テスト

14世紀

14世紀 チャンパ王国(ベトナム中部)のポークロンガライ遺跡が完成する 

ポークロンガライ

14世紀 大越(ベトナム北部)とチャンパ王国(ベトナム中部)の関係が再び悪化する

1350年代 大越の都ハノイはチャンパの侵入をたびたび受けることとなる

1371年 ハノイの昇龍はチャンパの攻撃を受け破壊される

昇龍タンロン遺跡

14世紀末 大越で飢饉が発生する

1400年 陳朝の大越は滅亡する 次にベトナム北部を統治した胡朝は たった7年で消滅した

ハノイにホー王朝(胡朝1400年~14007年)の城塞が建設される

ホー王朝の城塞

その後 再び陳朝が統治し後陳朝となるが 後陳朝も数十年統治したのちに崩壊する

ベトナムは一時 明の支配下に置かれるがベトナム人は得意のゲリラ戦を行い明軍を撤退させる

15世紀

15~19世紀 チャンパ時代から栄えてきたホイアンはベトナム中国フランス日本の文化が融合し
 また海のシルクロード呼ばれ アジアとヨーロッパを繋ぐ中継地だった 

1408年 中国を出た明の鄭和は最初の停泊地 南ベトナムのチャンパ王国に到着する その後 インドネシア スラバヤへ向かう

マレーシアマラッカにある鄭和象

1411年 北ベトナムで起こった陳朝と胡朝の内乱に明が介入 そのとき明は多くの中国文化をベトナムに輸出した

その後 北ベトナムは20年間 明の支配下に置かれる

1428年 黎朝(レちょう)がベトナム北部を統治する  黎朝(ベトナム王朝)は白い象の宝物をめぐって隣国のランサーン王国(ラオス)との関係が悪化する

南ベトナム チャンパ王国が2つの王朝に分裂しする

1440年代 黎朝(ベトナム北部)とチャンパ王国(ベトナム中部)の間でたびたび紛争が起こる

1471年 2つに分裂したチャンパ王国のひとつヴィジャヤ朝は黎朝れちょう(ベトナム北部)に侵略され滅亡する

チャンパは80%の領土を失った。

1479年 黎朝(ベトナム王朝)は北だけでなく南ベトナムの大部分を制圧した さらに 黎朝(ベトナム王朝)が50万の兵を引き連れ隣国ランサーン王国(ラオス)を攻める 

一時 ランサーン王国の首都ルアンパバーンは壊滅状態となりながらも黎朝(ベトナム)の軍勢を撃退する ラオスはベトナムの進行を退いた

ルアンパバーン(ラオス)

1496年 北ベトナム(黎朝)に滅ぼされた南ベトナム(チュンパの一派) ヴィジャヤ朝はインドネシア スマトラ島へ亡命しアチェ王国を建国した。

16世紀

1527年~1677年 ベトナム北部は黎朝に代わり莫朝が支配する

1558年~1777年まで ホイアンを含むベトナム中央部は広南国が統治する チャンパ王国は南へと追いやられる

16世紀 名古屋コーチンがコウチ(現ホイアン)で作られる

名古屋コーチン

16世紀 ベトナム北部の王朝がチャンパ王国を攻め滅ぼし その時 多くのベトナム(チャンパ)難民がカンボジアに押し寄せた

17世紀

1601年 広南国(ベトナム中部)と日本(徳川幕府)との国交が結ばれ貿易が始まる

日本とベトナムの間で印船貿易が行われる 長崎からホイアンまで船で40日かかった 朱印船貿易の絵巻物が名古屋の寺に保管されている

朱印船

ホイアンではオランダ ポルトガル 中国 日本人が商売を行い 日本からは伊万里焼(佐賀県)が輸出された

伊万里焼

日本から多くの銅が輸入され広南国(ベトナム中部)の通貨にもなった 当時は日本も通貨に銅を使っていた ベトナムドンのドンは銅の発音からきている

1618年 プノンペン郊外のウドンにカンボジア王国が築かれる

ベトナムやタイはウドン(カンボジア)に たびたび攻撃を仕掛ける

カンボジア ウドン

1623年 カンボジアはシャム(タイ)や広南国の攻撃を受け弱体化する もともとクメール文化が浸透していた南ベトナムはベトナム人が入植しベトナム化が進む  現在のホーチミン市にサイゴンと言う地名が付いた。

