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(歴史)  
フィンランド人の先祖はサーミ人 

サーミ人

文献に初めてフィンランドが登場するのは西暦97年の古代ローマ時代 フィンギ人について書かれた文章

フィンランドは歴史的にロシアとスウェーデンの影響を強く受けている

フィンランドに国が出来る前 フィンランドのあたりは交わることのない3部族で構成されていた。

その3部族はノルマン人(スウェーデンの十字軍)によるの制圧を受ける 1200年にはトゥルク(現フィンランド)を制圧される

南東からはノブゴロド公国(1136年から1478年まで存在した国)に侵攻され 

中世ロシア(キリスト東方正教会)とスウェーデンとノブゴロド公国との勢力争いとなる 

1323年 今のフィンランド領土を分割する形で国境がひかれ とりあえず勢力争いに決着がついた

その時ひかれた国境線が今でも文化の境界線となっている

(宗教)もともとフィンランドは土着宗教からなる多宗教を信仰していた。

その後 フィンランドの西と南がローマカトリック 東がギリシャやロシアと同じ東方正教会(※共にキリスト教)

しかし1527年 スウェーデンで宗教革命が起こり スウェーデンとフィンランドはプロテスタント(※キリスト教)となる

それまでの聖書はラテン語で書かれていたが宗教革命以降はそれぞれの民族の言葉で書かれるようになった

1818年~ 30年戦争が始まる プロテスタントとカトリック(共にキリスト教)による宗教戦争

ドイツを巻き込んだ大きな戦争に発展する スウェーデン フランス オランダがプロテスタント軍

一方 カトリック軍は神聖ローマ帝国(ドイツ領を含む) スペイン フィンランド

戦争の結果 ヨーロッパ全体の国力が低下する 一方 帝政ロシアは力をつける 

帝政ロシアとスウェーデンの戦争は21年間も続いた この戦争でスウェーデンは大敗し

当時スウェーデンが持っていたフィンランド領(一部)を帝政ロシアに奪われる 

そのとき帝政ロシアの占領下にあったフィンランドでは宗教の自由が認められていた

1808年~1809年の間 再び帝政ロシアとスウェーデンとの間でフィンランドの領土をめぐる戦争が勃発した

戦争は またしても帝政ロシアの勝利 ロシアはフィンランドのすべての領土を手にした

帝政ロシア(アレクサンドル一世)のフィンランド統治はスウェーデンとは違い緩やかな物だった

アレクサンドロス2世(ロシア皇帝)になると さらにフィンランド人に多くの自由が認められた。

そのため その時フィンランド独自の文化が多く作られた 帝政ロシアの政策によるフィンランドの工業化も進んでいった

フィンランドにおけるアレクサンドロス(ロシア皇帝)の人気は非常に高かった 

今でもヘルシンキにアレク(ロシア人)の銅像が立っている しかしアレクサンドロス2世はポーランド人により暗殺されてしまう

2世の後継者 ニコライのフィンランド統治は厳しかった

1871年 ドイツ帝国が誕生した 中央集権化を進める

当時 フランスはドイツと仲が悪かった ロシアもドイツと仲が悪かった

そして1894年 帝政ロシアとフランスが同盟を組む 

ドイツを脅威に感じた帝政ロシアはフィンランド人への締め付けをより一層 厳しくしていった。

フィンランド人にフィンランド語を禁止しロシア語を強制した。

1905年 ついにフィンランド全土で大ストライキが決行され さらにロシア総督も暗殺された。

その後 ロシア人の締め付けは緩くなった 

帝政ロシアは日露戦争に負け国力が低下し のちにロシア革命が起こる

1917年 帝政ロシアは崩壊しソビエトが誕生する その年 フィンランド国内では内戦が勃発する

2年間続いた戦争の結果 フィンランド人は やっと独立を勝ち取った

第二次大戦ではナチス側につきドイツと一緒にソ連と戦うが敗北 戦後 ソ連の影響下に置かれる

ただ 経済だけは資本主義体制をとる

1991年 ソ連崩壊とともにフィンランドでは失業者が20パーセントに増えた

ソ連崩壊後には西側陣営に接近し、1994年にはEU加盟に合意する 生活水準は極めて高い

 


<もくじ>
1基本情報
2歴史
3ヘルシンキ
4サンタ村
5トゥルクとムーミン谷ほか