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16世紀末   秀吉が行った大改革

秀吉は年貢の不平等を正す為 マスの統一を計った それまでは農民に米を貸すときは小さなマスを使い

逆に農民が年貢(税)を納めるときは大きいマスを使っていた その汚いやり方を改めた。

また 秀吉は それまで寺や僧侶 神社の神主 公家(貴族)が持っていた田畑の土地は すべて没収し秀吉と秀吉の大名たちが管理することにした。

そこで秀吉は石田三成と浅野長政に土地の広さと そこでとれる米の量を調べる剣地の仕事を命じた 

石田三成
浅野長政

今回の剣地は今までのとは違い日本中の田畑を徹底的に調べさせた その調査は厳しく山奥や無人の島に作られた田畑も徹底的に調べられた

しかし そのやり方は各地で強い反対にあい 特に熊本では一揆(暴動)が起こった。それでも秀吉は剣地を徹底した。

さらに大名は農民を兵隊として使ってはならない大名は農民から上がる年貢で武士を雇う 秀吉は農民と武士をしっかりと分けた

それは12世紀 鎌倉幕府の創始者 源頼朝が始めた封建制度と同じ政策であった。

また戦が起こった時の各大名が出す兵士(武士)の人数については各大名が持つ田畑の広さと収穫量の多さで決めた

1588年 秀吉は全国民に武器の所有を禁ずる刀狩令を出した 秀吉は まず僧侶の武器から取り上げることにした 

さらに秀吉は信長を苦しめた一向一揆(仏教徒が起こした暴動)のことを思い出し 国内で力をつけていたキリスト教徒を追放した

1596年には九州 長崎でキリスト教禁止令に そむいたとして宣教師や日本人の信者など26人が処刑された 

秀吉はキリスト教を禁止した一方で南蛮貿易の利益は独占した そのためキリスト教禁止令は 有耶無耶(うやむや)となった


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16世紀末 秀吉VS北条(関東)

 

当時 秀吉がまだ手を付けていなかった関東地方は北条氏直(うじなお)氏政(うじまさ)の親子が納めていた

北条氏直

北条と徳川は親戚関係にあり同盟を結んでいた 北条は家康が一緒に戦ってくれると思い秀吉と戦う事を決意した

しかし家康は そのとき秀吉に妥協することで自分の領地を なんとか保っていた。

そのため家康は秀吉を敵に回すのを嫌った 家康は北条に秀吉に従うように指示した

それでも北条は言うことを聞かなかったため ついに秀吉は30万の大軍を引き連れ北条の待つ関東へと出兵した。

秀吉軍は小田原(神奈川県)に向かう途中 静岡県にある城を次々と陥落させていった。

1590年 春  小田原城(神奈川県)は秀吉軍により完全に包囲された

秀吉は兵頭攻め(ひょうどうぜめ=物資の補給路を断つ)や水攻めなど持久戦を得意としていた。被害を最小限に抑える賢い戦い方でもあった

今回も小田原城の近くに陣取った秀吉軍は演奏家や踊り子を呼びお祭り騒ぎを行っていた。

のちの実力者で秀吉の側室(一夫多妻制の妻の中で身分の低い妻)信長の銘 お市に娘でもある 淀(よど)も宴会に呼ばれていた。 

淀姫

一方 小田原城の中では こう着状態があまりにも長く続いたため家臣の中に裏切るものが出てきた。

意味のない議論を繰り返すことを今でも小田原評定(おだわらひょうじょう)と言われている

が 城の中では結論の出ない会議が毎日行われていた。

やがて もう勝ち目はないと悟った北条氏直(うじなお=息子)が秀吉のもとへ降伏を申し出た 

氏直(うじなお)は高野山(和歌山県)に追放されたが家康の娘婿(むすめむこ)ということもあり命だけは助かった。

一方 北条氏政(うじまさ=父)は今回の責任を取って切腹した。


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16世紀末  秀吉 史上3人目となる快挙!

天下統一を成し遂げる!!

