は足鹿尊氏の征夷大将軍の要求を断った 天皇は尊氏を嫌っていた 尊氏もまた後醍醐天皇を嫌った

足利尊氏は東条を討つため三河から鎌倉へ向かう たった500人で三河を出た尊氏だったが 鎌倉へ着くころには兵を3万へと増大していた

そして尊氏は見事に東条を打ち鎌倉を取り戻す 

鎌倉幕府打倒の時 尊氏(たかうじ)と共に戦った新田義貞が天皇側につき尊氏と戦う しかし 新田が負け 尊氏が勝利する

足利尊氏軍は10万の兵を引く連れ 天皇の住む京都にまで迫った 息を吹き返した新田に楠木も加わり 尊氏と戦った

尊氏(たかうじ)は後醍醐天皇と敵対していた光厳上皇と手を組んだ 尊氏は兵を増やし瀬戸内海から九州へと渡った

光厳上皇

そこで後醍醐天皇の一味の菊池を打った その結果 九州のほとんどの豪族が尊氏の味方に付いた

尊氏は九州と中国地方の軍勢を集め京都へと向かった

楠木は天皇を比叡山(滋賀)に移し河内(大阪)で新田を呼び尊氏と戦う 持久戦を望んだ

しかし その作戦は京都を離れるのを嫌った天皇により断られた 
   
尊氏と楠木の決戦は 港の草原で正面衝突のように行われた 結果 楠木は神戸の港で自害する

1336年 決戦に勝利した尊氏は新田の待つ京都へと進撃した

後醍醐天皇は京都から比叡山(滋賀)へと逃げる 鎌倉幕府崩壊から たった3年で後醍醐天皇の夢は破れ政権を奪われることとなった


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14世紀中頃 天皇家が真っ二つに分かれ対立する

南朝(後醍醐)VS北朝(尊氏) 室町時代が始まる

後醍醐天皇に代わり 後を継いだのは尊氏と関係の深い光明天皇(元光厳上皇)だった

光明天皇

ただ そのとき後醍醐天皇は光明天皇を認めていなかった ため北朝(北の朝廷)に光明天皇と南朝(南の朝廷)に後醍醐天皇がついた

そのため 当時 日本に2人の天皇が同時期に誕生する それを南北朝時代という 

もともと天皇家内のもめ事は北条が仕切っていた頃の鎌倉時代 1259年の蒙古襲来の時から始まっていた 原因は権力争いであった

当時 天皇家の敵であった(北条)鎌倉幕府も その争いに介入していた。

その関係は両天皇(後醍醐天皇と光明天皇)が亡くなってから65年後のこと 1392年まで続く

1336年 後醍醐天皇は滋賀県の比叡山から奈良県の吉野へ身を移す

北陸に は新田 東北の睦(むつ)には顕家(あきいえ)が南朝(後醍醐天皇)側についていた

吉野山

 
1337年 南朝(後醍醐天皇側)は北朝(尊氏側)の攻撃に会い 福井県の金ヶ崎城は落城した 幸い新田は逃れた

同年 東北の睦(むつ)には顕家(あきいえ)が鎌倉を攻め落とすが その後 尊氏(たかうじ)軍の逆襲に会い 顕家はたった21歳で命を落とす 

さらに南朝を支えた最後の柱 新田も38歳で戦死する 戦闘に敗れた宣長親王も吉野(奈良県)へと逃れる

1338年 足利尊氏は光明天皇(北朝)から征夷大将軍(軍の最高司令者)を命じられる

それを機に尊氏は 弟 足利直義(ただよし) 高師直 (こうのもろなお)と共に京都で室町幕府を開く 室町時代が始まる

師直
足利直義 源頼朝

1339年 後醍醐天皇が62歳で崩御(亡くなる)する 尊氏は かつての宿敵 後醍醐天皇の追悼の意を込めて天竜寺(京都)を建てた

後醍醐天皇の死により南朝の力はすっかり弱くなった そして後醍醐天皇に代わり宣長親王が南朝の後村上天皇となる

後村上天皇
天竜寺(京都)


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14世紀中頃 北朝が南朝に協力依頼! 足利兄弟対決!

