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17世紀末  職を失った武士たちの反乱

17から18世紀にかけての日本 この時代 あわれなのは農民だけではなかった 

幕府(政府)が反乱を恐れて行った大名(だいみょう=地方の地主)つぶしの結果 雇止めとなる武士が増えた その数は全国に40万人もいた

また大名も戦がない限り武士を必要としていなかった そのため一度 職を失った武士は 次の大名を見つけるのは困難だった

それら職を失った武士を浪人といい そんな浪人を助けようと由井正雪は幕府転覆を狙ったが 事前に計画が漏れ切腹させられた

幕府もその問題を深刻にとらえ大名の取りつぶしを改めた また浪人の再就就職先の手配した。

浪人

1683年 台湾 鄭氏政権(漢民族国家)は中国 清朝(満州族の国家)の攻撃を受け滅亡する 

その際 台湾 鄭氏は日本(江戸幕府)に助けを求めたが当時 日本は鎖国状態にあり支援は実現しなかった。

その経緯は日本でも よく知られ今でも歌舞伎の題材として使用されている

鄭氏一族による台湾統治は3代23年間で終了した 

 
1680年 4代目 家綱が亡くなり 綱吉が5代目の将軍となった

徳川綱吉

綱吉は浪人が増えても気にせず大名の取りつぶしにかかった また幕府内(政権内)を引き締めを図るため人事の入れ替えも行った。

数十年後 綱吉が大名(地方の地主)取りつぶしと浪人(失業した武士)を野放しにしたことにより幕府内(政権内)ある悲劇が発生する

1701年 江戸城(現 皇居) 松の廊下で 赤穂城(兵庫県)の浅野長矩(城主=大名)が吉良義央(幕府内部の人)を切り付ける事件が発生する 

浅野長矩
赤穂城

事件を起こした浅野(兵庫の大名)は領地を没収され切腹を命じられた

1702年 大石倉之助以下46人(浅野の家来たち=浪人)が江戸城の吉良邸を襲撃し主君(浅野大名)の恨みを晴らした。

綱吉(つなよし=5代目将軍)の悪い政治に圧迫されていた町民(江戸市民)たちは大石(反逆者)たちを歓迎した。

その後 大石たち46人は切腹させられたが赤穂浪士(あこうろうし=赤穂出身の浪人)は忠臣蔵(ちゅうしんぐら)として今も伝えられ根強い人気を持っている。

大石倉之助


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17世紀末  将軍が起こした御犬様 騒動 

5代目将軍 綱吉は中国文学に興味があり儒教(じゅきょう=中国発祥の宗教の一つ)取り入れた湯島聖堂(東京)を建てた。

湯島聖堂

しかし綱吉は変な迷信にとらわれ とんでもない発令を出したこともあった

1687年 生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい) それは庶民に動物を殺してはいけないという法律だった 

特に犬に対しては厳しく ある日 盗みを働いた犬を叩いて島流しになった人もいた さらに犬を殺したものは死刑になった 

人々は犬を飼うのを怖がり 町中は野良犬であふれた そんな野良犬を保護するために4万8千匹の犬を収容する施設が作られた 

施設内の犬は白米やイワシなど一般庶民よりも豪華な食事をしていた。その行き過ぎた動物保護の政策は綱吉が亡くなるまでの20年間続けられた。
 
当時 綱吉の発言は絶対で幕府内(政権内部)の人間も この政策に対し誰も疑問視する者はいなかった。

生類憐みの令

1703年 12月31日 深夜2時 関東地方にマグニチュード8の元禄地震が襲う

1707年 和歌山県沖に南海トラフ マグニチュード8の宝永地震が襲う

宝永地震

同年 富士3大噴火の一つ宝永大噴火により富士山が2週間噴火した。

この噴火により富士山横の ちょっとした出っ張り宝永山が出来る

なおこの噴火が今のところ 富士山最後の噴火となっている。

宝永大噴火
宝永大噴火で出来た傷跡
宝永山

1709年 正月 綱吉は病に倒れる 翌年2月に亡くなる


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18世紀初頭 貧しい人でも治療が受けられる施設を開設! 

新たな消防団の結成!

