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17世紀初頭  徳川家康 幕府260年の基礎を固める

蝦夷(北海道)と琉球(沖縄)を支配下に置く

1609年 九州 鹿児島の薩摩藩が琉球王国(沖縄)を攻め占領する

同年 1609年 江戸幕府は秀吉の朝鮮出兵以来途切れていた朝鮮との貿易を再開した。

1615年 家康は武家諸法度(ぶけしょはっと)を交付する

①戦の気配を感じたらすぐに届け出る人殺しも同様

②大名同士の結婚も必ず届ける

③城の改築新築も届ける などなど 家康は武士や大名に厳しい決まりをかした。その後 家康により40人の大名が処罰された

1616年 徳川家康は以後260年にわたって続く徳川幕府の基礎を作り終えたのち75歳で亡くなった

家康は以後260年にわたって続く徳川幕府の基

同年 1616年 日本は欧米船の入港を平戸(長崎)のみに限定した。


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17世紀初頭  3代目家光の恐怖政治と粛清!

1617年 家康の魂は日光東照宮(栃木県)にまつられた その後 3代目家光が東照宮を今のように豪華に作り替えた

家康の後を次いだ2代目将軍 義忠も家康の教えを忠実に守り 特に大名には厳しかった

家康の武家諸法度(ぶけしょはっと=大名を厳しく取り締まる法律)を忠実に守り 

違反した大名から次々と領土を没収していった その数は39人にも及んだ

日光東照宮

1618年 島原城 長崎 

島原城2
島原城3

1623年 2代目 義忠は将軍職を引退し 3代目 家光に譲る 

3代目将軍 家光は強権政治で法律や制度を強化し幕府の地位を高めていった

1624年 スペイン人の日本への入港を禁止した。

1632年 2代将軍 義忠が亡くなる

同年 家光は参勤交代という 大名とその家族を2年に1回(期間1年間)強制的に江戸に滞在させる政策をとる

参勤交代

交通費や滞在費は自分持ちなので経済的にも大名を苦しませる方法がとられた 幕府(政府)は大名を苦しめることで反乱を防いだ

豊臣の家来(大名)もその政策によりつぶされた 続いて狙われたのは肥後(熊本)の大名 加藤忠広(加藤清正の息子)だった

加藤忠広

加藤は反乱を起こそうとしたとして無実の罪を着せられ土地を没収された

さらに家光と仲の悪かった弟の徳永忠長(別名 駿河の大納言)は家光の命令により切腹させられた


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17世紀初頭 徳川家光 恐怖政治とキリスト教弾圧の強化

幕府(政府)=家光が大名への圧力を強める中 幕府(家光)の機嫌を問う大名もいた

九州長崎の肥前島原(ひぜんしまばら)では大名の松倉勝家が幕府=家光のご機嫌取りをしたため

島原の場所
島原

農民は年貢(税)として たくさんの米を納めなければならなくなった 年貢を納められなかった物は見せしめのため公開処刑されていた

さらに家光は 今まで以上にキリスト教徒に対して弾圧を強めた

十字架をわざと踏ませ もし踏めないものがいたらキリスタンとみなされ処刑された 

その踏み絵というやり方は長崎の奉行(ぶぎょう=役人)が考えたもので その踏み絵により多くの日本人キリスタンが処刑された 
 
しかしこの踏み絵は信者たちの進行をより一層 強くしていった

踏み絵に使われたキリスト
キリスト教弾圧
キリスト教弾圧

キリスト教を廃絶するためには日本人の海外への渡航を禁止する必要があると考えた家光は朱印船の出向を止めた

さらに外国にいる日本人に対しては帰国しないようにと促した それでも帰国したものは処刑された

家光のキリスタン撲滅政策の影響でスペイン人を日本から追放した。平戸 オランダ商館のオランダ人は喜んだ

オランダ人は次はポルトガル人を追い出し貿易を独占するのだと意気込んだ
平戸のオランダ商館は 徳川幕府が鎖国政策を始める前までオランダ商人が住んでいた所

オランダ商館(平戸)

