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6世紀初頭  大和朝廷 朝鮮を攻める

6世紀初めごろ(526年)  奈良県のあたりで継体天皇が誕生する

継体天皇
継体天皇

527年(6世紀初め)  大和朝廷軍と筑紫国の磐井軍との戦闘が起こる 磐井の乱と言う 戦いは1年半に及んだ

結果は大和朝廷軍の勝利 大和朝廷は さらに朝鮮半島へと責めるが新羅の軍に打ち砕かれ敗北する

大和朝廷の大王が亡くなり 筑紫国との戦いで活躍した 物部氏(もののべうじ)一族が勢力をつける

農民たちは そのころ鉄製の鍬が多く使うようになる

一方 政治は 曽我氏が朝廷内の権力争いに勝ち続ける 曽我氏は年貢(税=農作物)をいっぱい徴収し 人々(農民)の生活を苦しめる


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6世紀~  物部と蘇我 聖徳太子の時代

6世紀(558年) 日本に仏教が伝わる 欽明天皇に金の仏像が送られてきたのが始まり

天皇と曽我のは仏教を推進する しかし 物部は海外から来た宗教を仏教を嫌う その後も 権力者の曽我のと物部は事ある事に対立する 

6世紀(574年2月7日)厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)馬宿で生まれたのでそう名付けられた

厩戸皇子 聖徳太子

同じく6世紀 インド人で中国大陸に仏教を伝えた僧侶の一人 達磨(だるま)が日本列島を訪れ聖徳太子と会う※少林寺の洞窟に達磨の象が残っている

平安末期(12世紀ごろ)日本達磨宗(にほん だるましゅう)(※日本のお坊さんが開いた宗派の一つ)が起こる

達磨

用明天皇は わずか2年ほどで亡くなる 次期天皇をめぐって 曽我軍と物部軍との間で戦争になる 結果は蘇我の勝利

用明天皇

崇峻(すしゅん)天皇が誕生する 蘇我馬子は天皇以上の権力者となる その要因に当時の一番の財力元 お米を大量に保有していたこと

崇峻(すしゅん)天皇

それと蘇我の家族を天皇家に嫁がせ 蘇我は先祖代々 天皇家と親戚関係にあったことと考えられる 

ただ蘇俊天皇は蘇我馬子を嫌っていた その噂を聞いた蘇我は天皇を殺害してしまう


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6世紀末~  飛鳥時代 聖徳太子の時代

592年 飛鳥時代が始まる 飛鳥時代になると古墳は作られなくなり 代わりに寺院が多く作られるようになる

どちらにせよ建設に多くの農民が駆り出される事となる

飛鳥時代

6世紀末(593年) 馬子の銘の推古天皇(日本で初めてとなる女性天皇)が誕生する 

以降 10人の女性天皇が誕生している

だが実際 政治を行うのは推古天皇の甥 聖徳太子だった 

ちなみに その後 女性天皇は10人誕生することとなる

推古天皇

聖徳太子は それまでの家柄重視(部族有利)の体制から 実力重視の出世の能力主義を導入した。

その後 役人の12の階級分けられた そのほか裁判の際 賄賂を受け取らないなど決め事を作った それを憲法17条と言う

一方 そのころ中国大陸では隋が力をつけ朝鮮半島まで迫っていた

飛鳥時代の倭国(日本) 今の広島に厳島神社が建てられた 

厳島神社

(7世紀ごろ) 紀元前2世紀 中国で発明された紙すきの技術が 約900年の時を得て 7世紀頃 日本に伝わったとされている

(607年)7世紀初め 聖徳太子は中国大陸の隋(今の洛陽)に遣隋使(第2回)を派遣し 隋の仏教や文化を取り入れる

奈良の法隆寺も そのころ建てられた

奈良の法隆寺

607年 隋の2代目皇帝 煬帝(ようてい)に遣隋使は日の上る国(日本)から日の沈む国(中国)へと書いた巻物を手渡す

それは一見 隋の皇帝を侮辱するような内容であったが実は皇帝の気を引く戦略であった

また それまで倭国と呼ばれていた日本が それ以降 倭国ではなく(日=太陽 本=元 中国から見て日本は東にあるから 日が昇る国 つまり)〃日本〃と呼ばれるようになったとされている

煬帝

 
翌年 遣隋使は隋の使者を引き連れ日本へと戻ってきた 隋の使者は当時 仏教の宝であった法隆寺を見学した。

遣隋使船

隋の使者は倭国(日本)から多くの留学生を引き連れ帰国した それら日本(倭国)の留学生たちは大陸で多くの事を学び 
次の時代の大化の改新に大いに役立った

その後 聖徳太子は蘇我馬子と共に歴史の本を製作する

7世紀 北海道から東北にかけて擦文文化を取り入れた擦文時代に入る アイヌ人からなる蝦夷(エミシ)もその一つ 擦文時代は およそ700年ほど続く※本州とは異なった政権

擦文時代の土器
蝦夷(エミシ)

