テスト

20世紀(前半)

1904年 大英帝国がチベット侵攻し制圧する その際 イギリス軍により多くのチベット人が虐殺された

1904年~翌年  中国東北部を占領した帝政ロシア(ロマノフ朝)は当時 日本(明治政府)が占領していた朝鮮半島にまで攻めてきた。 

日本(明治政府)は国土防衛のために立ち上がった そしてそこに日露戦争が勃発した。

日本は9万もの犠牲を出しながらも 何とかロシアの侵略を食い止めた。

日本はこの勝利でロシアから中国東北部(満州)の領有権と さらに樺太の南半分の領地(現ロシア領)を獲得した

203高地 
203高地 慰霊碑 

1905年 清朝の軍隊が四川省のチベット文化地域に進行する

清朝末期 回族の牛肉麺 蘭州ラーメン(イスラム料理)が中国で初めて作られる 中国では最も一般的な麺料理で全国各地にある

蘭州拉麺 回族の牛肉麺(朝食)2
蘭州拉麺

1906年(明治39年)

 日本が統治する中国東北地方で南満州鉄道と言う鉄道会社が設立する

南満州鉄道

1909年(明治42年)
 

伊藤博文が中国東北部のハルビン(当時は日本領)で大韓民国独立運動家の安重根に射殺される

伊藤博文が安重根に打たれる

1910年 清朝の軍がラサに進行し陥落させる その時 ダライ・ラマ13世はインドへと逃げた

ダライラマ13世 

同年(1910)

中国 雲南省とベトナムをつなぐ鉄道が開通する

1911年 武漢での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が発生する

辛亥革命

1912年 辛亥革命により清朝崩壊 革命の指導者 孫文(広州出身)は南京に首都を置き中華民国(アジア初の共和国=王がいない国)を立ち上げる 

しかし建国後も 反政府勢力との戦いは続いた

孫文像
中華民国時代の天安門

辛亥革命の後 清朝の支配から逃れたチベットとモンゴルでは独立の動きがあった

 ダライ・ラマ政権下の元 チベットは独立を果たす インドに亡命していたダライ・ラマ13世はチベットに帰国する

モンゴルがソ連の協力を得て中華民国から社会主義国家として独立する ただし内モンゴルは もうすでに多くの漢民族が入植していたため中華民国にとどまった

モンゴルと内モンゴル(中国領)の地図

モンゴルはチベットと協力しお互いで独立国を維持しようと言う友好条約が結ばれた。 

1913年 ダライ・ラマ13世がチベットの独立宣言を行う

1914年 インドのシムラでイギリス 中華民国 チベットの3者でシムラ条約が結ばれた

内容は内チベット(現在のチベット自治区)を独立させるというもの(外チベットは四川や雲南も含む)しかし中華民国は それに同意しなかった

(同年)第1次世界大戦でドイツが敗北したことにより 中国 山東省の青島(チンダオ)の領有権はドイツから日本へと移された。

第1次大戦で欧州各国が中国に介入する余裕がなくなったことをいい機会に日本は中国進出をたくらんだ21からなる条件を中華民国に突き付けた

対華21ヶ条要求は主に中国国内での開発権を求めるなどの内容 その後 日中間の関係は悪化した

1917年 第1次大戦後 中国大陸で日本へ対する反発が起こる  国民党の時期リーダー蒋介石が選ばれる

その蒋介石は毛沢東を国民党から除外する

中正記念堂 蒋介石の執務室2

1917年~1933年の間で中華民国とチベットの間で何回か紛争が起こる

1919年(大正8年)

 中国吉林省で日中両軍が衝突した寛城子事件が発生した

1919年モンゴル領内に中華民国軍が侵攻するがソ連軍が撃退する

1920年 イギリスはロシアの南下と共産化に対抗するためにチベットに対して開発の援助を申し出たが断られた その後 チベットとイギリスの関係は悪化する

(同年)尼港事件が起こるアムール川の中国とロシアの国境付近に駐留していた日本軍がロシア内戦に巻き込まれロシア人と中国人に殺された

1921年 国民党から離脱した毛沢東はソ連の協力を得て中国共産党を立ち上げる

毛沢東は主に農村の指示を受ける 一方 国民党の蒋介石はアメリカの支援を受ける やがて国民党と共産党との国共内戦へと発展する 

1925年 孫文は 革命いまだならず と言い残し亡くなった

南京に 中山陵と言う孫文の森のように大きなお墓がある

中山陵

1928年(昭和3年)

 関東軍(日本陸軍)は満州国の奉天(中国東北地方の瀋陽)で張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)と言う爆破事件を起こす。

張作霖爆殺事件

1931年(昭和6年)

 関東軍(日本陸軍)が中国東北地方で南満州鉄道を爆破させる満州事変を起こす

関東軍(日本陸軍)は この事件を中国人が犯人だとでっちあげ中華民国を攻撃する口実作りに利用した。

日中戦争の発端となった満州事変

1932年(昭和7年)

