テスト


日本史 時代別 年表 一覧へ 


12世紀末   平氏滅亡 

源頼朝(よりとも)の時代が始まる 

1180年 源頼朝(みなもとのよりとも)は兵を結成する 

頼朝は13歳の時  平治の乱(源家が平家に敗北を期した戦い)の後 清盛により処刑されるところだった

ところが清盛の義理の母に命を助けられ伊豆に流されていた その後 頼朝は平氏側の武士 北条により監視されていた

頼朝はその後 北条家の娘 政子と結婚していた

源頼朝は33歳になったころ朝廷の力を借り反乱を起こす 

足利直義 源頼朝

兵を結成した頼朝は伊豆から千葉県へと次々と移動しながら各地の豪族を味方につけていった そして頼朝は東北の武士団を率いて鎌倉(神奈川県)に入った

頼朝率いる源氏の軍勢20万 平氏の軍勢7万と伝えられているが これは かなり誇張した数字であった 

その数字に おびえていた平氏の軍勢は水鳥の音を聞いただけで逃げて行った さらに京都では戦乱の中 興福寺と東大寺が火事で焼けてしまう

1181年 平清盛は61歳で熱病にかかり命を落とす 清盛亡き後 息子の宗盛が後を継いだ  

平宗盛

その年から翌年にかけ大飢饉が日本全国を襲う 42300人が飢え死にした

1183年  北陸地方で戦闘が始まる 平の軍勢 木曽義仲の軍勢により敗北を期す 平氏一家は京都を焼き払った後 京都を離れ福原(神戸)へ逃げて行った

源義仲 (木曾義仲)

義仲が平に変わり都を収めることになる 義仲たちは焼き放たれた街に入り盗みを行った

後白河法皇(朝廷のトップ)は義仲たちを追い出すために頼朝を都に呼ぼうとした

しかし 当時 鎌倉に本拠地を置いていた頼朝は東北地方の勢力拡大を狙っていた そのため まだ京都へ行くのは早いと考えた

そこで頼朝は朝廷に東北の統治権を認めさせる代わりに年貢(税を)を朝廷に納めるとの取引を行った 

法皇のやり方に腹を立てた義仲は法皇の住む御殿に火を放った そのころ頼朝(よりとも)の弟2人が義仲を討つために京都へと向かっていた

やがて頼朝の弟よしつね軍と義仲軍が決戦となり 弟よしつね軍が勝利する 
  
1184年  義仲は31歳で戦死する

都についた義経(よしつね)たちは法皇から平一族が持っていった三種の神器を取り戻してくるようにと命じられる

源義経

神戸で平氏と源氏(頼朝の弟軍よしつね)との決戦が行われた またしても頼朝の弟 義経軍が勝利する

都に戻った義経は 法皇から検非違使(都の治安を維持する)位の高い 仕事を与えられる 

しかし そのことが兄 頼朝(よりとも)の気に障り 義経は鎌倉に戻れなくなる

一方 頼朝(よりとも)は戦は弟たちに任せ 頼朝は鎌倉に公文所という政治をおこなう施設と文殊所とい裁判所を作った
 
1185年 長門の国 今の山口県(壇ノ浦)で源氏と平氏の最後の合戦が行われた 源氏軍300隻 平氏軍500隻 

壇ノ浦

初戦は平氏軍の有利で進んだが その後 一気に形勢逆転 戦いは源氏軍の勝利で終わった

平清盛 亡き後 たった4年で平氏は滅亡してしまった ただ そのとき義経たちは3種の剣を取り戻すことはできなかった


日本史 時代別 年表 一覧へ 


12世紀末  源の兄弟対決  

兄 頼朝(よりとも)VS弟 義経(よしつね)

頼朝(よりとも)が弟 義経(よしつね)の暗殺をたくらんだ それを知った義経は兄 頼朝と戦うことを決意する

頼朝は京都へ兵を送った 一方 義経も戦いに備え九州で兵を集めた 義経は九州へ向かう途中 嵐に遭遇し和歌山県の紀州に遭難した。

義経(よしつね)は和歌山県から岩手県へ行き 奥州平泉に一大勢力を持つ藤原秀衡(ひでひら)にかくまってもらうことにした

藤原秀衡
平泉 金色堂

1186年 義経の愛人 静御前は男の子(義経の子)を出産するが頼朝により海へ沈められてしまう 

1187年 藤原秀衡はなくなる

1189年 義経は鎌倉の頼朝と戦うことなく31歳で自殺(自害)した。

同年 藤原泰衡(やすひら)も また頼朝と戦うことなく家臣の裏切りに会い殺されてしまう これで3代100年の栄華を誇った奥州藤原家は滅亡した。

奥州藤原家 

そのとき日本で初めて東北の隅々まで中央政権の力が及んだ

1192年 後白河法皇が崩御する

同年 源頼朝は征夷大将軍となる これで頼朝は全国の武士を自分の思いのまま動かすことができる 鎌倉時代の始まりとなった

平氏が(天皇家)朝廷と共に政権を取ったのに対し 頼朝は朝廷との関係を持たず 鎌倉に本拠地を置き 武士の政権 幕府を開いた

頼朝は天皇に代わり武士が政治を行う社会を築こうとした

1198年 頼朝は落馬し  その時のけがが原因で 翌年 53歳(または51歳)で亡くなった


日本史 時代別 年表 一覧へ 


12世紀末 鎌倉幕府内部で北条家が源家を滅ぼす

1199年 源頼朝が亡くなり妻の北条政子は出家し尼となった

北条政子

頼朝の後を継いだのは頼朝の子 頼家(よりいえ)18歳だった

源頼家

しかし裁判は北条時政(政子の父)が決めた13人で行われることとなった その後実際に実権を握っていたのも北条時政だった

北条時政

1201年 稲葉山城 岐阜城

稲葉山城 (岐阜城 金華山)

