テスト

1964年 南ベトナム(反米組織=通称ベトコン)は北ベトナム(ホーチミン)から支援を受ける

北ベトナムが同じ共産党国家 ソ連や中国から受け取った大量の武器をラオス カンボジアを経由し南ベトナム(ベトコン)へと送った

アメリカはその輸送路をホーチミンルートと呼んだ 最終的にホーチミンルートは4000キロに達した

アメリカは そのホーチミンルートを断つためと米軍はラオス共産党を一掃するためにラオスやカンボジアにまで空爆を加えるようになる

ホーチミンルート

 ベトナム戦争時アメリカはラオスに200万~300万トンの爆弾を投下した ラオスの人口1人あたり1トンの爆弾を落とした計算になる

 ひと月1.7万~2.7万回の出撃し 1日800回もの空爆が行われた この空爆により70万人以上の難民が発生し35万人の人が亡くなった 

1968年 テト攻勢(ベトナムの正月) ちょうど人々が気を許していたところに北ベトナム(ベトミン軍)と南ベトナム反米組織(ベトコン軍)が合流し 南ベトナム政府(アメリカの傀儡国家)に一斉攻撃を仕掛けた フエでは解放戦線によって多くの南ベトナム政府関係者が射殺された またフエの町も壊滅的な被害を受けた。

テト攻勢

サイゴン(南ベトナム)にあったアメリカ大使館も南北ベトナム連合軍(ベトミン&ベトコン)により包囲される その様子がアメリカのテレビで放送されアメリカ国内では一気に反戦ムードが広がる

アメリカ軍の死者は1536人に対しベトナム軍(解放戦線+反政府軍)の死者は3万人だった 北ベトナムと南ベトナム反政府軍は6万人の兵士が動員されその半数が犠牲となった

この攻撃はアメリカ世論を大きく動かしアメリカがベトナムから撤退する きっかけを作った

またテト攻勢に おいては南ベトナム解放戦線の知識人(反共産党の人もいた)が多く犠牲者となった 南ベトナム解放戦線は壊滅状態となり 結果 北ベトナム共産党にとっては戦後(南北統一後 反共産党思想の人がいなくなったため)の国作りがやりやすくなった

1969年 9月2日ベトナムの独立記念日(第2次大戦後)と同じ日 ベトナム人にとって偉大な革命家ホーチミンが心臓発作の為 79歳で亡くなる

1970年 アメリカはカンボジアのシアヌーク政権がアメリカに協力的ではないとみて政権転覆を狙った。

アメリカは自国のスパイ組織CIAを使いシアヌーク(カンボジア)のモスクワ外遊中にクーデターを起こさせシアヌーク政権を転覆させた 

シアヌーク国王

そしてアメリカはカンボジアにアメリカの傀儡(かいらい)政権を立ち上げる 

親米派ロンノイ(カンボジア)はアメリカと敵対関係にある南ベトナム反政府組織(南ベトナム解放戦線 通称ベトコン)の迫害と虐殺を行った

結果 カンボジアに住むベトナム系住民は50万から20万に激減した

さらに親米派ロンノイ(カンボジア人)はホーチミンルートを破壊するため米軍と南ベトナム軍のカンボジア侵攻を認めた

1971年 アメリカは親米派ロンノイを支援するため南ベトナム軍(アメリカの傀儡政権)の一部をカンボジア内戦へ派遣した

1973年 アメリカはベトナムでの十分な成果を得た(ウソ)と宣言しベトナムから撤退した。 ベトナム戦争が終わった 戦争は共産党軍の勝利で終わった  ベトナム戦争の巻き沿いを食った隣国のラオス カンボジアは その後 も内戦状態は続く

1975年 南ベトナム解放戦線(反米組織ベトコン)に扮した北ベトナム軍は解放戦線の旗を掲げ南ベトナム政府軍(アメリカの傀儡国家)に総攻撃を加える が南ベトナム政府軍は戦いを放棄した

そのため 北ベトナムは戦わずして南ベトナムを占領した

南ベトナム政府の関係者は その後 共産党思想の教育をうける事となるが 政治犯として捕まることはなかった

南ベトナム解放戦線の国旗
サイゴン陥落

同年  2年の歳月をかけ建てられたホー・チ・ミン廟(ハノイ)にはエバーミング処理された ホーチミンの遺体が安置される事となった

ホーチミン廟
ホーチミン(ベトナム)ハノイ

1976年 南北統一が成し遂げられベトナム社会主義共和国が出来上がる 南ベトナムの首都だった サイゴンはホーチミンと改名される

ホーチミン

北ベトナム(共産党)主導の元 国家作りが行われることとなる

それまで南ベトナムで行われていた資本主義経済は廃止となり資本家の資金は国に没収され企業はすべて国有化された

国に財産を没収されるのを嫌った資本家や商人の多くは難民となってベトナムから逃げていった。香港 シンガポール 日本など資本経済を取っている国へと逃げていった。

南ベトナムからのボートピープル(難民)

