テスト

紀元前30世紀

紀元前2879年 中国雲南省からベトナム北部にかけて伝説上の国家 文郎国が形成される 青銅器で出来たドンソン文化の遺跡が出土している

都はベトナム北部の峰州(現フート省) 文郎国は2621年間も続いた

ドンソン文化遺跡の出土品

北ベトナム ドンソン文化の銅鼓がボルネオ島 最北部(マレーシア ブルネイ)で見つかっている

ドンソン文化遺跡から出土した青銅器

前4世紀

紀元前316年 ベトナム北部は秦(中国)の支配下にはいる

秦の始皇帝

紀元前3世紀

紀元前258年 文郎国は滅亡する

紀元前203年 ベトナム北部と中国広東省 広西チワン族 雲南省の あたりに南越国が建国される 首都は広州に置かれた

南越国

紀元前2世

紀元前141年 漢(前漢)の7代皇帝 武帝は朝鮮半島やベトナム北中部へも進行した。

武帝

紀元前111年 前漢の武帝により南越国は滅ぼされる 広西チワン族(中国)とベトナム北部は一つの地域に割り当てられ交州と呼ばれるようになる 交州は7世紀の唐の時代まで続く

以降 ベトナム北部は1000年以上 中国王朝の支配下に置かれる

1世紀

1世紀~7世紀 にかけメコン川下流域(ベトナム南部とカンボジアに仏教とヒンドゥー教を信仰する扶南国が出来る 

扶南国

2世紀

192年 ベトナム中南部に後漢から独立したチャンパ王国が誕生する

チャンパ王国はヒンドゥー教を信仰しチャム語とサンスクリット語を使用していた

2世紀 チャンパ王国(ヒンドゥー教)がミーソン遺跡を建設

チャンパ王国は 現在のベトナム中部に1640年間続いた王朝

チャンパ王国の場所
チャンパ王国の遺跡
ミーソン遺跡2

3世紀

3世紀 扶南国(カンボジアやベトナム南部に存在したクメール人の国家)はフィリピンまで貿易を拡大していた

4世紀

扶南国(カンボジア)とチャンパ王国(南ベトナム)は中国王朝に貢物をしながら中国文化を受け入れながらも ヒンドゥー文化を取り入れていった。

4世紀~15世紀にかけ チャンパ王国(ベトナム中部)は中国大陸とバクダットを結ぶ海のシルクロードの拠点だった 

6世紀

550年 ベトナム南部はクメール人(カンボジア)からなる王朝 真臘(しんらん)により統治される

クメール様式

7世紀

(7世紀) 唐(中国王朝)がもっとも繁栄していたころ唐は北ベトナムや朝鮮にも進出してた

一方 南ベトナム チャンパはカンボジアに敗北を期した。 

カンボジア アンコール遺跡内の(真臘しんろう) チャンパ(ベトナム南部)と戦って勝利した様子と描いた壁

7世紀 チャンパと戦って勝利した壁

8世紀

8~9世紀 チャンパ王国(ベトナム中部)のチャム塔が完成する 

チャム塔

9世紀

859年 中国 雲南省の南詔はミャンマー タイ ラオス カンボジアを攻め さらには当時 唐(中国)の領土であったベトナムの交州(ハノイ)まで攻め落とした

862年~866年 唐の管轄下にあったハノイは一時 南詔国(雲南省)の支配下にはいる

南詔国(大理)

9世紀 チャンパ王国(ベトナム中部)のポーナガル遺跡が完成する

ポーナガル遺跡

10世紀

907年 中国(ベトナム北部を含む)では唐が滅び五台十国と言われる戦国時代に突入する

939年 その戦乱の中ベトナム北部が中国からの独立を果たす

10~14世紀 チャンパ王国(ベトナム中部)がビンディン遺跡を建設する

ビンディン遺跡

10世紀 フィリピン南部のミンダナオ島にはブトゥアンと言う海洋国家があり ベトナム南部のチャンパ王国(ベトナム中部)やインドネシアのシュリーヴィジャヤ王国と貿易を行っていた

