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19世紀 前半(1801年~1870年)

19世紀

19世紀 明治日本の産業遺産 長崎 軍艦島  

軍艦島

19世紀

19世紀初頭 開平の碉楼 海外で暮らした中国人が故郷に戻り海外で集めた絵葉書を元に建てた不思議な形をした洋館群

開平2

1801年 

  

李氏朝鮮で王朝を守ると言う理由でカトリック弾圧が行われた
 

1805年

 

13年前 北海道で追い返されたロシア船が再び貿易の許可を求めて長崎(日本)へやって来た 

ロシアの貿易船は半年も待たされた挙句 またしても追い返されることとなった

1814年

  

イギリスとネパールの間でグルカ戦争が起こる 結果はイギリスの勝利

イギリスはチベットまで攻めるが清(中国)の軍隊に敗れる

1823年

 

江戸時代 日本の出島(長崎)にドイツ人医師のシーボルトが来日した。シーボルトは塾を開き日本の医学に貢献したが江戸幕府に妬まれ日本追放となった。

1830年

江戸時代の日本では空前の参拝ブームが起こり 伊勢神宮(三重県)は年500万の人が訪れた

伊勢神宮

1833年

江戸時代の日本では東北地方を中心に異常気象と飢饉(きが)が発生し 不作が原因で農民一揆や打ち壊し(暴動)が各地で発生した 大坂(大阪)でも飢え死にする人が多発した。

1833年

 

アメリカ商船モリソン号は漂流した日本人を送り届けるため江戸湾にやってきたのだが

幕府の外国船打払い令によって放たれた大砲により モリソン号は追い返されてしまった。

モリソン号 

1840年

 

清の安いお茶はイギリスで大きな需要があった そのためイギリスは清に対して大きな貿易赤字を抱えていた

そこでイギリスはインド産のアヘン(麻薬)を清に売って金儲けをした。

清が麻薬(アヘン)を取り締まった為 イギリスと清の間でアヘン戦争が勃発した。

1841年

 

 

清朝(中国)チベットの連合軍とシク王国(インド)との間で戦争が勃発する 結果はインド シク軍の勝利

戦後 清はチベットの関係が悪くなり 代わりにチベットとインドの関係が強固となった

1842年

     

威遠砲台 アヘン戦争の激戦地 東莞市(広東省)
威遠砲台
アヘン戦争博物館(広東省)

アヘン戦争に負けた清はイギリスに南京条約(不平等条約)を結ばされる

その条約により当時まだ未開発だった香港の領土をイギリスに奪われた

さらに当時 清国の領土であったロシア極東(ハバロフスク等)と新疆ウイグルの領土は列強に割譲された

イギリスはマカオから香港へと貿易の拠点を移す マカオの人口は半減する そのころマカオで競馬 宝くじ ドックレースほかカジノが始まった

アヘン戦争の敗北により福建省 厦門(アモイ)は13の国により分断統治された

今でも厦門(福建省)には数多くの豪邸が残っていて人気の観光地となっている

アモイ厦門

上海には日本を含むイギリス フランス アメリカなど8か国により租界地(中国人立ち入り禁止の占領地)が造られていった 

上海の大繁華街 南京路はその時 アメリカとイギリスが共同で作った

上海 南京路

1845年

江戸時代の日本では 三重県伊勢出身の旅人 松浦武四郎が蝦夷地(北海道)に到達する

武四郎は現地に住むアイヌ人からアイヌ語を学び旅をしながらアイヌに関する様々なことを記録し のちに24冊の本を書き出版した。

1845年と1946年

   

1845年 イギリスの軍艦が済州島付近の海域に侵入する

1846年 フランス海軍によるカトリック弾圧に対する抗議など 李氏朝鮮にも西洋列強の干渉が始まる

1851年

中国 アヘン戦争以来社会不安が高まった アヘン戦争に敗北した清朝は多額の賠償金を請求された

そのため清朝は国民に重税を課した 清国で洪秀全(こうしゅうぜん=キリスト教徒)という男が現れて

貧富の差のない社会を目指し戦った 太平天国の戦いと言う 中国南部に太平天国が占領地を広める

1853年

 

ペリー総督が乗る4隻のアメリカ軍艦(旗艦サスケハナ号)が浦賀沖(神奈川)に現れ 日本の徳川幕府に開港を求めた。 

戦争になったら勝ち目はないと悟った江戸幕府はアメリカからの親書を受け取ることにした

親書を手渡したペリーは日本からの返事を待つことにして いったん香港へと向かった 

旗艦サスケハナ号
ペリー総督

1854年

 

ペリーが再び7隻の戦艦を引き連れ 江戸湾 の羽田沖に現れた もし日本がアメリカ側が出した条件に従わなけれべ100隻で攻撃すると脅してきた

アメリカ側の脅しに屈した江戸幕府は開港せざる負えなくなった
そのとき江戸幕府(日本)は200年以上続けてきた鎖国が終わった

1856年 江戸時代の日本ではタウンゼントハリス(アメリカ人)が来日し下田(静岡)の玉泉寺をアメリカ領事館に造り変えた

玉泉寺のアメリカ領事館

1855年

  

