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(歴史)

エストニアのあたりに人が住み始めたのは 氷河期が終わった紀元前7500年頃 

13世紀(1219年) デンマークや十字軍 さらにドイツ騎士団が進出し それらの支配下にはいる

ドイツ人の多くは商売で成功し のちにバルトドイツ人となる

14世紀(1346年)デンマークは財政立て直しのためにエストニア北部の領土をドイツ騎士団に売却する  

ドイツはバルト海のいくつかの商業都市から出来たハンザ同盟に加盟する ただ当時のドイツ王国は弱かった

16世紀(1558年~1583年)

エストニア リトアニア(隣国)の支配権争いが原因でリボニア(リヴォニア)戦争が勃発する

戦後 リトアニアの北部がスウェーデン領となり エストニアの南部がポーランド領となる

この頃 エストニアでは宗教改革が起こりルーター派のプロテスタント(キリスト教)が定着する

17世紀(1629年) エストニアは南も北もスウェーデンの領土となる

スウェーデンの支配下で農業が改善され さらに教育が進み大学も建てられた

今でも この時代の古き良きスウェーデン時代と言う人が多い

その後エストニアは ポーランド スウェーデン ロシアと支配国が変わっても 

権力を握っていたのはバルトドイツ人であった そしてドイツ語が公用語となった

18世紀(1700~1741年) 大北方戦争が起こりバルト海の支配権がスウェーデンから帝政ロシアへ移る

ロシア(ロマノフ朝)のピョードル皇帝は急激な近代化を図る ロシアのエリート層に多くのエストニア人がついた 

当時 ロシアのエストニア統治は緩かった

1739年 エストニアの聖書が発行される 

18世紀後半 ドイツ人の知識人からなる団体 リテラーテンが結成される リテラーテンは のちにエストニアの独立運動を起こす

19世紀前半 優秀な農民はバルトドイツ人の支援を受け高等教育を受ける

1869年 2日間の壮大な祭り 民族歌謡祭が開かれる 今でも5年に1度 夏に開かれている 次回は2024年 

20世紀 1914年 第1次大戦 エストニアにとって1回目の独立のチャンスが訪れる

1917年 ロシア革命が起こり帝政ロシアは崩壊する

翌年 1918年 2月エストニアは独立宣言をする 11月にはラトビアとリトアニアも独立する

エストニア国内にエストニア民族政権とエストニア共産党と言う2つの勢力が出来 武力衝突を起こす 

さらにドイツ義勇軍とソビエトロシア軍が攻めて来る エストニア自由戦争が勃発する 

エストニア共産党はモスクワの共産党に協力を求める 内戦はロシアにまで拡大した

社会主義を嫌うチャーチル率いるイギリス軍も参戦 バルト海に戦艦を送った

戦争は2年間続いたのち共産党軍は負け イギリスの協力を得たエストニア民族政権の勝利 その後 平和条約が結ばれる

エストニアはほかのヨーロッパの国々と同じように国連に加盟した そして1921年には日本もエストニアの独立を承認している 

翌年(1922年12月)ソビエト連邦が発足する  過去に帝政ロシアに支配されていた多くの国がソ連に加盟する 

ソ連はおよそ120の民族を抱えた巨大国家  当初は加入も脱退も自由とされていた 

フィンランドとバルト三国も帝政ロシアの支配下にあったがソ連邦には加盟しなかった

ソビエトのレーニンもバルト3国の独立を認めた エストニア タリンのヘルマンの塔にはエストニアの国旗が掲げられた

ヘルマン塔

独立は果たしたものの内戦の傷跡は大きかった さらに反政府組織の共産党地下組織も活動していた

そこでエストニア政府は共産党地下組織の処刑や虐殺による弾圧を行った。

1936年 ベルリンオリンピックではエストニアが独立国として7つのメダルを獲得する

平和の祭典 オリンピックが終わった 2年後 ナチスドイツはオーストリアとチェコの一部を併合する

1939年 独ソ不可侵条約(ドイツとソ連はお互い戦争しませんと言う条約)ドイツとソ連の緊張が高まっていた時に結ばれた条約だった

しかしナチスドイツはソ連のエストニア進行を恐れエストニアのドイツ人をドイツに呼び寄せる

独ソ不可侵条約は極秘で行われたため秘密議定書とも呼ばれている

極秘で行われた会議ではポーランドの半分をドイツがいただき 

その代わりにバルト3国とポーランドの東半分をソ連の影響下に置くというものであった

1939年 ドイツ軍がポーランドに侵攻し第2次大戦が始まる その18日後 今度はソ連がポーランドの東へ侵攻する

ポーランドは わずか3週間でヨーロッパの地図から消えてなくなる

エストニアに港にはロシアの戦艦または不審船が行き来するようになる ロシアはエストニアにロシア軍を駐留させるように要求する

しかし悪魔でも中立の立場をとるエストニアはロシア軍の中流を拒否する エストニアのドイツ系住民が一斉に引っ越しを始める

1940年(翌年)までにバルトドイツ人のほとんどがドイツ本国やドイツの支配下に移住していった

案の定そのあとソ連はエストニアに侵攻し併合してしまう ソ連側の言い分はエストニア付近のソ連船が攻撃を受けたためだという

エストニアは大規模な武力衝突を避けるためソ連の進行を受けるしかほかなかった 

10万人規模のソ連軍がエストニアに駐留することになった 結局エストニアの主権は侵さないと言うスターリンとの約束は破られた

その後エストニアの政治家は逮捕されシベリア抑留や虐殺によって処刑された

一方 エストニア政権下で政治犯として捕まっていた共産党員は全員釈放された そして共産党員からなる臨時革命党が結成される

その後 エストニアはソ連邦に加盟し エストニアではエストニア共産党が政権をとり社会主義体制下で一党独裁政権が始まる 

(※ラトビアとリトアニアも同じ運命をたどる) 海外のエストニア大使館や領事館はソ連から撤退するように圧力がかかる

タリンのヘルマン塔にはソ連の国旗が掲げられた エストニアは20年ぶりに他国の占領下に入る

1941年 1万人以上のエストニア人がソ連に強制連行された 毎年 6月14日は 国民全員が喪に服す日となっている

同じ月 ナチスドイツは独ソ不可侵条約を破り 突如 ソ連領内に進攻を始める 不意を突かれたソ連軍は総崩れとなる

1942年~1944年の間は一時 エストニアはナチスドイツの支配下にはいる

その時 エストニアでもユダヤ人の虐殺が行われ25万にいたユダヤ人は3000人に激減した。

エストニア人はドイツ軍に入隊させられ ドイツ側についたエストニア人とソ連側についたエストニア人がお互い殺し合う事態に発展する

戦争はアメリカの参戦もあり1944年には形勢は逆転する 今度はソ連がドイツを攻める

この戦争でバルト三国の人口は30%減少した

第二次大戦後 エストニアは再びソビエトの支配下となる その時 8万人のエストニア難民が発生した

戦後の復興はモスクワの支援で行われた 多くのロシア人がバルト三国へ移り住む ラトビアのロシア人は全人口の半数

エストニアは40%がロシア人となる 町の至る所で社会主義を称えるスローガンが掲げられ

ラジオではロシア語放送が始まる 各地の名称もロシア風に変わっていった

歴史教科書から独立の文字は消え ロシア語は小学校から義務付けられた

1989年 独立運動の一環でもある人間の鎖が行われた

1991年 8月20日 ソビエトの崩壊とともにエストニアは独立を果たす


<もくじ>
1基本情報
2歴史
3首都タリン
4その他の名所