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16世紀 信長の安土(滋賀県)の開発

本能寺の変 信長VS明智 

1576年 織田信長は琵琶湖のほとりに華麗な安土城(滋賀県)を建てた

信長は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の提案で琵琶湖から淀川へ速船を走らす その高速船は戦にも商売にも ずっと役に立った

さらに信長は 安土(滋賀)でも関所の取り締まり(通行税の徴収)をやめ楽市楽座(商人が開業しやすくする政策)を実行する 

本願寺(仏教)などの憎しみを買いながらも信長はキリスト教の布教を通して外国の文化を積極的に取り入れていった 

そのため この時代 外国からの産物も入り経済的にも潤った 家康(愛知)は信長から駿河(静岡)の領土を譲り受けたお礼をするため 安土城(滋賀)を訪れた

日本では安土桃山時代が始まる

安土城

1582年 信長の命令で 秀吉は毛利を打つ為 広島へと出兵した 毛利の城 高松城を水攻めにし まもなく落城するところであった

そこで落城を目前に広島に信長を呼ぶことにした それは秀吉の粋な計らいで最後のいいところ(息の根を止めるところ)を上様でもある信長に譲ろうと考えた 

ところが信長は秀吉が毛利の水攻めに苦戦していると勘違いする そこで明智光秀を広島へ送った。

しかし明智は百姓出身の秀吉を見砕いていて 秀吉の指図を受けるのを拒んだ 明智は内気でまじめな性格 

実は明智は以前 信長に暴力を振るわれたこともあり信長を嫌っていた しかも 今回 信長の命令で明智が持っていた丹波と近江の領土も没収された。

同年 春 兵を引き連れた信長は高松城(広島)へ向かう途中 本能寺(京都)へ入った 

一方 明智も高松城(広島)へ向かうため1万の兵を引き連れ亀山城(京都)を出発した しかし明智は途中で行き先を変え 信長が待機する本能寺(京都)へと向かった

亀山城

明智光秀によるクーデターが発生した。明智軍により本能寺は丸焦げとなり そのとき信長も49歳で亡くなる


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16世紀末  秀吉VS明智

そのころ家康は信長の好意で堺(大阪)見物していた。しかし家康は信長が亡くなった事を知り すぐに岡崎(愛知)に戻ることにした。

一方 反乱に成功した明智は毛利(広島 中国地方)と手を組み 次に秀吉を打つことにした。

しかし明智が毛利にあてた手紙は毛利に届く前に秀吉の警備兵が奪い取った。 

秀吉は信長の死を隠し毛利側の大将 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と会い 講和(和平)を結んだ

安国寺恵瓊

秀吉は明智を打つため兵を引き連れ京都へと戻った 途中 秀吉の兵は姫路城(兵庫)へと立ち寄った 秀吉は姫路城にあった財宝を庶民へ分け与えた 

      