秀吉は北条が持っていた関東の領地を全部 家康に与えた 

その代わり家康が今まで持っていた三河地方(愛知)と駿河(静岡)の領地は すべて秀吉に引き渡せと要求してきた

秀吉は 一番厄介な家康を遠い関東に追いやった。その後 東北の勇 伊達政宗も秀吉に降伏する 

そして ついに豊臣秀吉は天下統一(※北海道と沖縄を除く 日本制覇)を成し遂げた。

天下統一は14世紀の室町幕府を開いた足利尊氏以来 約200年ぶり3回目となる※ちなみに初代統一者は12世紀 鎌倉幕府を開いた源頼朝※

秀吉は1537年 尾張の国の中村(愛知県名古屋市)で生まれる 秀吉が幼いころ両親と死に別れ 孤児となる

15 16歳まで 浮浪者同然の生活を送る そんな貧困から立ち上がり全国を統一したのは後にも先にも豊臣秀吉しかいなかった

しかし 秀吉は天下統一の喜びもつかの間  秀吉の弟 羽柴秀長(ひでなが)が亡くなる さらにたった一人の息子 鶴松までも たった亡くなってしまった

羽柴秀長


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16世紀末  秀吉 朝鮮出兵と後継ぎ問題

1588年 豊臣秀吉は琉球(沖縄)に貢物(みつぎもの)を要求する 要求にのまなければ軍事行動に出ると琉球を脅した

当時の琉球国王は即位したばかりの尚寧(26) だった

1591年 秀吉は琉球に米を差し出すように要求する 琉球は当時まだ日本から見て外国の地であった

琉球は密かに明(中国)に助けを求めるが しかし琉球は秀吉の脅しに屈し米を渡すことにした

1591年 京都の聚楽第(じゅらくてい)にて秀吉は羽柴秀次(ひでつぐ=秀吉の姉の子供 甥っ子)に関白(天皇の補佐役)の座を譲る

さらに秀次は そのとき秀吉の後継ぎを命じられた

日本統治後 秀吉の野望は中国大陸にあった 秀吉は朝鮮に協力を依頼し日本と朝鮮の連合軍で大国 明(中国)を攻めようと考えていた

しかし明(中国)と友好関係にあった朝鮮 李王朝はその要請を断った それに怒った秀吉は石田三成(みつなり)を呼び出し朝鮮征伐(せいべつ)の命令を下す 

秀吉は九州の名護屋城(佐賀県)に陣を取って朝鮮に攻めるつもりでいた

名護屋城

歴史上日本が朝鮮を攻めるのは約900年ぶり3回目 前回は6世紀と7世紀大和朝廷と中大兄皇子のころに それぞれ一回ずつ出兵しているが いずれも失敗に終わっている

一方 関東の領土を得た徳川家康は江戸(東京)に本拠地を置き新しい街作りを行っていた

そんななか家康の家来 本田正信は秀吉が朝鮮征伐で留守の間 京都と大阪に攻め入ってはどうかと家康に進める しかし秀吉は 自ら家康に日本の統治を任せた

本田正信

1591年 西本願寺 京都 

西本願寺

1592年 秀吉は諸大名に朝鮮出兵を命じた そして名護屋城(佐賀県)には30万の兵が集まった 日本軍は第1軍から第6軍まで用意していた

そして準備の整った第一部隊1万8千人が朝鮮のプサン(韓国)に向け出港した それを文禄の役と言う

文禄の役

進行はプサン(韓国)に始まりソウル(韓国) さらにはピョンヤン(北朝鮮)まで攻め入った

当時の朝鮮は李王朝の政治の失敗から人々は生活に苦しんでいた そのため朝鮮人は当初 日本兵を救世主として出迎えたが 

やがて日本軍が侵略者だということに気づき激しく抵抗した さらに日本軍は海でも韓国朝鮮の英雄 李舜臣(りしゅんしん)の攻撃に会い壊滅的な被害を受けた

李舜臣

一方そのころ秀吉は勝利を夢にて有頂天になり北京に自分の城を構えるつもりでいた。

そんなある日 秀吉に母 危篤の知らせが入る 秀吉は すぐに九州から大阪へと帰っていったが まもなくして秀吉の母は亡くなった 

1593年 日本軍は明の援軍に力を得た朝鮮軍の反撃にあいソウルまで逃げ帰った 日本軍は慣れぬ異国の地と民衆の反乱にあい疲れ果ててしまった

小西行長は明と和平を結ぶしかないと考える そして明の使節 沈 惟敬(しんいけい)と会い 和平の会談に臨む

小西行長 

一方そのころ日本では 淀姫(信長の姪っ子)が男の子拾(ひろい=豊臣秀頼ひでより)を出産する

秀吉は秀頼(ひでより)を たいそうかわいがり次期後継者したがっていた

1595年 秀吉から関白(天皇補佐役)をもらい後継者にまで認定されていた秀次(ひでつぐ)は反逆者の疑いで捕まり高野山(和歌山県)へと送られる