 ネパールチベット戦争が勃発する 当時ネパールはイギリスと清に連敗していたがチベットとの戦いで勝利した。

戦後 両国の関係改善を図ったタパタリ条約が結ばれた 

1857年

     

江戸幕府(日本)はアメリカに裁判や金銭面で様々な面で日本側が不利となる不平等条約を結ばされる。

その のちオランダ イギリス ロシア フランスとも同じ不平等条約を結ばさせられた 

1858年

  

 アロー戦争(第2次アヘン戦争)でイギリス フランスの連合軍に敗れた清朝は北京条約を結ぶがイギリスとフランスはその内容に納得がいかなかった そこで北京を占領しギリシャ風宮殿の円明園を焼き払った

円明園

その後 清朝は天津条約を結ばされ 台湾(清の領土)の港を数か所 開港せざる負えなくなった。 さらに多額な賠償金を請求された。

1862年

 

鹿児島(日本)の薩摩藩が移動中 道を開けなかったイギリス人が切り付けられる事件が発生した。

神奈川の生麦村で怒ったので生麦事件と呼ばれている

その後 イギリス政府は薩摩藩(鹿児島)に生麦事件の賠償金(億単位の大金)を請求してきた。さらにイギリスは鹿児島に軍艦を派遣し鹿児島の街に大砲を放った。

生麦事件 

1862年

  

広東省の広州の沙面ではイギリスとフランスが次々と洋館を建てていった

沙面19世紀ごろの洋館

清が欧米各国と結ばされた不平等条約により港が開港させられ 結果 海外からいろいろなものが入ってきた そして今の広東料理が完成した

広東料理

さらに広州から運ばれていった福建省のウーロン茶がやがてイギリスで紅茶の発明に繋がった

1863年

二条城  家光公依頼 230年ぶりに徳川将軍が天皇の住む京都を訪れた
 

1866年

 京都御所にて光明天皇が亡くなる 翌年 明治天皇が即位する 明治天皇は朝廷の会議に徳川幕府を排除した。
 

1866年 

   

丙寅教獄と言う キリスト教徒大量虐殺事件が発生する
報復攻撃に出たフランスは李氏朝鮮の江華島(現 韓国)を占領する

しかし その後 フランス軍は李氏朝鮮軍の反逆に会い撤退した。

近代的な兵器を持ったフランス軍が時代遅れの兵器しか持たない李氏朝鮮軍に敗北した前代未聞の出来事であった。

丙寅教獄

(同年) 李氏朝鮮に商売を求めやって来たアメリカ商船が沈没させられる事件が発

一時 アメリカは江華島(現 韓国)を占領したが李氏朝鮮軍の攻撃を受け撤退した。
またしても近代的な兵器が役に立たなかった。

1867年

 米国船ローバー号が台湾南部に難破した際 現地の原住民に殺害される事件が発生した

1868年

江戸幕府軍と薩摩(鹿児島)長州(山口)連合軍が京都で衝突し戊辰戦争が始まった。結果は薩摩 長州軍が勝利した。

戊辰戦争

薩摩 長州軍は新政府を結成し明治天皇を引き連れ大行進しながら江戸へ向かった

江戸にいた徳川幕府は新政府軍と戦わずして水戸(茨木)へ逃げ260年続いた徳川幕府は崩壊した。

主をなくした江戸城(皇居)に明治天皇と新政府軍が入場した。

長らく続いた武士政権も終り後醍醐天皇以来 実に531年ぶりに天皇が政権復活を果たした。

その年の夏 江戸から東京へ改名された そして元号も慶応から明治となった。
 
秋には明治天皇が京都御所から皇居(元江戸城)へと引っ越した。明治維新が終わり 明治時代の始まった

1869年

明治政府(日本)は蝦夷地(北海道)に新たな開拓使を設けた 政府は蝦夷地の第一人者でもある松浦武四郎に協力を依頼した。

北海道開拓使

そのとき武四郎が初めて蝦夷地を北海道と改名した。

武四郎は政府に松前藩を蝦夷地から外し さらにアイヌ人に対して過酷な労働をやめさせるなどの条件を出した。

政府はその要求をのんだ が しかし商人と役人の反対に会いアイヌ人は再び過酷な労働に課せられた

武四郎はアイヌ人を助けることができないまま開拓使を自ら辞任した。 

北海道アイヌ民族の第一人者であり またよき理解者でもある 松浦武四郎


<目次>
1西暦19世紀ー前半ー 欧米列強の侵略時代
2西暦19世紀ー後半ー 日清戦争 日本 台湾と朝鮮併合
3西暦20世紀① 日露戦争 辛亥革命
4西暦20世紀② 日中戦争 第二次世界大戦
5西暦20世紀③ 東京大空襲 広島長崎原爆投下
6西暦20世紀④ 中国国共内戦 朝鮮戦争
7西暦20世紀⑤ 韓国軍事政権 文化大革命 東京オリンピック(1回目)
8西暦20世紀⑥ 天安門事件 北朝鮮テロ事件多発 ソウルオリンピック
9西暦21世紀 東日本大震災 尖閣竹島問題 北京オリンピック