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16世紀末   信長VS朝倉(福井)  第1ラウンド

1570年 軍費を蓄えた信長は京都から奈良 三重 大阪 兵庫 福井 方面に兵を派遣し領土の拡大を図った

ちょうどそのころ朝倉(福井県)と信長(愛知 岐阜 京都)は衝突まじかであった。一方 小谷城(滋賀県)は浅井長政(妻は信長の妹)が納めていた。

浅井長政
小谷城

信長と親戚関係にあった浅井(滋賀)は先祖代々朝倉(福井)から援助を受けてきた義理もあり浅井は朝倉と一緒に戦わないわけにはいかなかった。

信長側に浅井(滋賀)が信長を裏切り朝倉(福井)側に付いたとの一報が入った

信長軍は いったん退去した軍を立て直し徳川軍(愛知)と合流し滋賀県の姉川(あねがわ)で浅井朝倉(滋賀福井)の連合軍と戦った

それを姉川の合戦と言い 勝敗は信長 家康軍の勝利で終わった

姉川の合戦

信長家康軍は とりあえず近江(滋賀県の半分)まで占領したところで福井県までは行かず いったん岐阜城へ引き返した。


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16世紀末 信長VS朝倉(福井) 

僧侶が結成し暴動を起こす。 第2ラウンド

三好軍(四国)が兵庫県の信長の領土を攻めてきた そうこうしているうちに今度は浅井朝倉軍(福井滋賀)軍が息を吹き返し近江(滋賀県)に戻って来た

一方 信長の領地 三重県の伊勢 長島では浄土真宗の僧侶が集まり暴動(一向一揆)を起こし町に火を放った 信長は周囲を敵に回し窮地に陥った

一向一揆

石山本願寺(大阪にあった浄土真宗の寺)が信長打倒に動き出した さらに四国の三好軍に本願寺他 様々な寺院が味方に付いた。

石山本願寺

信長軍は三好軍の強烈な鉄砲攻撃を食らい次々と打ちのめされていった さらに福井から攻めてきた朝倉浅井 連合軍が京都にまで迫ってきた 

さらに比叡山延暦寺(滋賀県)も浅井朝倉の味方に付いた 信長軍 絶体絶命の中 室町幕府 第15代将軍(ラストエンペラー)将軍義昭が仲介に入り 

 

比叡山延暦寺

       

信長は九死に一生を得た ただ信長の仏教徒(反逆者)に対する怒りは収まらず 比叡山 延暦寺を焼き討ちにすると宣言する

1571年  信長は明智光秀の反対をも押し切って比叡山を焼き討ちにした 延暦寺は3日間にわたって燃え続け3000人の僧侶が命を落とした


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16世紀末 信長VS朝倉(福井) 

信長の仏教弾圧は続く 第3ラウンド

1573年 槇島城(京都) 信長の強引なやり方を嫌った足利義昭は自ら城を出て行った 足利尊氏以来235年にわたった室町幕府は15代将軍義昭を最後に消え去っていった 

その年の夏 信長は越前の一乗谷城(福井県)を攻撃し 強敵 朝倉義景を攻め滅ぼした

一乗谷城
朝倉義景

さらに信長は朝倉と同盟を結んでいた浅井の小谷城を包囲した 

浅井は藤吉郎(秀吉)の説得で妻の市(信長の妹)と3人の子供を信長軍に渡した後 信長と戦って敗れ去っていった

藤吉郎(秀吉)は今回の説得(信長の妹の救出)が評価され信長から滋賀県 長浜の領有権と長浜城を与えられた

長浜城

秀吉はその時37万石(現在の資産価値で180億円以上)の領地を獲得した さらに自らの名前も羽柴筑前鏡(はしばちくぜんかがみ)秀吉と改名した

1574年 信長は三重県の一等一揆(僧侶の反乱)の参加者も皆殺しにした


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16世紀末 信長、家康 連合軍

VS武田軍 第1ラウンド 

1572年 武田信玄は天下統一(日本制服)を目指し京都へ向かう途中 

今の静岡県で織田 徳川の連合軍を破り勝利する しかしその後 武田信玄は病が悪化し 甲斐(山梨)へ引き返すことになった

1573年 あともう一歩で天下を取ろうとしていた 武田信玄は53歳で亡くなった

後継ぎの信玄の息子 武田勝頼(かつより)は父 信玄の遺言で 信玄の死を3年間 隠し通した

武田勝頼


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16世紀 信長、家康 連合軍

VS武田軍  第2ラウンド 

1575年 武田信玄の志(こころざし)を受け継ぐ 信玄の息子 武田勝頼(信玄の息子)は徳川家康が所有する長篠城(愛知県新城)を攻めた 

そのとき名古屋(愛知県)にいた信長すぐ岡崎(愛知県)にいる家康のもとへ駆け付けた

同年  設楽原(しだがはら)(愛知県)長篠の戦いが行われた 武田軍は信長家康の連合軍の鉄砲攻撃に会い敗北す

長篠の戦い

1578年 武田信玄の宿敵 上杉謙信も急な病に倒れ 49歳で亡くなった 上杉謙信に関するこんなエピソードが残っている

ある日 武田信玄が納める甲斐(山梨)で塩を切らしてしまった そのとき敵の上杉謙信が塩を送ってくれたのは有名な話 

上杉謙信もまた武田信玄と同じく庶民を大事にしていた たとえそれが敵陣の庶民であっても と伝えられている


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