1978年 隣国カンボジアで新たに誕生したポルポト政権はベトナム領内を攻撃する そしてベトナムとの国交を断絶した

当時ベトナムはソ連との関係を強化していた 一方 同じ共産国でも中国はソ連と対立関係にあった そのため中国は反ベトナム(=反ソ連)思想のポルポトの支援に回った 実は中国だけでなくベトナム(共産党国家)と対立関係にあったタイやアメリカ さらに日本(親米政権=自民党)もポルポトポ(残虐な独裁者)を指示していた

(同年) ポルポトはカンボジア国内だけでなくベトナムのバクチュン村(カンボジア国境)でも大虐殺を行う

実はベトナムへ助けを求め逃げ込むカンボジア人も少なからずいた

ベトナムの民間人3157人が無抵抗のままポルポト軍の虐殺を受けた

この事件を切っ掛けにカンボジア ベトナム戦争へと発展する

カンボジア ベトナム戦争

1978年 ベトナム軍 10万がカンボジアへ向け総攻撃を開始する

その時 ベトナム軍が 初めてカンボジアで行われていた虐殺の実態を目にする 地面がすべて人骨で覆われ 死体が腐ったにおいで覆われてた

カンボジア ポルポト政権はわずか2週間で崩壊する その後 ポルポトはタイ国境近くのカンボジア北部のジャングルの中へ逃げ込む ポルポトは木材とルビーをタイへ密輸し財力を蓄えていた ベトナムを嫌っていたタイ政府はポルポトを陰で支援していた

1979年 ベトナム軍がカンボジア プノンペンを陥落させる
プノンペンで幽閉されていたシアヌーク(ベトナム戦争の際 失脚した元カンボジア国王)は再び中国 北京へと亡命した

同年 親ベトナム ヘンサムリン政権(傀儡かいらい政権)からなるカンプチア人民共和国が設立される 
 
同年 ポルポトと同盟関係にあった中国はカンボジアに侵攻したベトナムに報復攻撃を仕掛ける 中越戦争が勃発した。

ベトナム軍は実戦経験が豊富で しかもアメリカ軍がベトナム戦争時 残していった最新兵器を使用していた

そのため中国人民解放軍20万がベトナムの領土へ進行するが返り討ちに会い大量の戦死者を出したまま撤退する 中国軍の死者2万人に対してベトナム軍は7千人であった

中越戦争

1984年 3度に渡り中越国境紛争が勃発する ベトナムの敗北 中国優位の国境線が引かれた  

中越国境紛争

その後 両国の関係改善が図られ 国境には友誼館が建てられた 

昔は沈南館と呼ばれていた(ベトナムを沈めるという意味) 

友誼館 沈南館 中越戦争の砲弾跡

1986年以降 ホーチミン(旧名サイゴン)はドイモイ政策で発展を遂げ ベトナム最大の商業都市となる ドイモイ政策とは中国の改革開放政策と同じで
政治に口を出さなければ経済は自由に行ってもいいよと言う政策

1988年 スプラトリー諸島海戦 南沙諸島で中国軍とベトナム軍が衝突する

中国がベトナムに勝利し 現在もスプラトリー諸島は中国の実効支配が続いている

南沙諸島の場所
現在 南沙諸島では中国が埋め立て作業を行っている

1989年 10年以上続いたカンボジアベトナム戦争は決着がつかないままベトナムはカンボジアから撤退した。結局 ベトナムはカンボジアでポルポト派一掃する目標を達成しないまま5万人の戦死者を出し撤退した(ベトナム戦争で同じく共産党打倒の目標を達成しないまま撤退したアメリカ側の戦死者5万人と同じ数であった)

ベトナム撤退後もカンボジア内戦は引き続き行われたが まもなくポルポトは山の中で一人寂しくなくなった。

1993年 フランスとベトナムの間で和解が成立した。

1995年 アメリカとベトナムの間で和解が成立した。

同年 東南アジア諸国連合(ASEAN)はベトナムの加盟を認めた。

ASEAN加盟の10か国

<目次>
ベトナムの歴史1(紀元前~13世紀)
中国王朝からの独立と蒙古襲来まで

ベトナムの歴史2(14~19世紀)
大越国の躍進とフランス支配

ベトナムの歴史3(20世紀)
インドシナ独立戦争とベトナム戦争

ベトナムの歴史4(20世紀)
ベトナム戦争とカンボジア内戦