岐阜城
 

1203年 頼家は病に倒れる 頼家は将軍の座を下ろされ伊豆へ流罪される 翌年 北条氏の手により頼家は暗殺される

後を継いで第3代の将軍になったのは 頼家の弟 実朝(さねとも)12歳だった ただ 今回も実際 実権を握っていたのは北条時政であった

源実朝

もともと政治に興味がなかった実朝は ますます好きな和歌の道にのめりこんでいった

頼家(2代目将軍)の息子 公卿(くぎょう)は北条に たぶらかされ亡き父を殺したのは叔父の実朝と思い込まされる

1219年 鶴岡八幡宮(神奈川)で父の仇として 無実の罪を着せられた実朝を殺害してしまう その後 公卿もまた北条義時(頼朝の妻 政子の兄弟)により殺害される

     

鶴岡八幡宮

 
 
鎌倉幕府 初代将軍 源頼朝(よりとも)は自分の兄弟を殺してしまったこともあり頼朝の子孫は わずか3代で滅びてしまった 

これで頼朝の血をひくものは すべてなくなった そのあとの幕府は北条家が継ぐこととなる  

その知らせは当時 鎌倉幕府と敵対関係にあった後鳥羽上皇(天皇)にとっても政権を取り戻すのに絶好のチャンスと考えた 

後鳥羽上皇 

その後 北条は上皇の御子(みこ=幼い王子)を鎌倉幕府の将軍の後継ぎに欲しいと願う もちろん上皇は その要求を断った


日本史 時代別 年表 一覧へ 


13世紀初頭 鎌倉幕府=武士政権(関東)VS

朝廷=天皇(関西) 天下統一の座をかけた戦い 

1221年 鎌倉幕府(中央政権)軍と朝廷(天皇皇后)軍との決戦が行われる そして鎌倉幕府軍が勝利する これを承久(じょうきゅう)の乱と言う

この勝利で鎌倉幕府は それまで朝廷(天皇皇后)が統治していた京都などの領土を手にし日本列島(北海道と沖縄を除く)全部を統治することとなる

それにより鎌倉幕府(北条家支配)が日本の歴史上初めてとなる天下統一が成し遂げられた 皇族たちは京都から地方へと追いやられる 

1225年 影の尼将軍と言われてきた北条政子が69歳で亡くなる

二代目 北条泰時が京都から来た将軍の代わり政治を行っていた

北条泰時

1232年 このころ日本では宋(中国南部)から宋銭と言われる通貨が多く流通していた

宋銭
宋銭2

1234年 鎌倉大仏 建立 5年の歳月をかけ建てられた 高さ11メートル

鎌倉大仏

1244年 永平寺(福井) 

永平寺
永平寺

1253年 4代目 北条時頼(ときより)より 建長寺(神奈川県) 創建が建てられた ※けんちん汁 発祥の寺

北条時頼
建長寺


日本史 時代別 年表 一覧へ 


13世紀  和人(本州の日本人)の豪族が

北海道のアイヌ人に攻撃を仕掛ける

13世紀(詳しい年代は不明) 当時まだ未開の地であった北海道では日本人とは別に狩りなどをして生計を立てるアイヌ人が暮らしていた。

そこに本州から来た日本人の豪族たちが武士たちの力を借りて強引にアイヌ人たちの土地を奪い支配するようになった

また同じころ アイヌ人は千島列島(現ロシア統治)に進出している

13世紀半ばから14世紀初頭には当時 アイヌ人が住んでいた樺太(現ロシア サハリン)にモンゴル帝国(中国ロシア全土を統治する巨大国家)元が進行して来た

また北海道の別の場所ではモンゴル帝国と北海道のアイヌ民族との間で交易状のトラブルから ちょっとした紛争が発生している

1264年 元(モンゴル)による樺太遠征が行われる アイヌ人がモンゴル帝国と戦った

樺太の場所
アイヌ人


日本史 時代別 年表 一覧へ 


13世紀  日本仏教における重要人物!

日蓮や親鸞(しんらん)の登場

法華経(お経の一種)を推進する僧侶 日蓮が幕府を批判し人々に法華経を唱えろと訴える のちに日蓮は日蓮宗を開く

日蓮
 

日蓮宗

それまでの僧侶は朝廷(天皇)と深い結びつきがあったが日蓮や親鸞(しんらん)は民衆と深い結びつきがあった 鎌倉幕府は そんな日蓮や親鸞(しんらん)を敵視していた。

親鸞


日本史 時代別 年表 一覧へ 


つづきを見る