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10世紀 アイヌ人が北海道へ定住し始める

10世紀以降

10世紀 アイヌ人が樺太(現ロシア サハリン)から南下し北海道北部のオホーツク文化(又は擦文文化)を排除しながら北海道全域に進出する

またアイヌ人は遺伝子的にも縄文人とよく似ているところから縄文人の末柄(子孫)とも言われている

アイヌ人 縄文人の顔つき(堀の深い顔)に対してオホーツク人はより日本人や韓国人 中国人に近い 平らで のっぺりとした顔つき 

樺太(現ロシア サハリン)アイヌのみミイラ製造を行っていた

アイヌ人
オホーツク人
森に現れた縄文人

一方 北海道でアイヌ文化に追われた擦文文化は東北地方に移動し青森県に擦文文化が浸透した

擦文文化は鉄器の加工に優れていた


10世紀初頭  平将門(関東) 襄平天慶の乱

10世紀頃になると 格差が広がり 貧しい人の中には死体を河原や道端に捨てる人が多発する 

それらの遺体から髪の毛や衣服を盗むものも発生したと今昔物語の中に書かれている 

今昔物語

同じく10世紀 地方では豪族たちが土地を開拓し力をつけていった 皇族は子孫に平や源の姓を与え役人として地方を統治させていた 

当時関東地方を収めていた平将門もまた天皇の血筋を引く豪族であった 

935年 将門と将門の叔父とのが決戦が行われる この戦闘により将門の叔父は殺害される

続いて 将門の いとこにあたる平貞盛(たいらのさだもり)が父の仇を取ると言って参戦する

平貞盛

将門と貞盛(将門のいとこ)との戦いは一回目の決戦では貞守(いとこ)が勝利するも 2回目の決戦で将門が逆転勝利を収めた

そして将門が平氏一族の実権は将門が握ることとなる 将門は さらに領土を広げ 自ら関東東北地方の帝となる 親王と名乗り都に似せた宮殿も立てた

その時 日本には西と東に それぞれ違った帝(みかど=トップ)が2人同時に存在した。

一方 瀬戸内海(中国四国地方)では海賊が大暴れをしていた 

瀬戸内海の地図

藤原純友(すみとも)は朝廷から海賊を取り締まるよう命令されていたが 彼も また海賊の頭となり 朝廷の船を襲うようになる

朝廷は関東へ治安を安定させる為に人を送ったが 平安京の人々は将門や純友が攻めてくるのではないかと恐れていた

関東では平貞盛が藤原秀郷と組み兵4500人を引き連れ 三度 将門(兵1000人)との決戦に望む

藤原秀郷

940年 成田山新勝寺(千葉県) 

成田山 新勝寺

941年 将門は親王を名乗ってから わずか数か月で壮絶な死を遂げることとなる

翌年 西に乱を起こした純友も小野野義文の軍につかまり殺されたと伝えられている これら一連の出来事を襄平天慶の乱と言う
 
当時は 声を かければすぐに刀を取り出兵できる農民が大勢いた 

それら戦闘能力に優れた貴族や農民が自らの領地をまもるため武装したのが武士の始まりだとされている

襄平天慶の乱は武士の時代の始まりだとも言われている しかしこの時代の武士は まだ役人に使われる弱い立場にあった


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10世紀末~11世紀初頭 枕草子や源氏物語 

ひらがな カタカナ が作られた時代

10世紀 清少納言(女性作家)により枕草子が書かれた

清少納言
枕草子

また この時代日本独自の国風文化が開花した時期でもある ひらがな カタカナも この当時作られた

当時の日本語は今以上に発音が複雑だったため ひらがなも200以上作られた

19世紀の明治維新 以降 よく使う46個の ひらがなだけを選び出し それだけを使うようになった

初期のひらがな

また 漢字においても戦後 アメリカ(GHQ)の統治下におかれた日本ではアメリカに英語を使うように勧められたが

日本側はとりあえず 英語を使うは 後回しにし その代わりに漢字の数を減らすと約束した。それが今使われている常用漢字である

995年 藤原道隆が亡くなる 弟の道兼が関白(成人の天皇を補佐する官職)となるが 道兼も もうすでに重い病気に侵されていて6日後に亡くなる

一条天皇は母 上皇の願い入れで 次期 関白に藤原道長を抜擢するが 道長は九州の太宰府に送られてしまう

一条天皇
藤原道長

その後 宮廷に戻ってきた道長は12歳になる自分の娘を一条天皇の妃としてさしだす また妃の教育係には源氏物語を書いた紫式部が選ばれる

紫式部
源氏物語 

源氏物語は54集からなる長編小説で主人公の光源氏はたくさんの恋愛を重ねながら出世する やがて不幸な晩年を迎えるという物語

貴族が宮廷で優雅な暮らしをしていた時代 農民は相変わらず農作業で忙しかった

そんな中 農民に脱税に関するいい知らせが届く 当時 僧侶と貴族は税(年貢)が免除されていた

そこに目を付けた僧侶や貴族は農民の土地を僧侶や貴族の土地として登録すれば税金が免除される

農民は免税となったお礼に僧侶や貴族に米を分け与得ていた そうやって僧侶と貴族は ますます財力を蓄えていった

998年 平等院(京都)

