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19世紀中頃 外国船打払い令 オランダ国王からの忠告

日本中が暴動の巻き込まれている さなか江戸湾沖にはアメリカの商船 モリソン号が姿を現した 

アメリカの商船

モリソン号は漂流した日本人を送り届けるため江戸湾にやってきたのだが

幕府の外国船打払い令によって放たれた大砲により モリソン号は追い返されてしまった

あわや戦争になり兼ねないと幕府に忠告した学者たちが次々と反逆者の疑いで捕まっていった。

モリソン号 

1837年 11代将軍 徳川家斉は将軍職を家慶に譲った

またしても財政の悪化から 天保の改革と言う 贅沢禁止令が出された しかし各地で暴動が相次ぎ改革は3年で失敗に終わった

徳川家慶

1844年 オランダの国王から江戸幕府に ほかの国とも貿易をした方がいいですよとの手紙を受け取る 


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19世紀中頃 過酷な強制労働を科せられた北海道アイヌ民族

1830年ごろ 空前の参拝ブームが起こり 伊勢神宮(三重県)は年500万の人が訪れた

1845年 三重県伊勢出身の旅人 松浦武四郎が蝦夷地(北海道)に到達する

武四郎は現地に住むアイヌ人からアイヌ語を学び旅をしながらアイヌに関する様々なことを記録した

その後 武四郎は江戸(東京)に戻りアイヌに関する本を24冊書き出版した。

たちまち武四郎は蝦夷地(北海道)の第一人者として誰もが認める存在となる

北海道アイヌ民族の第一人者であり またよき理解者でもある 松浦武四郎

1854年 愛知県 三河湾沖でマグニチュード8の安政東海地震が発生する

翌日 四国と和歌山県の海沿いでマグニチュード8の安政南海地震が発生する

安政東海地震

1855年 マグニチュード7の安政の大地震が江戸を襲った

安政の大地震

1858年 日本はアメリカと結んだ日米修好通商条約(不平等条約)により アメリカが求めてきた①神奈川②長崎③新潟④兵庫の4つの港を開港した。

1863年 イギリスが生麦事件の報復として鹿児島を攻撃 薩英戦争が勃発する。戦いは決着が着かないまま終わる

薩英戦争

同年 長州藩とアメリカ イギリス フランス オランダとの連合軍との間で下関戦争が勃発する

敗北を期した日本は連合国から多額の賠償金を請求される

下関戦争

1868年 明治日本の産業遺産 長崎 軍艦島  

軍艦島

1869年 明治政府は蝦夷地(北海道)に新たな開拓使を設けた

それに伴い蝦夷地の第一人者でもある武四郎に蝦夷地開拓の協力を依頼した

当時 蝦夷地を納めていたのは松前藩は北海道の特産物を多く売りさばくためアイヌ人の若者を奴隷のように働かせていた

そこで武四郎が政府に協力するにあたって松前藩を蝦夷地から外し そしてアイヌ人に対して過酷な労働をやめさせるなどの条件を出してきた 

明治政府は その条件を飲む形で武四郎を受け入れた 武四郎は蝦夷地を統治する役人に抜擢された

当時 本州の人々は北海道の事を蝦夷地と呼んでいたが アイヌ人は北海道の事をカイと呼んでいた

そこで武四郎は蝦夷地を日本語にアイヌ語を取り入れた北加伊道(北カイ道) 〃北海道〃と改名した

さらに武四郎は札幌(アイヌ語=サッポロッペ)や小樽(オタルナイ)十勝(トウプウシ)など100近くのアイヌ語の地名をそのまま残した

また明治政府はアイヌ人に厳しい労働をかせないよう通告が出された しかし商人たちの猛反発にあい実行には至らなかった

結局 開拓使の役人は汚職にまみれ賄賂を払った商人たちの思うがままとなっていった 

そして武四郎は過酷な労働に課せられたアイヌ人を助けることができないまま開拓使を自ら辞任した。

1870年 日章旗が日本の国旗となる 日本は明治に入り始めて国旗を使うようになった

日本の国旗

1871年 北海道でアイヌ人が伝統的に行ってきた祭りイオマンテが禁止となり 

さらに戸籍法が制定されアイヌ人は日本人の名前と日本語の使用を強制され日本社会の中に組み込まれて行った

北海道開拓使

宮古島島民遭難事件が発生する 琉球(沖縄)から台湾(清領)へ69人が漂流したうち54人が台湾原住民に殺害される

日本政府(明治政府)は清朝に抗議したが 何の回答も得られなかった

(その3年後) 明治政府(日本)は台湾へ出兵し報復行動に出た すると清は明治政府に60億円の賠償金を支払い和解に応じた

宮古島島民遭難事件で亡くなった人のお墓
 


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19世紀中頃 鋼鉄の戦艦 黒船来航! 