7世紀(618年) 中国大陸では隋が滅亡し 唐が誕生する

622年 聖徳太子(49歳)が亡くなり 推古天皇と蘇我馬子との関係も悪くなる  2年後には馬子もなくなる

二十数年後 推古天皇もなくなり 曽我氏(一族)の勢力は ますます大きくなっていた。


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7世紀 中期  大化の改新と中大兄皇子の時代

642年 聖徳太子の息子(やましろのおおえ)が馬子の息子が蘇我蝦夷(えみし)馬子の孫の蘇我入鹿(そがのいるか)たちによって殺害される

えみし
蘇我入鹿

殺した方も殺された方も同じ血筋(親戚同士)にあった 豪族 中臣鎌足(なかとみのかまたり)は聖徳太子を尊敬していた。

また中国大陸の隋や唐の政治を熱心に研究していた。

中臣鎌足(藤原鎌足)

645年 大極殿で 今度は中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)と中臣鎌足により曽我の入鹿と蝦夷が殺される 曽我家は滅びる

中大兄皇子(天智天皇)
大極殿

次期天皇は中大兄皇子の叔父が勤めることとなった。また古人大兄王子(ふるひとのおおえのおうじ)も無実の罪を負わされ死刑となる

古人大兄王子

それらのクーデターのち豪族から天皇が中心となり政治を行うようになった 

それらの出来事を大化の改新と呼び その時 初めて大化と言う元号がつけられた。

大化元年(645年) 都を飛鳥(奈良)から大阪の難波へ移す しかし新たな改革は うまくいかなかった 天皇が数名亡くなったのち 都は再び飛鳥へと戻された

661年 百済(朝鮮)の遣いが助けを求めて日本へ来る そのとき唐(中国大陸)が新羅(朝鮮)と手を組み百済(同じく朝鮮)を陥落させた事を告げた

中大兄皇子と斉明天皇は 昔からの友好関係にある百済(朝鮮)を助けるため大阪(難波津)から北九州(那津なのつ)へ援軍を送った

斉明天皇

その後 斉明天皇は亡くなり中大兄皇子が政治を行う

662年 援軍は朝鮮半島に向け出発した 幾度かの戦いののち日本の水軍(海軍)は白村江(はくすきのえ)の戦い で全滅し 百済(朝鮮)も滅びる

新羅は高句麗も滅ぼし朝鮮半島を統一する 日本は唐の進撃に備え 北九州 那津に防衛基地として大宰府を設けた また各地に要塞となる城が築かれ

667年 安全のため都を飛鳥京(奈良)から大津京(滋賀)へと移された

翌年 皇太子だった中大兄皇子は天皇の位へ着く そのとき新天皇 天智天皇と中臣鎌足は再会を果たす

鎌足は そのとき天智天皇から名誉ある名字をいただき藤原鎌足(ふじわらのかまたり)となる

大津京(滋賀) 
飛鳥京 (跡) 奈良 

669年 鎌足は亡くなる


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7世紀 中大兄皇子の弟 

大海人皇子(おおあまのおうじ)の時代

舞台は大津宮 天智天皇は弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を退いて(辞退させ) 皇太子の座に大友皇子を置いた

大海人皇子(おおあまのおうじ)は出家する

672年 天智天皇が崩御 同年  大海人皇子軍と弘文天皇(大友皇子)軍との戦 壬申(じんしん)の乱が発生する 

弘文天皇(大友皇子) 

両軍は瀬田川(滋賀県)で にらみ合った 結果 大海人皇子(おおあまのおうじ) が勝利する

瀬田川

奈良県の飛鳥の都で天武天皇(大海人皇子)が誕生する

天武天皇

大化の改新以降 天皇家が所有していた土地は いつの間にか豪族の手に渡っていた それらの土地を再び天武天皇が没収する

政治は天武天皇と その息子たちが行った そのとき律令制が行われるようになった 天皇が国民に農地を貸し与え その代わりに税を徴収すると言うもの

それらは大化の改新で決まったことだが うまく機能していなかった

680年 薬師寺 五重塔 高さ34メートル 奈良 

薬師寺

683年 人々にありがたい説教を行う 行基が飛鳥寺(法興寺)の僧侶となる

また 行基は人々のために道を造ったり橋をかけたり人口池を掘ったり旅人が泊まる無料の宿などの建設を支持した。

行基
飛鳥寺(法興寺)

684年 日本の南海トラフ(西日本太平洋沿い)にマグニチュード8から9クラスの白鳳(はくほう)地震が襲い 被害は全国に及んだ

686年 天武天皇が亡くなる

次期天皇 一番の有力候補でもあった大津皇子は皇后の仕業で無罪の罪を課せられ死刑となる 

そして次期天皇に皇后の実の息子 草壁皇子がなるが 即位してすぐ急死してしまう

大津皇子
 

690年 女帝 持統天皇(皇后)が誕生する

持統天皇

694年 唐の都に習って 今の奈良県に藤原京と言う立派な宮殿が作られた

その7年後 持統天皇(女帝)は孫に天皇の座を渡し 文武天皇が誕生する

文武天皇
藤原京


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