テスト


日本史 時代別 年表 一覧へ 


17世紀初頭 

江戸時代の始まり 家康 江戸幕府を開く 

徳川幕府の琉球併合

1593年

広南国(ベトナム中部)ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成された

日本人がホイアンに日本人街と中国人街を結ぶ来遠橋を建てる 

ホイアン 日本人街 来遠橋

名古屋コーチンがコウチ(現ベトナム ホイアン)で作られる

名古屋コーチン

1600年 本州の海で一隻の琉球船(沖縄)が漂流する

当時の徳川幕府は琉球側に使者を送るように要求するが断られる

一方そのころ日本本土では

1601年 熊本城

熊本城2

1603年  家康は全国の武士を自由に動かせる征夷大将軍の位に付く 

同年 家康は江戸に幕府を開く そこで江戸時代が始まった

豊臣秀吉は関白となって天皇に代わって政治を行ったのに対して 家康は天皇の後ろ盾なしで政治を行った

家康は秀吉の遺言で家康の息子 秀隆(よしたか)の娘 千姫を豊臣秀頼(ひでより)と結婚させることにした。

その年の夏 豊臣家の後継ぎ秀頼(ひでより)11歳と家康の孫娘 千姫7歳は結婚した。

家康が豊臣家に千姫を嫁がせた事で 秀頼(ひでより)の母 淀姫は安どした。

そして淀姫は我が子の秀頼(ひでより)に家康に将軍職をつかせたいと思っていた。

1603年 彦根城 滋賀県 

彦根城

1604年

広南国(ベトナム中部)と日本(徳川幕府)との国交が結ばれ貿易が始まる

日本とベトナムの間で印船貿易が行われる 長崎からホイアンまで船で40日かかった 朱印船貿易の絵巻物が名古屋の寺に保管されている

朱印船

ホイアンではオランダ ポルトガル 中国 日本人が商売を行い 日本からは伊万里焼(佐賀県)が輸出された

伊万里焼

日本から多くの銅が輸入され広南国(ベトナム中部)の通貨にもなった 当時は日本も通貨に銅を使っていた ベトナムドンのドンは銅の発音からきている

銅銭

1605年 京都 伏見城にて 

家康は引退し 将軍職を息子の徳川秀忠(ひでただ)に譲る決断をする

徳川秀忠

その知らせに大坂城にいた淀姫は激怒した。そのとき ちまたでは徳川と豊臣の間で政権争いをめぐる戦が起こるとうわさされた

家康は静岡県の駿府城(すんぷじょう)へ引っ越し隠居生活に入るが ただ政治の実権はまだ家康が握っていた

駿府城

淀姫は秀忠(ひでただ)の戴冠式(たいかんしき=就任式)の参加を断った

家康は豊臣家との関係改善のために 当時12歳の6男 忠輝(ただてる)を使者として大坂城へ送った

一方 江戸(東京)では そのころ今の皇居に江戸城を建てる本格的な工事が始まっていた

江戸城天守閣

江戸の町づくりは神田山を切り崩し その土で湿地帯や海岸を埋め そこに日本橋や京橋 銀座などが作られた 

また埋立地には水路で荷物を運ぶ水運も築かれた 江戸の町は埋め立て地の為 井戸を掘っても塩水しか出ない

そのため上水道の工事も行われた さらに大名や商人の家も作られた

江戸の町作り

1607年 日本の江戸幕府と李氏朝鮮が国交を結ぶ

1608年 本丸 二の丸 三の丸 そして五層の天守閣 江戸城が完成した 江戸(東京)の開拓には18年の月日を要した。


日本史 時代別 年表 一覧へ 

1608年 徳川幕府は再度 琉球に使者を出すよう要求するが断られる ついに徳川は島津藩に琉球を攻撃するように命令を出した

1609年 島津軍3000人は沖縄琉球に向かって船を出した 今帰仁グスク(城)琉球の防御拠点の一つ 湾曲した形の城壁が特徴

今帰仁グスク2
今帰仁グスク

琉球は悪魔でも外交で事を解決しようと考えていたが

ついに首里城まで攻め落とされてしまう 開戦から1か月後 琉球王国は降伏する 琉球国王の尚寧もとらえられた

1611年 幕府の許しを得た島津は琉球の支配に入る 

首里城内の北殿は中国からの使者を招くための建物 一方 南殿は島津藩との外交行事に使われた

それ以降 琉球は明に貢物を送る一方で島津にも年貢を払っていた

琉球王国は日本と中国の両国から一定の圧力を受けながら200年以上 微妙なバランスを保ちながら存続して来た


17世紀初頭   徳川家康VS豊臣秀頼

第一ラウンド 大坂冬の陣

京都 二条城 にて家康と秀頼(ひでより)が会う

その後 駿府城(すんぷじょう)に戻った家康は将来徳川家の敵になる可能性のある秀頼(ひでより)を打つ決断をする