さらに秀次(ひでつぐ)は関白職を奪われ挙句 無理矢理 切腹をさせれた 

秀吉は家康のところの秀隆に淀の妹(信長の姪っ子)を嫁がせたいと言ってきた 

1596年 明国から講和条約の使者が届いた しかしその要件は秀吉に明の属国になるよう要求するものであった 秀吉はその内容に激怒する

1597年 秀吉の命令で2回目の朝鮮出兵が行われた 14万の大軍が朝鮮に向け出港した その戦いを慶長の役と言う

しかし朝鮮では明の援軍が駆け付けていて さらに日本軍は朝鮮民衆の根強い抵抗にあい苦戦を続けるばかりであった

秀吉は死の直前 朝鮮から兵を引き上げる決断をする

そして後継ぎの秀頼(ひでより)の補佐役として 徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家 の五大老の5人を任命した 

上杉景勝

秀吉は家康に政治を任せ 前田に大阪城に住み秀頼(ひでより)の面倒を見るよう頼んだ

1597年 順天倭城 スンチョンウェソン 韓国 

秀吉朝鮮出兵の際 日本兵が突貫工事で建てた日本風の城 完成1年見たたずに廃墟となった 現在は土台のみ残っている

順天倭城 スンチョンウェソン

1598年 伏見城(京都)にて秀吉は62歳で亡くなる  


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16世紀末  家康VS三成 関ヶ原の合戦 

秀吉の遺言で朝鮮占領に失敗し兵士たちが帰ってきた。それら兵士を労って石田三成らが出迎えた

朝鮮の戦場では加藤清正と小西行長の対立があった ただ光家は小西を指示していた。れで加藤と光家は仲が悪い

石田光家は秀吉に可愛がられ秀吉の死後 大きな権力をふるっていた 

そのうえ三成は勝ち気で自分の考えを強引に推し進める性格だった そのため加藤だけでなく多くの武将の嫉妬(しっと)と反感を買っていた

1599年 家康にとって たった一人目障りな存在であった 前田利家が63歳で亡くなる

家康は その時 政権内部で衝突が起こるのを待っていた。そして ついにその時が来た 加藤が牙をむき 家光を打つ決意をする

徳川家光 または徳川家綱

石田三成は夜逃げし家康に助けを求めに来た 家康は佐和山城(滋賀県)に光成を非難させ隠居生活を送らせた。

家康は大阪城天守閣の隣に西の丸を建てそこで暮らす事となった

1600年 諸大名は大阪城本丸で豊臣秀頼に正月のお祝いをし その足で西の丸の家康にも挨拶しに行った

家康の存在を嫌っていた秀頼(ひでより)の母 淀(よど)だった 淀は家光に家康を打ってほしいと願っていた 

しかしその時 家光は家康の10分の1の兵しかもっていなかった

ただ家康に従わない大名は ほかにもいた会津(福島県)の上杉景勝もその一人であった

そこで家康は大阪を離れ秀頼(ひでより)の命を受けた討伐軍(とうばつぐん=反乱の鎮圧を行う舞台)として上杉を打つことにした

しかしそれは光家をおびき寄せる作戦でもあった 三成は まんまとその作戦に乗り兵をあげ京都の伏見城を落とした

家康は上杉討伐(とうばつ)をやめ来た道を引き返し福島正則と共に光家を打つことにした。

家康(東軍)7万 光家(西軍)8万の軍勢が岐阜県の関ヶ原で衝突することになった。早朝 関ヶ原の合戦が始まった。

戦いは正午を過ぎても一進一退で 勝敗のカギを握っていたのは西軍の小早川秀幸であったが

小早川は松尾山に陣取ったまま どっちに着くか迷っていて動こうとしなかった

しかし ついに小早川は家康軍の放った大砲に脅され家康側に付くことになった 小早川に裏切られた光家軍は大阪へと逃げていった。

その後 光家はとらえられ小西と一緒に処刑された その日の夕方 関ヶ原の合戦は家康率いる東軍の勝利に終わった

そして家康はその時 全国制覇に向けての大きな山を乗り越えたのであった

大阪城に帰ってきた家康は西軍に味方した大名から土地を取り上げ それらの土地を東軍に味方してくれた大名に分け与えた

豊臣ゆかりの大名に多く土地を与えた そうすることで 家康から土地をもらった豊臣の大名は 今後 家康の言うことを聞きやすくなると考えた

ただ領土は狭い物の関東関西の重要なところは徳川 ゆかりの大名で固めた 


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