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8世紀~  平城京と奈良の大仏の完成

708年 朝廷は都を藤原京から平城京(どちらも奈良県)へ移した

平城京

710年 縦横4キロ以上の大宮殿 平城京を完成させた のべ300万人が平城京の建設に携わった 

役人を1万人に増やしたため このような巨大な施設が必要になった また役人を増やしたことで 増税せざる負えなくなった

時の天皇 聖武天皇の妃は 藤原家の血を引く光明皇后を招き入れる

その時から日本では奈良時代が始まった。

奈良時代の日本において 古い中国語の発音で日本をジッポンと言う そのジッポンがニッポンとなり  ニッポンと言う その呼び方が確定した

聖武天皇
光明皇后

皇后の願いで 強制労働で苦しむ人々を助ける施薬院と言う病院 又は薬局のような施設が作られた

皇后は また労働者 1000人の体を洗った 噂では皇后は そのとき 多くの老人の病気を治したと言われている

また皇后は仏教の熱心な信者でもあった

721年 興福寺 奈良 

興福寺

733年(又は717年) 第9回 遣唐使船が中国大陸にある唐へと出発した。何そうかの船で6000人中 5200人が無事 唐にわたれた

遣唐使
遣唐使船

そのころ唐では ちょうど楊貴妃が活躍していた 20年後 遣唐使は帰国の際 鑑真和尚を日本へ連れて来る

鑑真和尚
唐の国の楊貴妃

737年 九州で天然痘が大流行する 天然痘は あっという間に日本中に広まり大勢の死者を出す

やがて各地に災いを静めようとの願いを込め国分寺が建てられる

国分寺

745年 伝染病と飢饉続きで国が乱れている時に聖武天皇は行基(僧侶)の力を借りて国を安定させるために奈良の大仏(銅製の廬舎那仏)を建てたる事にした。 

完成当時の奈良の大仏
奈良の大仏

ちょうどそのころ人々は仏教に救いを求めた また当時は仏教が大きな力を持っていて寺が政治に口を出すことも多かった さらに僧侶は納税の義務がなかった

都を たびたび移したのも寺が うるさかったためだと言われている

749年 大仏の完成を見ずに行基は82歳でこの世を去った

752年 4月9日 黄金色に輝く奈良の大仏は完成した。大仏の目の中に黒い炭を書き込む大仏開眼供養会が行われた

大仏開眼供養会
 

また東大寺の中にある正倉院と言う蔵の中には聖武天皇が集めた3000点以上のコレクションが多く残っている

正倉院

ただ大仏造りに巨額な費用が掛かり財政が傾いたため政治不安はより一層高まった 

この時代 日本人が初めて書かれた歴史書 日本書紀や古事記が作られた

古事記
日本書紀


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8世紀 遣唐使と鑑真和尚 

遣唐使が中国にわたって9年目 やっと大明寺(江蘇省)で鑑真和尚と面会できることとなった

鑑真はその時 55歳 もうすでに多くの人から尊敬されていた

     

大明寺(江蘇省)

   

 遣唐使2人は鑑真を日本に招きたいと交渉したが海賊の疑いをかけられ捕まってしまう

その後 何とか解放されたが1回目の交渉は失敗に終わった さらに船まで没収されてしまった 

その後 交渉が成立し鑑真和尚を日本にお招きすることとなった

748年 鑑真と阿倍仲麻呂(遣唐使)は日本へ渡航するが失敗 その後 5回もの渡航に失敗した挙句 鑑真は失明してしまう

阿倍仲麻呂

失明の大きな原因は白内障の手術の後遺症だとされている その後 船は漂流し中国 海南島へと流れ着く

中国 陝西省の玄宗時代(唐)の宮殿跡(現 興慶宮公園)に 阿倍仲麻呂の石碑もある 中国 遼寧省にも阿倍仲麻呂の碑が建てられている

6回目の渡航の時 鑑真が日本へ行く事に玄宗皇帝は反対した しかし鑑真は密告してでも日本へ行く決意をする

753年 蘇州から日本へ向け鑑真和尚の乗った船が出された 6回目の渡航で やっと日本へ渡ることが出来た 

日本へ渡った鑑真は仏教の教えだけでなく医学や彫刻の技法までも教えて回った。

763年 鑑真は長い間日本で過ごし 結局 唐に戻ることなく亡くなった

唐招提寺には今も弟子たちによって作られた鑑真和上像が安置されている

1980年には日本から中国 かつて鑑真が住んでいた大明寺(江蘇省)へ鑑真像が贈られた


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8世紀 道鏡と考謙上皇 僧侶と貴族の権力争い

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は皇族お墨付きの僧侶で一般人からも尊敬されている人物であった

