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19世紀中頃  アメリカ イギリス軍の手痛いしっぺ返し

イギリス政府は薩摩藩に生麦事件の賠償金(億単位の大金)を請求してきた。

しかしその時 薩摩藩は 犯人は行方をくらましていたため賠償金については どちらが悪いかはっきりしたうえで払うかどうかを決めることにした

その回答に不満を持ったイギリス政府は軍艦を使い鹿児島の町を目掛けて大砲を打ってきた

そのとき鹿児島の町の1割が焼失した。イギリスの艦隊も被害を受け2日後には横浜へ帰っていった。

大久保利通は その時 初めて イギリス軍の強さを知った 西郷隆盛の同感で 全然勝ち目のない相手だと言うことを思い知らされた

大久保利通
西郷隆盛

もともと対立関係にあった薩摩藩と長州藩は その時 手痛い教訓を得てた そして薩摩藩と長州藩の標的は外国人から徳川幕府へと向けられた


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19世紀中頃  御門の変 

長州藩(山口県)VSその他さまざまな藩

京都に来ていた長州藩は朝廷(天皇)を味方につけ幕府を打とうと考えていた

しかし光明天皇は 今の幕府なら まだ外国人を追い払うことができると信じていた。そのため幕府安泰を望んでいた。

天皇は会津藩と薩摩藩を利用して長州藩と三条実美(たねとみ)を京都から締め出そうと考えていた

1863年 そのクーデターは成功し長州藩と三条実美(たねとみ)は京都から追い出された

三条実美

長州藩と敵対する新選組が結成される 新選組は次々と対立する組織を襲撃し切り付けていった

当時 藩同士の争いは絶えなかったが 幕府と朝廷の関係は良好であった

そして長州藩と薩摩藩(その他 様々な藩)が入り乱れ戦闘になった

戦いは1日で終わったが 京都の町は3日間燃え続け3000軒の家が燃えた 長州藩は敗れ去った これら一連の出来事を浜御門の変と言う


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19世紀中頃 長州軍(山口県)
VS
欧米4か国の連合軍+徳川幕府15万の兵 

1864年 幕府は山口県に兵を送り 第1次長州征伐が行われた そのころ長州藩(山口県)はもう一つの敵からの攻撃を受けていた

第1次長州征伐

長州藩が関門海峡(福岡と山口県の間の海峡)を通さなかったという理由でアメリカ イギリス フランス オランダの連合軍艦隊が下関(山口県)を攻撃してきた。

 

関門海峡

連合軍は上陸を果たし長州軍が持つ砲台すべてを占領した 長州藩の危機を知りロンドンへ留学していた伊藤博文と井上馨が日本へ帰ってきた

伊藤と井上は連合軍と停戦に向けた話し合いに臨んだ 相手が出してきた興和(和平)の条件は

①関門海峡を安全に通す事 ②下関港で水や石炭 食料の買い出しを認める事 ③賠償金を支払う事 

その3つの条件で長州藩と4か国(アメリカ イギリス フランス オランダ)との講和(和平)が結ばれた

そのころ長州藩の国境では江戸から駆け付けた幕府軍15万の兵が総攻撃の時を待っていた。

しかし両軍 戦いには消極的であった そこで西郷隆盛(薩摩藩で幕府軍)が長州藩の ところへ行き説得を試みた

その結果 戦いは行われることなく長州藩が幕府に謝罪することで問題は解決した 


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19世紀中頃  長州と薩摩が

幕府打倒を目指し結成する

長州藩の高杉晋作 木戸孝之 伊藤博文らは 新たな軍を結成し幕府に攻撃を加える機会を狙っていた

木戸孝之

そこで土佐(高知県)の坂本龍馬から武器を譲り受けることにした。

坂本龍馬

竜馬は剣が強く勉学にも優れ さらに世界中の国と貿易し長崎に会社を起こす実業家でもあった

竜馬は さっそくグラバー邸(長崎)で外国人に合い 外国人から武器を買う約束を取り付けた

グラバー園

  

龍馬は江戸の勝海舟(武士と政治家)の勧めで西郷隆盛と会った 西郷もまた龍馬の事は勝海舟からよく聞かされていた。

勝海舟

今の幕府を倒さなければ日本は外国の食い物にされてしまうと言う意見では龍馬も西郷も同じ意見だった。

ただ薩摩出身の西郷は長州を嫌っていた。そこで龍馬が仲介に入り薩摩の西郷と長州の木戸が仲直りさせた。

1866年 ひそかに薩長連合(長州&薩摩)が結ばれた これで幕府を倒し新しい政権を作ろうとする動きが高まってきた

薩長連合

一方そのころ江戸や大阪では幕府と長州が再び戦争が起こすとのうわさが流れ米の値段が急激に上がった 

それを知った庶民たちが暴動に走った。また各地の農村でも一揆も多発した。


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19世紀中頃  第2回長州征伐 徳川幕府VS薩長軍 

幕府はフランスで革命に成功したナポレオンに見習い大名を廃止しようとしていた。

1866年 第14代将軍 家茂(いえもち)が自ら第2回長州征伐のため山口県へ向かった

第2回長州征伐

しかし今まで幕府軍の味方に付いていた薩摩郡が長州側に回り 

さらに長州軍は近代的な武器を備えていていたため幕府軍はコテンパンに打ちのめされた

 幕府が負け戦を続けているうちに大坂城で将軍 持家(もちいえ)が亡くなった それを理由に幕府は戦いを中止した

同年 年末 徳川義信(よしのぶ=ラストエンペラー)が15代将軍に着く 義信(よしのぶ)は軍事力を強化するためにフランスと手を結んだ

徳川義信

その時オランダは国力が弱まり またアメリカは南北戦争のさなかだった

フランスは日本の生糸が欲しく幕府に協力した そのとき幕府は莫大な借金をしフランスから武器や軍艦を買い入れた

幕府は武器を作るときに必要な鉄を溶かすために反射炉を建てた また勝海舟に海軍を作らせた

 

那珂湊なかみなと 反射炉

またその時 義信(徳川将軍)は天皇を味方につけたく 江戸ではなく京都御所(天皇の住まい)により近い大坂城で暮らしていた。


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