平等院

1014年 紫式部が亡くなる 

1016年 後一条天皇が即位する 道長は9歳の天皇の摂政となった 藤原氏の摂関政治の間は平和な時代が続いた


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11世紀初頭~12世紀中頃  

武装した僧侶の登場! 武士が力をつける 

 
1019年 中国東北部の女直(じょちょく)満州族が日本の九州 壱島 対馬 筑前と立て続けに攻めてきた。

1028年 平忠常が反乱を起こした 朝廷は源親子に鎮圧を命じる 忠常は源親子に全く歯が立たず敗れる

戦いに敗れた兵士は関東地方から三重県の伊勢へと逃げ そこに本拠地を構え勢力を張った

平忠常

1051年~1061年 前九年の役がおこる

東北でも豪族の反乱がおこり源親子が清原氏(東北の豪族)の力を借り鎮圧に乗り出す

前九年の役

1068年 後三条天皇が即位する

天皇は貴族や僧侶の土地となっていた農民の土地を もう一度 農民に返そうとした 天皇が貴族の力を弱めるために行った政策

そして藤原氏(貴族)の権力も御三条天皇によって弱くなっていった

後三条天皇

1073年 後三条天皇は皇位を白河天皇に譲った翌年 亡くなった

白河天皇

1086年 白河天皇は8歳の堀川天皇に皇位を譲り 自ら上皇となった

1096年 信仰心の強い白河上皇は娘の死を悼んで出家し白河法皇となった

一方 そのころ 武装した僧侶からなる僧兵が増加した 豊かになった僧侶が自らの土地や財産を守るため武装したのが僧兵の始まり

白河法皇は源義家(武士)に僧兵の鎮圧を命じた 僧兵も武士には全く歯が立たず すぐにおとなしくなった 

源義家

(同年 1096年) 日本の南海トラフ(西日本太平洋沿い)にマグニチュード8.4の永長(えいちょう)地震が襲う

12世紀 白川郷 岐阜県 平安時代

白川郷

1106年 源義家が亡くなる 平正盛は源義親の軍を打ち負かす

1113年 京都の清水寺が僧兵により打ち壊されるという事件が発生する 延暦寺と興福寺の寺同士の争いが原因であった

またしても武士が僧兵の鎮圧に乗り出す そうやって武士は 社会的地位を得て ますます力をつけていった

清水寺

1124年 平泉 金色堂 奥州藤原氏初代藤原清衡

平泉 金色堂
金色堂

1129年 半世紀にわたり政治権力を担っていた白河法皇が亡くなる 鳥羽上皇が 亡くなった法皇に代わり政治を行う

鳥羽上皇

12年後 崇徳天皇は鳥羽上皇の命で崇徳上皇となる そして近衛天皇が即位するが14年後 近衛天皇は17歳の若さで崩御する

崇徳天皇

鳥羽法皇の命で後白河天皇が即位する 長い期間において鳥羽法皇と崇徳上皇の親子間の対立は続いていた。

1156年 鳥羽法皇が崩御する 翌年 貴族の間の対立から保元の乱が勃発 武士たちはその反乱に巻き込まれる

天皇が住む宮殿は藤原家の内乱(保元の乱)で燃やされてしまう 天皇家の勢力争いが原因 結果 後白河天皇の勝利 崇徳上皇が敗北 

その後 藤原頼長は捕まり 多くの武士が処刑された その後も権力闘争が繰り返され 結局 平氏だけが生き残ることとなる 

1158年 後白河天皇は上皇となり 二条天皇が即位する

二条天皇


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12世紀中頃 平清盛の時代

1159年 六条河原(京都)で平治の乱(平清盛が留守の間に源義朝(よしとも)が起こした反乱)が起こる 
平一族VS源一族の戦い しかし反乱は失敗 源が敗北し 平清盛勢の勝利  この反乱は着実に力をつけてきた武士が政権をとる第一歩であった

平清盛
平治の乱

同じく12世紀 1167年 武士出身の平清盛は今の総理大臣に相当する太政大臣に昇進する 清盛は 清盛の娘を天皇家に嫁がせ天皇家との親戚関係を築いた

平清盛は宋(中国大陸)と大々的な貿易をするため港を建設する 宋との貿易での儲けは平家の財力へとなっていった

1167年 平清盛は病にかかったのをきっかけに出家する

1168年 高倉天皇が8歳で即位する 政治権力は依然として清盛が握っていた

当時 平氏は日本列島をモザイク模様のように飛び飛びで統治していた その領土は かつて日本 全土統治していた藤原家を上回る領地であった

高倉天皇 

1177年  日宋貿易(日中貿易)が始まる 遣唐使廃止以来 280年ぶりとなる 大陸との貿易 日宋貿易は300年ほど続く

1179年 平清盛が最も頼りにしていた平重盛がなくなる

平重盛

1180年 高倉天皇が退位し 平清盛は まだ3歳の 平徳子(清盛の娘)の子供 安徳天皇(清盛の孫)を即位させた

安徳天皇

1180年 奈良の大仏が焼失する(1回目) 大仏は すぐ再建されるが 380年後再び消失する


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