テスト

20世紀(後半)

1952年 鄧小平が副総理に就任する 経済政策では現実主義を打ち出した

鄧小平

1955年 ウイグルは自治区となった 中国政府は新たなイスラム学校の設立を禁止した

メッカ(サウジアラビア)に巡礼できる人を制限 中国語教育の強化を進める 

1956年 フルシチョフのスターリン批判に反感を持った毛沢東はソ連と決別する 結果 米中と日中の国交正常化につながった

天安門には50~100万人の兵士が収容でき 地下には各シェルターがある

1957年 毛沢東は(百花斉放 百家争鳴) と言う様々な花が咲き乱れるように言いたいことを言い合おうと言った 

しかし共産党批判をした11万の人がその後 共産党により投獄される 55万人が地方に追いやられる

1958年 大躍進政策と言う 人民公社(集団農場)が行われる

楓涇人民公社旧址2

家畜たちを国家に没収されると知った牧場の人たちは一斉に牛や豚を食べ始めた 全国一斉に家畜が姿を消した

その一方で食料が無料で支給がされたため みんな一世に食料を消費し食料不足に陥る 

お米を食べる雀を一斉に退治したら雀がいなくなり その代わりに それまで雀が食べていた害虫が大発生した。
 
 
毛沢東は国民に鉄づくりを命じた しかし大きな鉄工所は造られず 全国に60万か所の土法高炉と言う小さな施設が造られた 実態は農民が造った粗末な施設だった 

農民は鉄づくりに必死になり本業の農業がおろそかになる そのうえ農機具まで溶かし鉄の塊にし決められたノルマを達成した そのため中国の農機具が激減した

鉄を溶かすために木材を使用していた その木をくべんするため森林伐採が行われ 中国の山は みるみるハゲ山となっていった 

ハゲ山となった山は保水力を失い各地で洪水被害も多発する
その大躍進政策の失敗で少なく見積もっても4300万人から4600万人が餓死した

その被害状況は1979年の毛沢東の死後 共産党の調査によって明らかとなったが中国国民には知らされていない

それだけ大量の人が亡くなったにもかかわらず中国の人口は増大していった 当時中国の人口は6億人だった

同年(1958年) 台湾が実効支配する中国に最も近い島 金門島で 中国 人民解放軍と台湾軍との間での砲撃戦が行われた

その後 両国の関係は改善され 今では金門島は中国人観光客が多く訪れる観光地となっている

金門島 
金門島
金門島3

1959年 毛沢東は大躍進政策の失敗の責任を取り 国家主席を手放すこととなる しかし共産党主席は引き続き毛沢東が受け継ぐこととなった

同年(1959年) 

チベット動乱発生 チベットで中国(共産党)軍とチベット軍の衝突が発生する 

中国人民解放軍はチベット人の大虐殺を行った

 
ダライラマ14世をはじめ2万人のラマ僧ほか10万のチベット人がインドやネパールへ亡命した 

チベット動乱

1962年 イギリス人が勝手に引いたインドとチベットの国境線が原因となり 中印国境紛争(インドVS中国)が勃発する。戦争の結果は中国が勝利し

中国がインドとパキスタンの間のカシミール地方の一部を実効支配する

カシミール地方の国境未画定地帯

1964年 毛沢東は大躍進政策の失敗で失った国家主席の座を取り戻すため 学生たちを使い文化大革命(共産党への内乱)を起こす その学生からなるギャング集団を紅衛兵と言う

紅衛兵
紅衛兵2
高衛兵1

1965年以降 学校でウイグル文字の代わりにアルファベットを使用することとなった

ウイグル文字

同年(1965年) チベットは中国の自治区となった 自治とは名ばかりで共産党が派遣した人物がチベットの実権を握った 

1966年 100万人の紅衛兵が天安門に集まり毛沢東の激励を受ける ギャング集団と化した紅衛兵が街で暴れまくる

パーマをかけている女性は路上で髪を切られ スカートの着用は禁止スーツを着ているものも革命的でないとされ紅衛兵に襲われた 紅衛兵(少年)により国民全員が統一した髪型に服装を強制された

多数の教会や寺院が破壊される 警察は紅衛兵の暴力行為を黙視した 

文化大革命1
文化大革命2

毛沢東の思想が書かれた毛沢東語録が全国に配布されそれまで学校で行われていた授業が中止となった

毛沢東語録

紅衛兵同士の衝突もあり そこで殺人も行われたが警察は一切 手を出すことが出来なかった

文化大革命で殺害された遺体が当時イギリス領であった香港へ次々と流れ着いた

鄧小平(※のちの時代中国を立て直す人物)も文化大革命で紅衛兵の被害にあい地方に追いやられたが毛沢東に一目を置かれる存在だったため命だけは助かった

1966年 文革で多くの寺院が破壊される チベットにおいては実に99%の寺院は破壊される
会話以外のチベット語の使用を禁止し毛沢東の思想が書かれた毛沢東語録が配布された