姫路城

本能寺の変からわずか10日後 秀吉軍は大阪の富田(とんだ)に陣を張った 反乱に成功した明智であったが明智に付こうとする武将は少なかった 

さらに明智は広島で毛利と戦っていると思っていた秀吉軍が京都に戻って来たことを知る 

明智は京都の山崎で秀吉との決戦を決意する そして山崎の合戦が始まった

山崎の合戦

秀吉軍3万 一方 明智軍は1万 秀吉軍は いち早く山崎の近くの天王山を占拠し戦いを有利に進めた 

天王山

本能寺の変から わずか11日で明智光秀は戦死する その後 秀吉は清州城(愛知県)に入った


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16世紀末 秀吉VS柴田勝家

清州城に越前(福井)から柴田勝家がやって来た 柴田勝家の妻は信長の妹お市(浅井の妻)だった

柴田勝家

そこで秀吉は勝家が織田家の後継ぎに信長の3男の信孝を進めてくると予測した なぜなら柴田勝家の再婚相手 お市を紹介したのは3男だったから

だが秀吉は信長の孫の三法師を後継ぎにしたがっていた

1582年 信長の後継ぎを決めるための清州会議が行われた

信長の遺言で後継ぎは信長の長男 信忠と決まっていたが 信忠は本能寺の変で信長と一緒に亡くなっていた。

そこで後継ぎは信忠の息子 当時3歳の三法師(信長の孫)と決まった

秀吉は三法師様をお守りするという名目で京都の山崎に宝寺城(現 山崎城)を建てた

その年の冬 秀吉は雪で兵を出せない柴田勝家の すきを突き 京都から岐阜や三重県(亀山)へ兵を出した 越前北ノ庄城で柴田は秀吉と戦う決意をする

柴田軍の名将 佐久間盛政は中川清秀(秀吉軍)が守る大岩山の砦(滋賀)を攻め落とした

越前北ノ庄城 福井城
佐久間盛政

秀吉軍は木之本(滋賀県長浜)に本陣を構えた 一方 勝家軍は柳瀬(やながせ=岐阜)に本陣を置いた そして両軍は賤ヶ岳(スズガタケ=滋賀県)で衝突することとなった

それを賤ヶ岳の戦いと言い この戦いで 福島正則 加藤清正 片桐且元 の若手が大活躍 それを賤ヶ岳の七本槍と呼ぶ

賤ヶ岳
加藤清正 
片桐且元
福島正則

その時 柴田勝家は負けを悟った そこで勝家は前田利家に撤退を命じた それを機に秀吉軍は総攻撃をかけた

秀吉軍の軍勢は 勝家がいる越前北ノ庄城をぐるりと取り囲んだ 勝家の妻 お市は子供の保護を求めて泣く泣く秀吉軍に3人の子供を引き渡した

秀吉のもとへ避難してきた お市の娘(信長の姪)がのちに大きな権力を握ることとなる

その後 まもなくして柴田勝家(62歳)とお市は戦火に覆われた越前北ノ庄城にて自害する さらに秀吉は信長の3男 信孝を切腹させた


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16世紀末 秀吉 大阪城の建設と徳川家康との戦い!

1583年 秀吉は石山本願寺の跡に大阪城の建設を命じた

その建設にあたり堺の港には毎日200~1000トンを超える石が運ばれて来た 建設には武将も当てられ1日 3~4万人が建設に携わった

織田信雄(のぶかつ=信長の次男)が浜松城(静岡県)の家康のところへ出向き 家康と協力し秀吉を打ちたいと願い出る

1584年 家康は織田(信長の次男)と組み 秀吉を討つため小牧山(愛知)に陣を張った 

秀吉は すぐに京都から愛知県へ向かい犬山城(愛知)から小牧山に向け出陣した

小牧山

両軍は2キロぐらい離れたところで にらみ合い 相手の様子をうかがう持久戦となった

そんななか こう着状態を嫌い しびれを切らした池田恒興(秀吉軍の兵)は長久手(愛知)を攻めた 

しかし待ち伏せをしていた家康軍に打ち砕かれ池田軍は敗退する これを長久手の戦いという

長久手の戦い

秀吉は小牧山のふもとのが楽田城で待機した 結局 秀吉 家康の両軍は戦わなまま引き返した

秀吉が大阪へ帰ると3年がかりで作られていた大阪城が完成していた その後 秀吉と織田信雄(のぶかつ=信長の次男)との間で和解が成立する 

大阪城
  

1585年 秀吉は朝廷から関白(天皇の補佐役)の位を授かり さらにその翌年 大乗大臣(今の総理大臣)の座を与えられ

天皇から秀吉は豊臣の姓をもらい受けた その時 初めて 世に名を知らしめる あの豊臣秀吉 の名が誕生した


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16世紀末  秀吉 家康との和解成立

 秀吉VS島津(鹿児島) 

1585年 豊臣秀吉は和歌山から四国をを攻め また北陸では富山県の佐々成政治に打ち勝った そのように秀吉は天下統一の歩みを着々と進めていた

佐々成政治

秀吉は家康と友好関係を築きたく 自らの妹 旭姫を家康のもとへ嫁がせた それでも家康は秀吉に見向きもしなかったので 今度は自分の母親を家やその所に送った

すると やっと家康は その秀吉の好意を受け入れ大阪城へ出向くことにした 大阪城で秀吉は家康に頭を下げさせ部下に自分の偉大さ示した

後でわかったことだが実は前日 秀吉は家康にお願いしそうして欲しいと約束をしていた。

どちらにせよ秀吉は家康と和平を結んだことで 東は家康にかませるとした 秀吉は九州を攻める事にした。

1585年 駿府城 静岡県 家康が戦国時代に過ごした城

駿府城

1586年 岐阜県を襲った マグニチュード8の 天正(てんしょう)地震 発生 

1587年 秀吉は25万の兵を引き連れ鹿児島の島津義久の領地を攻め落とした 島津は全く歯が立たず 泰平寺(鹿児島県)にて降伏した

秀吉は島津に勝ったという名誉だけいただき 薩摩 大隅 日向(ひゅうが)の領有権は そのまま島津に引き継がせた

秀吉は京都へ帰り 北野松原(京都)で島津に勝ったお祝いとして一般人参加自由の茶会が行われた
  
1588年 秀吉は京都に聚楽第(じゅらくてい)と言う巨大な屋敷を建て後陽成天皇を招いた

聚楽第

秀吉は徳川家康 前田利家 ほか29人の大名を呼び 天皇の前で忠誠を誓わせた 秀吉は信長によって焼かれた比叡山延暦寺(滋賀県)の再建も許した


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