銅銭

1638年 江戸幕府の鎖国政策により日本とホイアン(ベトナム)の貿易は途絶えた。

日本の鎖国政策以降 ホイアンでは中国人が貿易の中心となった 華僑が住み着き今のホイアンの街並みが形成された

1693年 広南国(ベトナム)はベトナム内のクメール人居住区を占領する ウドン(カンボジア)は海へのアクセスを断ち切られ、海上貿易にはベトナムの許可が必要になった。

1698年 現在はもうすでに残っていないがホーチミン市(旧サイゴン)にザーディン城と言う星形要塞が築かれる

ザーディン城

18世紀

1714年 カンボジア(クメール)の政権争いに広南国(ベトナム中部)とアユタヤ王朝(タイ)が介入 広南国(ベトナム中部)が勝利し 広南国はカンボジアから多くの領土を獲得する

タイ アユタヤ王朝

1739年 カンボジアが広南国(ベトナム中部)に奪われた領土奪還の為 10年以上戦うが失敗する

1769年 広南国(ベトナム中部)とシャム国(タイ)との戦争が始まる

1771年 農民の反乱に端をはした西山党(タイソン)の乱が発生する 戦火は広南国(ベトナム中部)全土に広がる ホイアンは この反乱で壊滅的な被害を受ける

西山党

1777年 広南国(ベトナム中部)が滅亡する

1778年 広南国に代わりベトナム中部は西山朝が統治する

1785年 ベトナム南部でタイソン・シャム戦争(ベトナムとタイとの戦争)が勃発する 結果はベトナム西山軍が勝利する

1788年から翌年にかけ 大越国と西山朝の連合軍(ベトナム)と清(中国)との間でドンダーの戦いと言う戦争が起こる 清越戦争とも言う

戦いはベトナム連合王朝の勝利 ベトナムは清からの支配を免れる

しかし後黎朝(北ベトナム)はこの戦いの後 滅亡した。

ドンダーの戦い

19世紀

1802年 西山朝(ベトナム中部)はグエン朝によって滅ぼされる

ベトナム初の南北統一王朝 グエン朝 が誕生する※現在のベトナム領とほぼ等しい

グエン朝はフエを都に定めた 

グエン朝王宮 642×568m 北京の紫禁城をモデルに造られた 阮クエン朝王宮 太和殿 内部も中国風 王宮の屋根に飾られた龍は皇帝の象徴

フエ 王宮
フエ 王宮

グエン朝が初めて国名を越の南 越南〃ベトナム〃と命名した。

この時代までベトナム人は中国人や日本人と同じように普段から漢字を使用していた。

130年ほど前まで使われていたベトナム漢字

グエン朝は150年間で13人の皇帝が即位した 

グエン朝は中国文化の影響を強く受けた京族文化にクメール文化の影響を受けたチャム文化を取り入れながら発展していった。

のちにグエン朝はカンボジアやラオスの一部の領土も占領する

建国間もないグエン朝は清の属国となった

1820年 グエン朝2代皇帝 明命亭が即位する

明命ミンマン帝は1000人の奥さんに168人の子供がいた

明命ミンマン帝

1831年 タイが当時ベトナム領だったカンボジアの領土を狙い第一次泰越戦争(タイVSベトナム)が勃発する 結果 ベトナムがタイを撃退しカンボジアの領土を守った

戦後 ベトナム史上 最大の領地を所有する事となった

同年 それまで昇竜(タンロン)、東京(ドンキン、トンキン)、東都(ドンドー)などと呼ばれてきたハノイが その年 ハノイと呼ばれるようになった

1832年 ベトナムではチャンパ王国が大南帝国(越南阮朝 グエン朝)に併合される チャンパ王国 1600年の歴史に幕

1841年 第二次泰越戦争(タイVSベトナム)が勃発する 戦後 両国に平和条約が結ばれ ベトナム領カンボジアはタイとベトナムが共同管理することで決着した