1967年 ラサ市内では紅衛兵同士が衝突し巻き沿いを食った多数のラサ市民が死傷した
 
同年(1967年) 劉少奇が失脚し毛沢東が国家主席の座を取り戻したことにより文化大革命は終わった 劉少奇は監獄され その2年後に亡くなった 文化大革命では50万の人が処刑された

同年(1967年) ラストエンペラー(清朝最後の皇帝)溥儀が 故郷の北京で亡くなる 61歳だった 溥儀は第2次大戦後 ソ連の収容所を転々と移され 

53歳の時 やっと釈放される その後しばらく北京で暮らしていた。

溥儀

同年(1967年) 中国四川省で森林伐採をしていたところ たまたま九塞溝が発見される 九塞溝が人々に知られ有名になるのは発見の20~30年後となる

森林伐採がきっかけで発見された観光地
九塞溝 紅葉

1968年 最高権威の座を取り戻した毛沢東にとって紅衛兵は必要なくなる そのため 1000万人の紅衛兵は毛沢東の指示により農村へと追いやられた 

1969年 ソ連 極東のハバロフスクと中国東北部 黒竜江省の国境で軍事衝突(国境紛争)が発生する この領土問題は近年 両国の話し合いで解決した

1971年 ソ連フルシチョフのスターリン批判を切っ掛けに中国とソ連の関係が悪化し それを切っ掛けにアメリカは中国に急接近した。

アメリカが先に中国と国交を結んだ 

1972年 続いて日本も中国 北京にて日中国交正常化が行われた

日中国交正常化

その時 尖閣諸島等の領土問題は中国側の意向により棚上げされた。

1976年 毛沢東は82歳で死去 それに伴い 中国国内の混乱も ようやく終わった また毛沢東が亡くなったことでソ連との関係も改善された 

毛沢東の妻 紅青と4人の文化大革命を支持した人物は失脚し 逮捕され裁判にかけられた  紅青は投獄中に自殺する

1977年 鄧小平が政権の座に復活した 改革開放路線(合理的な経済政策)を取った中国は飛躍的に発展する だが鄧小平はトップに立たず裏番長を務めることとなる

1978年 人民公社が解体される 生産請負制を導入する 各自で作った農作物は自由に売ることが出来るようになった

それにより農民の意欲向上が図られ収穫量は飛躍的に増えた

同年 鄧小平来日 日本の工場を見学

(同年)1978年 秘境に作られた中国とパキスタンを結ぶ7000キロの道 カラコルムハイウェイが完成する 

カラコルムハイウェイ2

カラコルムハイウェイは中国とパキスタンが共同で20年かけて作った道 建設中に中国人80人 パキスタン人800人が亡くなっている 

カラコルムハイウェイ 慰霊碑

1979年~1980年 4つの経済特区を設外国人企業を誘致した

厦門(福建省) 仙頭 珠海 深セン(広東省)の4つ

1979年 人口抑制のために 漢民族に対し一人っ子政策を実行する※少数民族に対しては規制がない また漢民族も地方によっては賄賂や罰金を払い2人目まで生むところもある

罰金の値段は場所によって大きな開きがある(一人っ子政策は2015年に終了となる)

(同年)1979年 中越戦争(中国とベトナムの紛争)が起こる

ポルポト(カンボジア)と同盟関係にあった中国はベトナムのカンボジア侵攻に対して報復攻撃を仕掛ける そこに中越戦争が勃発した。

ベトナム軍は実戦経験が豊富で しかもアメリカ軍がベトナム戦争時 残していった最新兵器を使用していた

そのため中国人民解放軍20万がベトナムの領土へ進行するが返り討ちに会い大量の戦死者を出したまま撤退する 中国軍の死者2万人に対してベトナム軍は7千人であった

中越戦争

1981年(昭和56年)

