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13世紀末  蒙古襲来(1回目)

天下の鎌倉幕府軍VS最強の外敵!モンゴル軍!!

13世紀の中頃 このころ天変地異と災害が多発し人々はおびえていた

1260年 中国ロシアを含むユーラシア大陸ではモンゴル帝国(元)がユーラシア大陸 ほぼ全土を統一していた 

多くの国が一つに統一され国境が亡くなったおかげで人々の移動が便利になった

中国大陸では初代 皇帝チンギスハーンに代わり 2代目皇帝にフビライハンが皇帝の地位についていた

 

フビライハン(モンゴル人)が北京の基礎を造った。
        

1268年 九州の太宰府にモンゴル帝国の使者がやって来る 北条時宗はモンゴルからの使者を追い返す 

北条時宗
九州 太宰府

1274年 10月5日 日蘭(鎌倉幕府と対立関係にあった僧侶)の予言通り 蒙古(モンゴル帝国)の大群 2万6千人と900層の船が日本に攻めてきた 

海辺で蒙古軍と鎌倉幕府軍と衝突となった その時 初めて日本の武士は火薬玉(ちょっとした爆弾)の攻撃を受け腰を抜かした

圧倒的な軍事力を見せつけられ 蒙古軍の圧勝かと思われたが しかし台風が海上を襲い

蒙古軍は退散 そのとき蒙古軍兵士(モンゴル軍兵士)約3000人あまりが海中に沈み 亡くなったとされている それら一連の出来事を文永の役と呼ぶ

文永の役


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13世紀末  蒙古襲来(2回目)

天下の鎌倉幕府軍VS最強の外敵!モンゴル軍!!

1275年 再びモンゴル帝国(元)からの使者が来る 鎌倉幕府は 使者たちの話を聞くまでもなく ただちに御家人(武士)を呼び出しモンゴルからの使者を皆殺しにした

鎌倉幕府は蒙古(モンゴル)軍の反撃に備えて海辺に石作りの防波堤を築いた 鎌倉幕府は九州の御家人(武士)だけでなく国を挙げて戦う決意をする

1281年 元(モンゴル軍) 高麗(朝鮮)連合軍 14万の兵が日本の対馬と博多湾に攻めてきた。2回目の蒙古襲来!

蒙古軍の第一部隊が博多湾に一斉に集まった 第2部隊の到着を待たずに戦闘は開始された

戦いは一進一退となった しかしモンゴル軍の第1部隊は とりあえず退散し モンゴル第2部隊の到着を待った

翌月 蒙古軍第1部地は第2部隊と合流を果たし兵力を14万に増幅し再び博多湾に戻って来た

しかし またしても台風が北九州を襲った そのときの蒙古軍の死者は10万とも言われている これら一連の戦いを弘安の役という

弘安の役

台風のおかげで鎌倉幕府は命拾いしたと思いがちだが 実際は蒙古(モンゴル)軍は多民族からなる軍隊で内部で争いが絶えなかった 

一方 鎌倉幕府(日本)軍は統一民族 武士たちの結束は高かった

北条時宗は3度目の蒙古襲撃があると予測した しかし蒙古(モンゴル)軍は そのあと朝鮮半島と中国大陸との間で反乱がおこり日本への反撃を断念した

福岡県には蒙古襲来の時に備えて築かれた防波堤が今でも残っている。

元寇防塁 蒙古襲来の時
元寇防塁

1285年

樺太で元(モンゴル)の2度目のアイヌ攻撃が3年続けて行われた。アイヌ人は樺太から追い出された。

また元(モンゴル)との戦いで戦費を使いすぎた鎌倉幕府は財政が圧迫 武士を はじめ多くの人の生活が苦しくなった

武士たちは牛や馬を出し命まで懸けて戦ったのに報酬がないと幕府に不満を訴えた 

この戦いが鎌倉幕府の崩壊を速めたとも言われている。


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13世紀末  鎌倉幕府の崩壊の兆し 

後醍醐天皇VS鎌倉幕府

モンゴル帝国(元)との戦いで戦費を使いすぎた鎌倉幕府は財政が圧迫 武士を はじめ多くの人の生活が苦しくなった

今回の戦闘は あくまでも防衛のためであり領土拡大のためではなかった そのため幕府が武士に与える土地はなかった

武士たちは牛や馬を出し命まで懸けて戦ったのに報酬がないと幕府に不満を訴えた 

1284年 北条時宗が亡くなる 北条貞時が8代目となる

幕府は貧困対策として 借金張消し と大地主から土地を平等に分配する法律 徳政令を発令する

ただ僧侶だけは優遇されていて僧侶が大地主であった場合は土地を返さなくてよかった

それでも不況は続き食うものに困った武士は土地を売り それらの土地は再び大地主のもとへ帰ってきた 

ただ一部の大地主は再び徳政令が出されるのを恐れ土地を買わなかった

困窮した武士団たちが集まり各地で略奪をするようになった それら悪党集団の中には金を貯え城を築くものも出てきた

また農民の中にも自らは農作業を行わず 他人に農地を貸しの農作業を行わせるものも出てきた そんな中 悪党に入る貧しい農民も多く出た

それをチャンスと見たのは鎌倉幕府(中央政権)と対立する後醍醐天皇(ごだいごてんのう)であった 天皇は鎌倉幕府に不満を持つものを集め兵を結集する

後醍醐天皇

1293年 鎌倉大地震発生 関東地方にマグニチュード8の地震が襲う

鎌倉大地震

1324年 鎌倉幕府は反乱をくわだてるものを武力で一掃した しかし幕府は天皇との対立を避けるため それ以上追いつけることはしなかった

1331年 後醍醐天皇は京都の笠置山(かさぎやま)に立てこもる 

悪党出身の楠木正成は天皇と面会し河内(大阪)で兵を結集し幕府と戦う決意を表明する

楠木正成

幕府軍が笠置山に攻めてくる 20日以上 戦闘が続いたが幕府軍は笠置山を攻め落とすことは出来なかった 

この戦いには のちに天下(日本統一※北海道と沖縄を除く)を取る足利尊氏(あしかがたかうじ)も加わっていた 

足利尊氏

数か月後 笠置山は幕府軍により陥落する そして後醍醐天皇もとらえられてしまう そして 後醍醐天皇は沖ノ島(福岡と対馬にある小島)へと流される 

沖ノ島

幕府軍は楠木正成が立てこもった千早城(関西)を責める

千早城 

1332年 後醍醐天皇は ひそかに沖ノ島を脱出する 足利尊氏(たかうじ)が京都へ向かう 実は尊氏は鎌倉幕府を嫌っていた 

なぜなら尊氏は源頼朝(よりとも)の血を引いていたため 尊氏は北条を裏切り天皇側につく

尊氏と同じ源の血を引く新田義貞も戦闘に加わり幕府軍打倒す

新田義貞

1333年 第13代 北条高時は自害する そして148年続いた鎌倉幕府は滅亡した


14世紀の琉球王国(沖縄)

14世紀以降 琉球(沖縄)は明朝 清朝と朝貢関係(※上下関係をハッキリとしお互いの良好関係を保つ)にあった

琉球が中国の王朝に貢物と言うプレゼントを渡すことで小国の琉球は中国王朝(大国)から守ってもらっていた


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