考謙上皇(こうけんじょうこう)が病に倒れたときも道鏡の祈りにより回復する

考謙上皇

皇后の甥 藤原仲麻呂は高いくらいにつく最高の貴族であった ただ彼は僧侶である道鏡を嫌っていた

藤原仲麻呂

そのころの天皇は淳仁天皇 しかし祭りごと(政治)ほか 様々な権限は上皇(天皇の親)にあった 

淳仁天皇 

上皇の信頼を得ていた道鏡は大出世して大僧侶となっていく 

藤原仲麻呂 (大乗大臣=総理大臣)は兵を集め反乱をたくらむ そして琵琶湖で上皇軍と仲麻呂軍の決戦が行われた

8日間続いた反乱は大失敗に終わり 琵琶湖の真ん中で とらえられた仲麻呂は処刑された

また淳仁天皇も仲麻呂の手助けをしたとして淡路島(兵庫県)へと島流しとなった

743年 墾田永年私財法が成立 この法律により自分で耕した畑は自分の物になった

この法律により貴族やお寺 神社が自分の土地を所有できるようになった

749年 上皇は称徳天皇となった 道鏡は鳳凰の称号を得た しかし その後 称徳天皇は病に倒れる

770年 藤原一族が押した光仁天皇が即位する 道鏡は 今の栃木県の薬師寺に追放される

その後 藤原一族が政治の中心に立つことになった

光仁天皇


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8世紀 東北地方 蝦夷(えみし)の反乱

7世紀半ばごろから 朝廷は東北へ進出し支配しようとした。

朝廷は東北地方に住む人々を 蝦夷(えみし)と呼び その蝦夷から税を多く取り立てた そのため 東北では たびたび民衆たちの反乱が起こっていた。

また蝦夷は縄文人 又はアイヌ人に似た 掘りの深い顔立ちの民族 4世紀の大和朝廷から続く古い歴史を持っている
※アイヌ人が北海道に上陸するのは10世紀に入ってから※

778年 比叡山延暦寺 滋賀県

比叡山延暦寺

778年 清水寺(京都)

清水寺

780年 蝦夷の武将 呰麻呂(あざまろ)が起こした 呰麻呂(あざまろ)の反乱もその一つ ※別名 宝亀の乱(ほうきのらん)とも言う

781年 桓武天皇の政治が始まる 天皇は地方の役人が税を ねこばばしているとのうわさを耳にする 

桓武天皇

784年 都は平城京(奈良)から長岡京(京都)へと移される その理由として役人の汚職の撲滅と寺が政治に口出しし うるさかったため逃げるような形で都を移した とされている

桓武天皇の弟 きわら親王は反乱をたくらんだとして淡路島(兵庫県)へ島送りとされる

その無罪の罪を着せられた きわら親王は島へ着く途中 亡くなってしまう

その後 疫病が蔓延し 人々は きわら親王の祟りだと言った

794年 長岡京が未完成のまま 都は今の京都の平安京に移された 平安時代の始まり 平安時代はその後400年続く

そのころ 東北地方の反乱は激化し手が付けられないほどであった

長岡京
平安京

天皇から坂上田村麻呂が最初の征夷大将軍を受け取る 東北 蝦夷軍と田村麻呂軍の決戦が行われた

坂上田村麻呂

800年 富士三大噴火の一つ延暦(えんりゃく)の大噴火が発生する。富士山は2年間に渡り噴火した。

801年 田村麻呂は胆沢城(岩手県)を建てる そして田村麻呂と 蝦夷の間で和平が成立する  田村麻呂は 蝦夷を連れ平安京へと戻る

胆沢城(岩手県)