 中国残留孤児が初来日する

中国残留孤児が初来日

1984年 3度に渡り中越国境紛争が勃発する  その後 両国の関係改善が図られ 国共には友誼館が建てられた 

昔は沈南館と呼ばれていた 南(ベトナム)を沈めるという意味 

1991年に両国の国交が結ばれ一般の人が自由に通れるようになった 
今では国境の観光名所となっている

20世紀末 中国 湖北省 1976年に発見された野人の足跡の型 40センチ 全身毛でおおわれた2.5メートルの野人

1982年 外国人旅行者がチベットを旅行できるようになった

1984年  3度に渡り中越国境紛争が勃発する ベトナムの敗北 中国優位の国境線が引かれた  

中越国境紛争

その後 両国の関係改善が図られ 国境には友誼館が建てられた 

昔は沈南館と呼ばれていた(ベトナムを沈めるという意味) 

友誼館 沈南館 中越戦争の砲弾跡

1985年 外国人にチベットの個人旅行が認められた 一方 チベット政治犯による中国共産党の弾圧は続いた ラサだけで750人の政治犯が逮捕された

1986年 大学生たちが改革運動を起こす 学生に理解を示していた胡耀邦がトップの座を退く その2年後 胡耀邦が亡くなる

学生たちは天安門広場に集まり自分たちの理解者 胡耀邦の追悼する儀式を行った

1988年に海南省が広東省から分離された 海南省は中国で最も新しい省 昔は受刑者の島流しの場所だった

海南島2

1988年 チベットの僧侶がチベット独立を叫んだのを切っ掛けに大規模なラサ暴動へと発展した。

暴動では中国人が経営する商店が焼かれた一方 中国武装警察により2500人のチベット人が逮捕され一部 虐殺が行われた

同年1988

スプラトリー諸島海戦 南沙諸島で中国軍とベトナム軍が衝突する

中国がベトナムに勝利し 現在もスプラトリー諸島は中国の実効支配が続いている

南沙諸島の場所
現在 南沙諸島では中国が埋め立て作業を行っている

1989年 ゴルバチョフが北京を訪れ中ソ和解を行う 

5月17日 民主化を求める学生ら100万人が天安門広場に集まる

6月4日 ついに天安門事件が勃発する 戦車や装甲車が広場へと突入する 民主化暴動は武力より鎮圧される

当初 事前に打ち合わせがされ天安門広場での死傷者は発生しなかった が しかし長安街(天安門広場近くの大通り)でデモ隊が軍に向け火炎瓶を投げつけた

それに怒った軍が市民に向かって無差別発砲を行った

事件後 反日思想の強い江沢民がトップの座に就く  江沢民の愛国教育(愛党教育) すなわち反日教育が行われるようになる

学生たちは日中戦争の歴史を徹底的に学ばされた

(同年)1989年にも大規模な暴動があり3000人のチベット人が逮捕され内400人が虐殺された

1992年 社会主義市場経済論 共産党の管理の元 資本主義の導入が始まる 共産主義 社会主義の思想とは全くの別物 

経済は市場に任せ(資本主義経済の導入) 経済は自由に ただ共産党の批判だけは認められなかった 

(同年) 天皇初の中国訪問 平成天皇と皇后は北京 西安と上海を訪問

天皇初の中国訪問

1997年 香港が150年ぶりに中国へ返還される

当初 イギリス側は一国2制度(領土は中国でも政治は別)の条件で中国に香港を返還したのだが近年徐々に中国共産党の影響下に置かれている

また返還後 多くの香港人がカナダ バンクバーに移住した

香港が中国に返還されたときの様子(当時は香港人も喜んだのですが…..)