1636年 オランダ人の戦略に乗った幕府は長崎に出島を作った。そこにポルトガル人を隔離し宗教活動していないか監視した。

出島
長崎出島


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17世紀初頭  

農民一揆と隠れキリスタンの反撃 島原の乱 

幕府のキリスト教弾圧が厳しくなってきたころ島原(長崎県)では4年ほど飢饉(ききん)が続いていた。

しかし藩主(大名)の松倉は年貢の取り立てを厳しくしていため多くの人が飢え死にした。 

1638年 そして ついに農民たちは こらえに こらえて来た怒りが一挙に爆発し農民一揆(暴動)となった。 

一揆(暴動)は近くの村にまで広がり次第に大きくなっていった

問題は島原(長崎)がキリスト教徒の多い地方だった 農民にキリスト教徒が合流した 3万7千人が集まった

大家の島(長崎県)の日本人キリスタンの天草四郎時政がリーダーとなり一行は 富岡城(長崎県)へと向かった そして一揆の集団は富岡城を取り囲んだ

天草四郎時政
富岡城 

それを知った幕府は一揆の鎮圧に乗り出した そこで島原と富岡城の一揆群は当時使われていなかった原城で合流し塹壕を作り立てこもった

原城跡

一時 幕府は鎮圧にオランダの戦艦を使ったが幕府内の反対もあり すぐに中止となった 反乱は4か月もかかり 鎮圧に幕府軍は12万の兵を必要とした

17世紀のオランダ軍艦

結局 最後は幕府の圧倒的な軍事力に歯が立たず 一揆群は一掃され 3万7千人が亡くなった これら一連の出来事を島原の乱と呼ぶ

この出来事を機に幕府(政府)は宗門改め(しゅうもんあらため)を行った 

それは今の住民登録のようなもので役人が住民が所属している寺や宗教(宗派)を台帳に書き留め管理した それは今も残る戸籍の原型となった

さらに幕府(政府)はポルトガル人を追放しオランダ人を出島に閉じ込めた 以後貿易は出島にいるオランダ人と明(明)だけで行われた

その鎖国政策は以後 215年間も続いた

江戸幕府の鎖国政策により日本とホイアン(ベトナム)の貿易は途絶えた。

日本の鎖国政策以降 ホイアンでは中国人が貿易の中心となった 華僑が住み着き今のホイアンの街並みが形成された


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17世紀初頭  庶民の生活 江戸(東京)と大阪

17世紀初頭 徳川 三代目将軍 家光が納めていたころの日本の人口は約2500万(現在の約4分の1)

のうち武士7% 職人+商人6% 公家(くげ=貴族)+僧侶2% 農民は全体の85%もいた

農民は毎日 あわや冷え(ゴマに似た鳥のエサのようなもの)を煮込んで食べていた。

あわや冷え

一方 農民が作った米の ほとんどは年貢(税)として没収された 

農民から取り上げた米は いったん大名(だいみょう=地方の地主)のところに集まり そこから武士の給料として支払われていた

3代目将軍 家光は農民の反乱を恐れ 職業の選択の自由を奪う士農工商と言う法律を発令した。

この転職禁止令は江戸幕府が倒れるまで200年以上続いた。

農民は一生貧乏のままで生かさず殺さず(※半殺し状態を保つこと)が幕府(政府)の方針だった

一方 そのころ大阪は全国の物が集まり商業都市として発展していた 領地を持つ大名(地主)よりも金を持っている商人の方が力を持つようになった

そのため次第に士農工商(転職を禁止する法律)を守らない人は増えていった。

さらに文化は豊かなところから生まれるためこの時代の文化は大阪から多く生まれた。浮世絵もこの時代に初めて作られた。

最初の浮世絵師 菱川師宣(ひしかわもろのぶ)は浮世絵の木版は考案した 木版で大量生産が可能となり浮世絵は広く一般の人に知れ渡った。

菱川師宣
浮世絵
浮世絵の木版


17世紀中頃 明暦(めいれき)の大火 

江戸城天守閣が焼け落ち 江戸が まる焼けとなる 

1643年 大内宿 17世紀  江戸時代  福島

大内宿3

1645年創業 岡崎 味噌蔵  愛知県

岡崎 味噌蔵

1651年 家光が亡くなり わずか11歳の家綱が4代目の将軍となった 

しかし家綱は重臣(じゅうしん=身分の高い家来)たちに支えられ幕府は全く揺らぐことはなかった

徳川家光 または徳川家綱

1657年 大火事(明暦の大火めいれきのたいか)により江戸(東京)の町はほとんど焼き尽くされた。

3~10万人が亡くなり 江戸城天守閣(皇居)も焼け落ち その後再建されずに今に至っている

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江戸時代の築地

1669年 アイヌ民族の首長が松前藩に対して起こした蜂起 シャクシャインの戦いが起こる

この戦いでアイヌは敗北し以降 アイヌは松前藩に絶対的な服従を強いられる

シャクシャインの戦い(アイヌの英雄像兼慰霊碑)

そのほか3回ほどアイヌ対和人との戦争があるが いずれも和人の勝利


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