 脅しに屈し結ばされた 日米和親条約

当時 欧米列強は日本ではなく広大な領土を持つ清を狙っていた 日本は そのころ鎖国と言う自ら興した経済制裁により かなり遅れた国になっていた

19世紀に入りアメリカは大型の機械を導入し綿製品の大量生産を行っていた アメリカはその綿製品を船を使い清(中国)へ輸出しようと考えていた。

その際 日本に立ち寄り 日本の港で水や石炭の補給をしようとしていた。

1853年 浦賀沖(神奈川) ペリー総督が乗る4隻のアメリカ軍艦(旗艦サスケハナ号)が現れ そこから日本の歴史は大きく変わることになる

ペリー総督
旗艦サスケハナ号

浦賀沖(神奈川)の奉行所(役所)ではロシア船の時と同じように いったん長崎へ行かせそこで断ろうと考えていた

しかしペリーはアメリカ大統領の親書を持ってきた長崎へはいけないと断ってきた ペリーは強硬な態度で上陸させないなら攻撃すると脅してきた

奉行所(役所)は馬を走らせ江戸の本部に助けを求めた 戦争になったら勝ち目はないと悟った江戸幕府はアメリカからの親書を受け取ることにした

親書を手渡したペリーは日本からの返事を待つことにして いったん香港へと向かった 

アメリカとの貿易をするか しないか 幕府は自分たちだけでは決められず朝廷(天皇)や一般人の意見まで聞いた。実はその時 徳川 将軍 家定は病弱で政治を取れる状態でなかった

徳川家定 徳川家斉

1854年 ペリーが再び7隻の戦艦を引き連れ 江戸湾の羽田沖に現れた もしアメリカ側が出した条件に従わなけれべ100隻で攻撃すると脅してきた

幕府は 当初 貿易をしないことを条件に港を開くことにした これを日米和親条約と言う

そこで日本は条約に従い下田(静岡県伊豆半島)と函館(北海道)に港を開きアメリカが必要とする水や石炭や薪を用意することにした。

そのとき江戸幕府(日本)は200年以上続けてきた鎖国が終わった

19世紀の下田港
日米和親条約


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19世紀中頃 徳川幕府の弱虫外交 

脅しに屈し結ばされた 日米修好通商(不平等)条約 

1856年 タウンゼントハリスが来日し下田の玉泉寺をアメリカ領事館にした

ハリスは 13代将軍 徳川家定 と面会しアメリカ大統領が自ら書いた親書を手渡した

タウンゼントハリス
玉泉寺のアメリカ領事館

1857年 日本とアメリカは13回の会談を重ね通商条約をまとめた 

条約の内容は両国の もめ事 又は事件があった場合 裁判の権利アメリカにあり日本にない 

また税率もアメリカが決めるなど 日本にとって かなり不利な条件であった

最後は光明天皇に了解を得ることにした。しかし天皇はその不平等条約に反対した。

幕府は ちょうどそのころ清(中国)で戦闘を終えたイギリス フランスの戦艦が日本へ向かっているとの情報を得る

アメリカ人のハリスは調印を済ませれば仲介役を買って出ると言ってきた

事態の急変を重く見た井伊直弼(いいなおすけ=傲慢政治家)は天皇と徳川将軍の意見を無視し勝手に調印を済ませてしまった。

井伊直弼

1857年  日米修好通商条約が結ばれた(日米不平等条約が結ばれた。)

その のちオランダ イギリス ロシア フランスとも同じ不平等条約を結ばされた これを安政五か国条約と言う 実はその時 ドイツ南部のプロイセン(国)も その不平等な条約を日本と結びたがっていた。

安政五か国条約


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19世紀中頃   徳川幕府崩壊の兆し

山口県では吉田松陰が下級武士を集め松下村塾(しょうかそんじゅく)と言う政治塾を開いていた。

吉田松陰

生徒の中には高杉晋作  日下玄随 伊藤博文 品川弥次郎 など次の時代を担う人材が集まっていた 

伊藤博文
松下村塾
高杉晋作 
品川弥次郎

吉田松陰は徳川幕府を倒し 下級武士や商人 農民が協力し 朝廷(天皇)を中心とした国家を築こうとしていた

1859年 傲慢な独裁政治を行っていた彦根藩(滋賀)井伊直弼(いいなおすけ)は多くの政治犯をとらえ処罰した これを安政の大獄と言う

1860年 井伊直弼は多くの人の恨みを買い45歳で暗殺される 桜田門外の変と言う それ以降 幕府の崩壊は急速に早まった

桜田門外の変

同年  幕府の木造船の軍艦 咸臨丸(かんりんまる)がハワイを経由しアメリカ サンフランシスコへと向かった

船にはジョン万次郎こと中川万次郎と福沢諭吉などが乗っていた

咸臨丸


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19世紀中頃  日本で外国人を標的にした殺人事件が多発!

鎖国が解かれた日本では幕府が遺人(外国人)と商売するようになり 

また外国人たちが生糸を大量に買い占めたため米だけでなく様々なものの物価が上昇した

日本では そんな外国人に対する不満が高まり外国人を排除する運動が高まった 

横浜ではロシア士官と水兵が日本人により殺された 江戸でもアメリカ公使館の通訳が暗殺された

1862年 鹿児島の薩摩藩が移動中 道を開けなかったイギリス人が切り付けられる事件が発生した。

神奈川の生麦村で怒ったので生麦事件と呼ばれている

生麦事件 

1863年 二条城  家光公依頼 230年ぶりに徳川将軍が天皇の住む京都を訪れた

 力の弱ってきた徳川幕府は天皇(天皇)と親戚関係を持ち存続を図った


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19世紀中頃 長州藩 外国船に攻撃を加える

1863年  長州 下関 久坂玄随(くさかげんずい)らがアメリカ商船に向け大砲を放った

久坂玄随

長州藩はその後もフランスやオランダの軍艦を打ち払った

しかし その後 アメリカ軍の大きな仕返し攻撃を受けることになる

続いてフランス軍の長州藩の海辺に置かれた大砲を占拠した

幕府は攻撃の中止を命じたが 一方 朝廷(天皇)からは絶賛する声が届いた

高杉謙信は民兵を組織して外国人に対抗しようとした。それらの兵士を奇兵隊と言う

奇兵隊

長州藩は外国船を攻撃する一方で航海術の勉強をさせるために

伊藤博文 井上馨(かおる)と言った若者たちをイギリスに留学生として送った

井上馨


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