1999年 ウルムチカシュガル間の鉄道が開通 

21世紀

2001年 日本の小泉首相が靖国神社を参拝し中国と韓国の反発を招いた

2001年 小泉靖国神社

2002年 上海が世界で初めてリニアモーターカーの運営を始める 時速は430キロ およそ30キロの距離を8分で駆け抜ける

21世紀初頭(2002年 完成) 中国 湖南省 百龍エレベーター(世界一高いエレベーター)は東京タワーと同じ高さを180秒で一気に登る  登山は4時間かかる

上海リニア

2003年 隣国 日本の最大貿易相手国がアメリカから中国に変わった。

2004年 中国人活動家が尖閣諸島に上陸し沖縄県警に逮捕される

中国人活動家が尖閣諸島に上陸

(同年)小泉首相 恒例の靖国参拝が中国人の反感を買い 北京や上海で大規模な反日暴動へとつながった 北京の日本大使館も襲撃され破壊された

日本では反中感情が高くなった 

2005年 北京 反日デモ

中国の国家主席と日本の自民公明の幹事長が会談し日中関係について話し合った

2006年 チベット高原を走る青蔵鉄道が完成する 鉄道は天空のシルクロードと言われ世界一高いところを走る鉄道

青蔵チベット鉄道

(同年)上海ショックでアメリカをはじめ日本の株価も下がった 中国の経済が世界に与える影響の大きさを改めて示す形になった。

上海ショック

(同年) 中国温家宝首相が来日し安部首相と会談 日中ハイレベル経済対話を発足した

中国温家宝首相が来日し安部首相と会談

2008年 チベット暴動がおこる 暴動から1年400個の監視カメラが設置された

チベット暴動
チベット暴動2

(同年)中国の胡錦濤国家主席が来日する 中国の国家主席が来日するのは江沢民以来10年ぶり

胡錦濤国家主席が来日

(同年) 中国初となる北京オリンピックが開催される

北京オリンピック開催

(同年) アメリカ発の世界金融危機 リーマンショックは発生する その際 中国経済が世界の経済を支えた

リーマンショックで解雇処分を受けた証券マン

2009年 ウイグルでの暴動の死者は192人 暴動から1年監視カメラが8000個になった 

2ウイグル暴動
ウイグル暴動

21世紀 中国 湖北省 三峡ダム(1994着工~2009完成) 
(世界一)大きさは高さ185メートル 幅2309メートル

カナダとアメリカ国境にあるナイヤガラの滝と比べても高さで2倍以上 幅も3倍以上の大きさを誇る 大型の発電機が26台 原発数基分の発電量 発電量850億kw 日本の全ダムの2倍のエネルギーを出す

万里の長城以来の大工事となった ダム建設の際は100万人以上が動員された ダム工事のため130万人移住した

三峡ダムの建設風景
三峡ダム
三峡ダム3
三峡ダム 放水

2010年 沖縄県 尖閣諸島で中国漁船衝突事件が発生する

尖閣諸島で中国漁船衝突事件

2011年 日本の国内総生産GDPは中国に抜かれ 第3位となる 1位はアメリカ(2位3位と大きな差をつけている)

2012年 沖縄県の尖閣諸島には香港の活動家が無断で上陸する

日本人活動家も不法侵入で尖閣諸島に上陸する

日本人活動家も不法侵入で尖閣諸島に上陸

日本政府(民主党政権)は尖閣諸島の所有者に20億5千万円を支払い島を国有化する

尖閣諸島 国有化
デモ隊が去った後の日系デパート(中国)
暴徒化した反日のデモ隊が中国国内にある日本資本の工場やデパートを破壊した。
尖閣諸島の国有化に伴い中国では反日デモが発生し一部暴徒化した

2014年 日本政府は尖閣諸島中国漁船衝突事件(2010)の時 海上保安庁の船が損傷し その修理代1429万円の損害賠償を求め裁判に訴えた

また事件当日の様子を撮影した動画もユーチューブにて一般公開した。

中国漁船衝突事件 動画配信 開始

(同年)中国上海の裁判所は日本の商船三井の船舶を差し押さえた

商船三井の船舶

2015年 一人っ子政策は廃止された

2016年 それまでチベットを統治する共産党の幹部がウイグルに移った その後 ウイグルでもチベットのように締め付けが強くなる

2017年 中国が世界で初めて8Kテレビを発売する

2018年 香港マカオ珠海を通る 世界最長 全長55キロの港珠澳大橋 が完成

港珠澳大橋
港珠澳大橋1

2019年 去年から引き続き中国の船が月2~3回のペースで毎月途切れることなく尖閣諸島の周辺を走行した。

中国船 尖閣諸島で日本を威嚇
中国船 尖閣諸島の周辺を回遊し日本を威嚇

2020年(平成30年)

 1月 正月早々 中国船が尖閣の領海を渡航する

新型コロナウイルスの発生源となった中国武漢市の封鎖により現地に取り残された日本人を帰国させるために日本政府は武漢へチャーター機を飛ばした。

日本政府 日本人を帰国させるために 中国武漢へチャーター機を飛ばす

同年 4月に中国 習国家主席を国賓扱いで日本に お招きする予定であったがコロナの影響で延期となった

<目次>
1 紀元前(秦の始皇帝他)
2 1-5世紀(三国志や北魏の時代)
3 6世紀と7世紀(唐のシルクロード時代)
4 8-12世紀(唐や吐蕃の全盛期)
5 13~15世紀(モンゴル帝国時代)
6 16~18世紀(明や清の時代)
7 19世紀(欧米列強に圧迫を受ける苦難の時代)
8 20世紀(前半)辛亥革命と王朝崩壊
9 20世紀(後半)~現代 中華人民共和国