1716年 8代将軍に 和歌山県 紀州から来た徳川吉宗がなる 

吉宗は まず財政悪化を重く見て贅沢禁止の倹約令(けんやくれい)を発令した 

1721年 江戸の日本橋に将軍が庶民の意見を聞く目安箱を設置 将軍 幕府 役人の不満がある人は その箱に自由に投稿できた

その大改革により貧しい病人や年寄りでも無料で治療を受けられる小石川養生所と言う施設が完成した。

また そのころ 江戸では火事が多発し幕府はその対策に苦慮していた

そこで 大名(地主)が組織する大名火消し 旗本(武士)が組織する定火消(じょうびけし)の 

ほかに町民が組織する町火消を47ヵ所 作らせ大活躍した そのときの町火消はの消防団の原型となった


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18世紀初頭 江戸時代の経済改革  

享保(きょうほう)の改革

この時代 江戸も大阪のように商人が力をつけ幕府にお金を貸していた そこで幕府は借金返済のため年貢(税)多く取り上げた 

その代わりに参勤交代で大名が江戸に滞在する期間を1年から半年に縮小した。それを上米の例と言う

1722年  18万7千石(今の価格で約69億円)ほどの米が幕府に収められた それにより幕府は長年たまっていた借金を返すことができた

また年貢の足りたて法も変えた それまでは毎年 米の収穫量により年貢を納める量を決めていた 

それを これからは過去数年の米の収穫量を平均して年貢の納める量を決めた それにより幕府は毎年決まった税収を得ることが可能となった 

また新田開発と言う新たな農地の開拓も行った また江戸では経済発展とともに物価の上昇が起こっていた

一方 米の値段は半分になるまで下落していた それに困窮したは米を売って収入を得ている武士だった

中には刀(武士の魂)を売って生活を養う武士もいた。

将軍 吉宗は商人を呼び出し生活必需品に関しては値上げしないよう促した もし勝手に値上げしたものには罰金を科すことにした。

それら吉宗の行った経済対策は いろいろ不備なところもあり物価も安定したとは言えないが享保(きょうほう)の改革と言われ評価されている

1751年 吉宗は67歳で亡くなる


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18世紀中頃 田沼意次(おきつぐ)の経済政策!成功と失敗!!

1760年 10代将軍 徳川家治(いえはる)の時代になって登場したのが田沼意次(たぬまおきつぐ) 

徳川家治 
田沼意次

意次(おきつぐ)は紀州藩の下級武士であったが その才能を発揮して大名の列に加わっていた

将軍 家治は 意次(おきつぐ)に政治のすべてを任せていた。そんなとき家治は またしても財政の悪化を悩んでいた

意次(おきつぐ)は家治に年貢だけで財政を立て直すのは難しく商人を積極的に利用し何か新しい産業を興すように提案する

幕府は さっそく銅鉱山の産業を承認し また海産物の増産を進め 海外との貿易も積極的に行い 財政の立て直しを図った

意次(おきつぐ)いい役職に就きたい役人や いい特権を得たい商人から多くの賄賂(わいろ)が届いた

田沼意次(おきつぐ)は政治家としては優秀な人物であったが商人から賄賂を取ることは何の反省もなかった

続いて意次(おきつぐ)は江戸と大阪の商人に資金を出させ 

印旛沼(いんばぬま)の開拓 と言う新たな田畑の開拓を行った が しかし工事の途中で利根(とね)川の堤防が決壊し開拓地は水びだしとなる

1786年 ついに意次(おきつぐ)は幕府から解雇処分を受ける

同年 意次(おきつぐ)の後ろ盾 10代将軍 家忠が亡くなると意次(おきつぐ)の土地と財産は没収された


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18世紀中頃  天明の大飢饉  

天候不順と大飢饉が全国を襲う

1757年 東北危機 天候不順により飢饉が多発

1760年  全国的な天候不順により飢饉が多発する

1782年 天明の大飢饉が発生  仙台藩では30万 南部藩では6万4千人が疫病に掛かったり飢え死にした 

しかし亡くなったのは農民が大多数で役人は死ななかったと伝えられている

天明の大飢饉

1783年 大飢饉に追い打ちをかけるように浅間山(長野)が大噴火を起こした 江戸の町にも火山灰が降り積もった

浅間山

また火山灰は大気で浮遊し太陽光を遮り凶作の原因にもなった そして米の値段が4~5倍に跳ね上がった 

そんな中 備後(びんご)の国福島(広島県)では高騰する年貢の取り立てに腹を立てた農民が年貢を安くしろと農民一揆を起こした

江戸(東京)でも米の値段がどんどん跳ね上がり生活に困った人々が暴動に走った

暴動は青山 赤坂の米屋敷を手始めに酒屋 質屋 味噌屋と次々と破壊されていった その暴動は やがて全国へと広がった


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