11世紀

1009年 ベトナム北部に大越(李朝)と言う王朝が誕生する

この時代より現在のベトナムの主要民族(京族キンゾク)の移住が始まった。現在キン族はベトナムの全人口の86パーセントを占める

京族 ベトナム系の民族

ハノイが大越の都となる 以降 ハノイは千年の都と呼ばれるようになる

ハノイ 旧市街 36通り

首都はハノイの昇龍タンロン遺跡 が この時代の遺跡として有名

昇龍タンロン遺跡

またハイヴァン峠はこの時代 大越国とチャンパ王国(ベトナム中部)の国境線だった

今でも峠は文化の境界線となっており 人の気質も峠を境に代わると言われている

ハイヴァン峠

11世紀 チャンパ王国(ベトナム中部)は一時期 カンボジアのアンコール朝に支配されたこともある

アンコールトム

アンコール遺跡にはアンコール軍(カンボジア)チャンパ軍(ベトナム中部)との戦いの様子が壁画彫刻となって残っている

7世紀 チャンパと戦って勝利した壁

12世紀

1175年 ベトナム北部を統治する李朝は農民に重税を課し それに反発した農民が反乱を起こし王朝は急速に衰退する

1177年 チャンパ王国(ベトナム中部)が大軍を引き連れアンコール朝(カンボジア)に攻めて来る クメールの都はチャンパにより占拠される

12世紀末(1181以降) ジャヤヴァルマン7世(カンボジア クメール人)はタイ東北部 ラオスやベトナムにまで領土を広め仏教の影響を強く受ける

そのころアンコール(ヒンドゥー教)遺跡に仏教のレリーフが加えられる 

ジャヤヴァルマン7世(カンボジア人)

ジャヤヴァルマン7世がチャンパ(南ベトナム)との戦いに勝利した記念として建てた 遺跡にはそれぞれ違った石材が組み込まれている

建設当初は仏教の遺跡として その後 ヒンドゥーの要素を取り入れ建てられた。

バイヨン遺跡(カンボジア)の壁にはチャンパ(南ベトナム)との戦いにに勝利した時の様子が描かれている。

バイヨン寺院 壁画

13世紀

13世紀  元(モンゴル)の大群がベトナムに攻めてきたがハロン湾の洞窟に武器を隠し入れゲリラ戦で勝利した

ハロン湾2

13世紀 ハノイのホアンキエム湖にはベトナムと元(モンゴル)との戦いで活躍した戦死が祀られている

1190年

チャンパ王国(南ベトナム)がクメール帝国(カンボジア)に対し降伏する チャンパの都はクメールに占領される

ホアンキエム湖

1224年 李朝(ベトナム北部)は崩壊した

1225年 ベトナム北部と雲南省のあたりにまで領土を広げた大越は支配者が李朝から陳朝へと変わる

1257年 雲南省を制圧したモンゴル帝国は大越(ベトナム北部)まで進行してきた。モンゴル帝国はその時の標的は宋で大越を制圧する意思はなかった。

1280年 モンゴル帝国は本格的に大越に攻めてきた

モンゴル 騎馬隊

1282年 元(モンゴル)は海からチャンパ王国(ベトナム中部)に攻撃を仕掛けるが失敗する

続いて元は大越(ベトナム北部)の領土を通過しチャンパ(ベトナム中部)に攻撃を仕掛けた しかし大越軍の攻撃に会いまたしても失敗に終わる

1285年 元(モンゴル)の軍隊が大越に向け総攻撃を仕掛ける 一時ハノイを占領されるが 大越はゲリラ戦に展開する 
元(モンゴル)軍は森林地帯での不慣れな戦いと さらに疫病が蔓延し 撤退した

ミトー ジャングルクルーズ 

1287年 大越は3度目の元寇(モンゴル軍)の攻撃を受ける 50万の兵で押し寄せた
大越は500本の杭に400隻の船をひっかけた そして 大越は今回も元(モンゴル軍)撃退し撤退させる

1288年 元(モンゴル)は白藤江の戦いで陳朝ベトナムを攻めるが失敗する モンゴルはベトナムに4連敗を期す

それまで仲が悪く何度も軍事衝突を起こしてきた北ベトナムの大越とベトナム中央のチャンパ王国は共通の敵 
元(モンゴル)を協力し撃退したことにより大越とチャンパの両国の関係は その後と良好となる

またマルコポーロが書き残して記録にチャンパ王国の事が書かれていた

<目次>
ベトナムの歴史1(紀元前~13世紀)
中国王朝からの独立と蒙古襲来まで

ベトナムの歴史2(14~19世紀)
大越国の躍進とフランス支配

ベトナムの歴史3(20世紀)
インドシナ独立戦争とベトナム戦争

ベトナムの歴史4(20世紀)
ベトナム戦争とカンボジア内戦