兄尊氏(北朝たかうじ)VS弟直義(北朝ただよし)

1346年 姫路城 兵庫県 完成

姫路城

1348年 奈良の吉野で南朝の後村上天皇が住む家が戦乱に巻き込まれる形で焼ける

そのころ北朝は権力争いが激化していた 尊氏(たかうじ)の弟 直義(ただよし)と師直(もろなお)は対立は激化する

それに見かねた尊氏は直義(ただよし)と師直(もろなお)の職務を解任する 代わりに尊氏の息子 義詮(よしあきら)が重役につく

職を解かれた直義(ただよし)出家し武士から僧侶となる 

足利義詮

しばらく政治から遠ざかっていた直義(ただよし)は南朝と協力し ひそかに兵を集め師直(もろなお)軍に戦いを挑んだ 戦いは直義(ただよし)の勝利で終わった

さらに直義(ただよし)に師直(もろなお)兄弟は殺されてしまう どんどん力をつけていく直義(ただよし)を脅威に感じた尊氏は弟 直義を打つ決意をする

そこで尊氏は かつての敵 南朝へ協力依頼を出す 南朝は力こそ衰えていたが政治的には まだ影響力があった

1351年 足利の兄弟決戦は兄 尊氏の勝利 敗北した弟 直義はその後まもなく亡くなってしまう 尊氏に毒殺されたとも言われている

1358年 足利尊氏は54歳で亡くなる


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14世紀末 足利義満の時代

室町幕府の統治下で南北王朝が統一する

初代 尊氏の後を継いだ 尊氏の息子 義詮(よしあきら2代目)は重い病にかかり倒れてしまう

1367年 2代目 足利義詮は38歳で亡くなる 3代目は義詮の息子 足利義満10歳が継ぐこととなる 

そして義満の親代わりを務めた細川頼之(よりゆき)が室町幕府の政治を行った 

細川頼之

室町幕府は財力をつけるために小売貸しの増税を貸した さらに室町幕府は南北朝廷の統一を目標に掲げた

やがて義満は北朝の天皇より征夷大将軍を受け取る 南朝の長慶天皇に使える楠木が南朝から北朝へ移る

足利義満

1373年 楠木は南朝を攻める もともと弱っていた南朝はさらに弱っていった

1378年 21歳になった義満は京都 室町に広大な御所 花の御所を作る

花の御所

そのころ幕府第一の実力者となっていた細川は多くの大名(役人兼武士)に ねたまれ恨みを買っていた

3代目 義満は内乱を恐れ 仕方なく細川の職を解き細川を四国へ帰るように命令した

1381年 義満は北朝の後円融天皇を招き大がかりな園遊会(宴会)を開いた

その後 義満は6回にわたり日本中を旅した そのとき四国で細川と再会を果たす

後円融天皇

1390年 十分に力をつけた義満は岐阜県 美濃を攻め落とした 美濃の乱と言う

やがて細川は息子の頼元(よりもと)を連れ 義満の住む京都の御所へと戻って来る その後 幕府の官僚は細川の息子が勤めることとなる

岐阜県 美濃
細川頼元 

1392年 力の強い北朝が力の弱い南朝に対し妥協する形で南北王朝が統一する 以降 より足利家が力をつける

14世紀末 義満は大乗大臣(今でいうところの総理大臣)に任命される 大乗大臣は平清盛以来2人目 将軍で大乗大臣になるのは義満が初めて

ところが義満は大乗大臣をやめ出家する  細川頼朝(よりとも)も出家した そのほか有力な政治家(公家)はみな出家した ただ出家後も政治は義満が行った

義満は禅宗(ぜんしゅう=日本仏教の宗派の一つ)に深い信仰を持ち 禅宗のお寺を保護した 本来なら質素な生活しなければならない僧侶が幕府の優遇政策を受け 次第に堕落していった

そんなころ とんち で有名な一休宗純(一休さん)が現れる 一休は戦の愚かさと堕落した僧侶を厳しく批判した

1397年 義満は金閣寺を含む 北山山荘を建設する 建設費用は今のお金で700億円以上 

    

金閣寺

北山山荘

九州で反乱があり 義満は大内義弘を呼び九州へ出兵させた 大内は肥後(熊本)の菊池を打ち勝利する やがて大内は力を増し義満を脅かす存在となる

大内義弘

1399年 大阪の堺において義満軍と大内軍との決戦が行われた 戦闘は1か月以上続いたのち義満軍の勝利で終わった 応永の乱と言う

足利満兼は大内が負けたのを知ると あわてて鎌倉へ逃げて行った 義満は3大勢力を打ち破り 以後 反旗を翻すものは誰もいなくなった


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