大坂城には金貨9万枚 銀貨16万枚と言う財宝がある まずその財宝を使わせる作戦に出た

京都にある方広寺は秀吉が建てた豊臣家ゆかりの寺る 家康はまず その方広寺の修理をさせた 

方広寺

続いて 出雲大社 宇治橋も 豊臣の資金で修理させた そして大阪城の財産は次第に減っていった

そして家康は秀頼(ひでより)に無理難題の要求を突き付けた

宇治橋
出雲大社

①秀頼(ひでより)が大坂城から追放せよ②淀姫が人質として江戸に送る このどちらかを選択するよう秀頼に迫った。

どちらの条件も到底よめるものではなく ついに秀頼(ひでより)は家康と戦う決意をした

島津や福島も秀頼(ひでより)に協力できないと申し出てきた 浅野長政  加藤清正 など 有名どころの武将は この時代 もうすでに亡くなっていた 

そのため秀頼(ひでより)は 真田幸村など 一部の大名しか味方につけることが出来なかった ほとんどの大名は家康方についた

真田信繁 (真田幸村)

1612年 名古屋城  第2次大戦時 消失 1959年再建

名古屋城

1614年 大坂冬の陣では 家康軍は20万の大軍が大坂城を包囲した 一方 豊臣軍は10万だった

大坂冬の陣

当初圧倒的有利と思われた家康軍であったが戦局は予想以上に苦戦となった 

そこで家康(家来)側が 秀頼(ひでより)側に和平案を提出した しかしその内容は無理難題が多く交渉は決裂した。

家康軍は仕方なく大砲で大坂城の天守閣を打つことにした。

大砲の球は ほとんど天守閣には届かなかったが それでも たまたま放った一発が淀姫の近くを命中し 淀姫(秀頼)は慌てて降伏した。 

徳川方の条件は本丸を残し 二の丸 3ノ丸をつぶす 人質を数人手渡すこととなった  その条件で和解が成立した

戦いの後 大阪城は2の丸と3ノ丸が取り壊され 外堀が埋められた さらに約束になかった内堀まで強引に埋められてしまった。

大坂城は本丸だけが孤立した状態となった


日本史 時代別 年表 一覧へ 


17世紀初頭  徳川家康VS豊臣秀頼

 第2ラウンド  大坂夏の陣

1615年 家康は再び大坂城に攻撃を開始した。 そこで大坂夏の陣が勃発した。

家康軍は15万5千 に対し秀頼(ひでより)軍は わずか5千しかいなかった

この戦いで千姫は救出されたが淀姫48歳と秀頼(ひでより)22歳は自害した。この戦いを最後に豊臣家は滅びた。

その後 1万数千人が打ち首となり処刑された 8歳となる秀頼の子供も処刑された

大坂夏の陣


日本史 時代別 年表 一覧へ 


17世紀初頭  家康の海外貿易とキリスト教徒弾圧!

1600年  関ヶ原の戦いが起こる半年ほど前こと

そのころポルトガルの商人は船に積んだ生糸を日本へ売りさばき莫大な利益を得ていた

そこで徳川幕府は長崎港に長崎奉行所(ぶぎょうしょ=役所)を置きポルトガルが不当に利益を得るのを防いだ  

関ヶ原の戦い
長崎港
長崎奉行所

一方 その他の外国人や大名や大商人たちは朱印船(しゅいんせん)に乗り東南アジアの国々と貿易をしていた

朱印船

しかし その後 貿易に使われていた大きな船は反乱を防ぐためという名目で幕府に没収されてしまう

次第に貿易の権利は大名や商人から幕府が担うようになっていく

さらに家康は家康の補佐役でもあるイギリス人から ある忠告を受ける

スペイン ポルトガルは まず征服したい土地にキリストの宣教師を送り 

その国の大半を信者にしたところで信者たちに反乱を起こさせる そこへ自国の軍隊を送り込み国を乗っ取る方法をとっていた。

家康は その話を聞き キリスト教徒の弾圧に乗り切る事にした ちょうどそのころ日本ではキリスト教徒の信者が70万人と倍増していた。

そこで家康は長崎奉行(役人)にキリスタンを追放させた。多くのものはその脅しに屈しキリスト教の考えを捨てたが それでも抵抗したものは処刑された。

そんなある日 九州の大分県にオランダ船が漂流してきた ポルトガル人は商売だけでなくアジアでキリスト教の布教も行った 

しかしオランダは商売の為だけにアジアに船を出していた そのためオランダ人は処罰を免れた

1613年 平戸港(長崎)にイギリスの商船がやって来た 家康は宗教活動をしないことを条件にイギリス船の入港を許した。

そのとき家康の補佐役を務めたイギリス人のアダムスは家康に評価され三浦按針と言う日本人の名前を授かった

三浦按針


日本史 時代別 年表 一覧へ 


つづきを見る