蝦夷は天皇と平和交渉をするために平安京へ行ったのだが 処刑されてしまう

806年 桓武天皇は70歳で崩御する

807年  忍野八海おしのはっかい(富士山のふもとの絶景)  平安時代 日本 山梨県

忍野八海


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9世紀 藤原家の独裁政治

820年代 都が平安京に移ってから3代目 嵯峨上皇の時代には比較的平安な時代が続いた

藤原氏にとって煙たい存在の嵯峨上皇が亡くなると藤原良房は自分たちに都合の悪い勢力を陰謀を巡らせて次々と追い落としていった

藤原良房
嵯峨上皇

858年 藤原良房の孫 声使徒親王がわずか9歳で天皇に即位した 成和天皇である 大乗大臣(今の総理大臣)は藤原良房が勤める 

862年  恐山 平安時代 日本 青森県

恐山2

864年 富士三大噴火の一つ貞観(じょうがん)の大噴火が発生する。この噴火で富士五湖のうちの2つの湖が形成された。噴火は2年間続いた。

866年 応天門の火災 源の誠と左大臣が無実の罪を着せられるところであった
 
結局 犯人はわからずじまいで 仕方なく占いで犯人を決めることになった 占いによれば神怒りが火災を起こした

そこで天皇の使者を伊勢神宮(三重県)へと送って祈った 藤原良房は応天門の放火は とののなかやす 大納言が犯人であると決定した
その罪として 彼らは島流しとなった

866年 応天門の火災

それから5年後 応天門は再建された その後も 藤原家が天皇より強い力を維持し続けた

一方そのころ地方の役人は勝手なことをしていた
地方の役人は税収で取りためた米を横流ししていたのをバレないよう 米倉を燃やしてしていた。

地方役人は国の財産でもある米を自分の物にし また一部の米は農民に貸し付け倍にして返させるなど私腹を肥やすものが増えてきた

米を返せなくなった農民は生まれた家を離れ逃げて行った
逃げた農民はよ その土地でやとわれて働いたり都で集まり浮浪者となったり哀れな生活に落ちていくものがたくさんいた

869年 日本の東北地方にマグニチュード8の貞観地震(じょうがんじしん)が発生する

887年 日本の南海トラフ(西日本太平洋沿い)にマグニチュード8.6の仁和(にんな)地震が襲う

890年 讃岐(さぬき=香川県)へ派遣されていた菅原道真(すがわらのみちざね)が平安京に帰って来る

菅原道真(すがわらのみちざね) 

891年 藤原基経(ふじわらのもとつね)が亡くなる 時の天皇 宇多天皇は祭りごと(政治または政策)がスムーズにいくと喜んだ

宇多天皇
藤原基経

残された藤原家にとって道真が邪魔な存在となる 藤原家は道真を遣唐使として唐へ追いやろうと考える

遣唐使の任命を受けた道真は天皇に もうすでに我が国は唐より勝っていて わざわざ遣唐使を送らなくても唐の方から多くの船が来日している

もうすでに命の危険をさらしてまで遣唐使を送る必要はないと天皇に訴えた。

894年 遣唐使制度は ついに廃止されることとなった

897年 醍醐天皇が即位する 宇多天皇は一線を退き宇多上皇となった

藤原は左大臣となり道真が右大臣となる 仲の悪い2人で天皇を支えることとなった

藤原は道真に反乱の兆しがあると でっち上げた嘘の情報を天皇に告げる 道真は九州の大宰府 へと追いやられることとなる

901年 道真が予言した通り唐は滅亡した

903年 道真は大宰府で2年過ごし59歳で亡くなる その後 藤原家の一族が次々と謎の死を遂げる 道真の祟りと言われた

923年 醍醐天皇の皇太子が亡くなり  次の皇太子もその3年後に亡くなった

930年 醍醐天皇は崩御する 

947年 朝廷は道真の怨霊を慰めるため京都に北野天満宮と言う神社を建てた

北野天満宮(菅原道真を祀った神社) 947年創建


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