グエン朝は鎖国政策とキリスト教徒の弾圧を行ったが アヘン戦争ののち欧米諸国の軍事的な圧力を受け弾圧を一時緩めた

泰越戦争

1851年 グエン朝はスペインやフランス人 宣教師を6年かけ次々と処刑していった。

1858年 フランス人宣教師迫害を理由にフランスはベトナムに皇帝ナポレオン3世を送り込み侵略を始める 

ナポレオン

フランス軍はダナンに上陸したのちサイゴンへ侵攻する

そしてフランスとベトナムとの間で仏越戦争が勃発する 戦いはフランスの勝利

仏越戦争

1859年 ホーチミン市(旧サイゴン)はフランスに占領された

ホーチミン

1861年  ホーチミン市(旧サイゴン)に建てられたザーディン城(星形要塞)はフランスにより破壊された。

その年 ホーチミン市のあたりはザーディン省と呼ばれるようになった。

1862年 グエン朝はフランスとの条約によりフランスのホーチシナ(ベトナム南部)支配を認めた。 

フランスによりサイゴン港が開港した。またサイゴン(ホーチミン市)はフランス人によりフランス建築が多く建てられた。

今も残るサイゴン(ホーチミン市)のフランス建築

フランス人はベトナムでキリスト教の布教活動が自由にできるようになった

またフランスはベトナムに対し多額の賠償金を請求した。現在の価格で約200億円 支払期限は10年とした。

1863年 カンボジアはタイやベトナムの脅威から逃れるため自らフランスの保護国となった そして その後 フランスがカンボジアを統治することになる

1863年 その後フランスは当時タイの領土であったカンボジアを占領する

1873年 フランスがハノイを占領する

ハノイ 旧市街 36通り

1883年 グエン朝の都 フエもフランスに占領される フランス統治下に置かれてもなおグエン朝の王族たちは宮殿の中に住み続け存続し続けた。

1885年 ベトナムの領有権をめぐり清とフランスとの間で清仏戦争が勃発する その戦争に勝利したフランスはベトナムを完全に占領する

清仏戦争

1886年 ハノイ大教会(大聖堂)パリのノートルダムをモデルに建てられたカトリック教会

ハノイ大教会(大聖堂)パリのノートルダムをモデルに建てられた

1887年 フランスが統治するラオスベトナムカンボジアからなるフランス領インドシナが出来上がる その中のハノイがフランス植民地の中心となった

フランス領インドシナの地図

ベトナムはフランスの植民地支配を60年間受ける フランス統治の元 ベトナムではフランス語教育が徹底化され それまで使われていた漢字が使われなくなる

ベトナムで各家庭で作られてきたドブロクが禁止となる 酒類の値段が5倍と急騰する アヘンの吸飲者も増える

どぶろく酒
アヘン患者

フランスはカンボジアやラオスの役人にフランス人の言う事を聞くベトナム人を使った そのような間接的な統治を行うことで直接フランスが批判を浴びるのを回避した そのことが原因で のちのち ベトナム人の事を良くないと思うカンボジア人が増える

※香港やマレーシア(元イギリス統治下)などにインド人が多いのも同じ理由

 ルアンパバーン王国(ラオス)はベトナムの傭兵としてフランスや中国南部の武装勢力と戦った

同年 ルアンパバーン王国は中国南部のチワン族からなる武装勢力 黒旗軍の攻撃を受け壊滅的な被害を受ける

そこでルアンパバーン王国は黒旗軍と敵対するフランスに助けを求める 

黒旗軍

<目次>
ベトナムの歴史1(紀元前~13世紀)
中国王朝からの独立と蒙古襲来まで

ベトナムの歴史2(14~19世紀)
大越国の躍進とフランス支配

ベトナムの歴史3(20世紀)
インドシナ独立戦争とベトナム戦争

ベトナムの歴史4(20世紀)
ベトナム戦争とカンボジア内戦