 日本が中国東北地方に満州国を建国する

満州国の国旗
日本は中国の東北地方に満州国と言う傀儡(かいらい)国家を建国した

第一次上海事変が勃発し日中両軍が上海で衝突する

第一次上海事変

1933年 ソ連の手を借りウイグル人が中華民国に対して反乱を起こすも失敗に終わる

ホータンが一度 独立する 国名は東トルキスタン イスラム共和国だが国際的には認められなかった さらにソ連軍に国は解体される

ダライラマ13世が崩御 それ以降 中華民国とチベットの交渉がイギリスの仲介なしで直接行われるようになった

(同年)日中双方の衝突は塘沽協定にて一旦 停戦となった

塘沽協定

(同年) 中華民国はアメリカ イギリスなどの国際社会に訴えた 中国大陸に進出した日本は国連から非難を受け 日本は国連を脱退する 

1934年 すでに崩壊していた清朝最後の皇帝 溥儀が28歳の時 満州国の皇帝になる 
皇帝と言っても主権は日本にあり お飾りと言ったところであった

溥儀

1935年 ダライ・ラマ14世が中国 青海省で生まれる 神のお告げを元にラサで行われた後継者会議の結果 ダライ・ラマ14世が選ばれた 14世は5歳まで故郷で暮らす 

ダライラマ14世 

1936年(昭和11年)

 中国では中華民国(国民党)と その国民党から離脱した共産党の間で内戦が起こっていた

ところが西安事件で軟禁状態にあった蒋介石(国民党)と周恩来(共産党)が打倒日本と言う共通の目標を掲げ手を組んだ 国共合作が行われた

表向きは国民党と共産党が協力し合い日本と戦ったとされているが 実際は共産党は力を温存し 国民党が日本と戦い 結果 国民党の弱体化につながった

1937年(昭和12年)

 中国の北京の盧溝橋で中国軍と日本軍が衝突する盧溝橋事件が勃発する

盧溝橋事件

事態はその後 日中戦争へと発展していく 

日中戦争

同年 第二次上海事変が起こり日中両軍が上海で衝突する

第二次上海事変

1937年 日本軍が中華民国の首都 南京を陥落させる

その際 日本軍による略奪や殺害が行われた 中国では南京大虐殺と言い日本では南京事件と言う

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館2

南京には大々的な博物館もある なお中華民国は その後 首都を移転し日本軍と戦い続ける

 さらに日本は南京に傀儡(かいらい)勢力を作った 国民党は首都を南京から重慶に移した 一方 共産党の毛沢東も農村部を中心に勢力を広めていた

第二次国共合作が成立 共産党と国民党が合流し日本と戦う事になった

日中戦争は泥沼化とかし8年も戦う事となった

日中戦争
日中戦争

さらに長江(揚子江)で日本軍がアメリカ軍艦 パナイ号 を撃沈させる

アメリカ軍艦 パナイ号

日本は北京に中華民国臨時政府を南京に中華民国維新政府を立ち上げる

中華民国維新政府

日本軍が福建省 厦門(アモイ)を占領する ※アモイは西洋人が建てた洋館が残る名所※

アモイ厦門

1938年(昭和13年)

 中華民国はソ連から戦費の援助と大量の武器を譲り受ける

日本軍が湖南省 武漢と 広東省を占領する

日本軍が重慶爆撃をする

1939年(昭和14年)

 日中戦争が収束しないまま第二次世界大戦へと突入する

日本陸軍が中国海南島へ上陸する

海南島の場所

(同年) 今の中国内モンゴルで日本が立ち上げた満州国とソ連の協力のもと中華民国から独立したモンゴルとの間で大規模な国境紛争(ノモハン事件)が発生する。

今でも草原にノモハン事件の時に使われた戦車が残っている

紛争にはソ連も参戦し大日本帝国と満州国の惨敗となった。その後 それまであいまいだった国境線が確定した。 

ノモハン事件
ノモハン戦争陳列館

同年(1939年) 日本は内モンゴル(現在は中国領)にモンゴル風の蒙古聯合自治政府 傀儡(かいらい)政権と国を作る。

蒙古聯合自治政府 国旗

1940年 ダライ・ラマ14世(5歳)はラサへ移りダライ・ラマ(チベットの長)に即位する 14世の家族もポカラ宮殿内の重要な職に就くことが許される

ポカラ宮広場

同年1940

フランス本土はナチス ドイツの手に落ちたためインドシナ(ベトナム ラオス カンボジア)はナチスと同盟を結んでいた日本軍が駐留することとなった

当時は まだ日米開戦には至っていなかったが中国大陸では日中戦争が繰り広げられていた。

中国の支援に回ったアメリカはベトナムの港で陸揚げされた物資を中国大陸に輸送していた 

その輸送ルートを援蒋ルート(蒋介石を援助する道)と言う 日本は そのルートを断ち切るのが目的でベトナムに入った

援蒋ルート

1941年 第2次大戦中 イギリス領 香港が3年8か月間 日本の統治下におかれる

戦後 香港は独立することなく再びイギリスの統治下におかれる

(同年) アメリカは日本の中国進出をやめさせようと日本への石油輸出を止めるなど経済制裁を行った。

当時 まだ中東では石油は取れず日本は8割の石油をアメリカから輸入していた。

日本は その後 石油を求め当時はオランダ領インドネシアにまで進出することになる

1943年 日本軍は中国 湖北省(武漢)での戦いに勝利する

1944年(昭和19年)

 日本軍は中国の 洛陽 鄭州 桂林 長沙 を占領する

日本軍は中国の 洛陽 鄭州 桂林 長沙 を占領する

(同年)イギリスとアメリカは中華民国に対し清朝(中国)から続いていた不平等条約を撤廃した

(同年)米中連合軍が日本領台湾を空襲する

台湾大空襲を受けた後の様子

さらに米軍が中国(日本の占領地域)と北九州 沖縄 を空襲する

1944年~1946年 第2次東トルキスタン共和国が存在した 建国以前の独立運動ではソ連軍が加担している

ソ連領には西トルキスタンがあった そこでカザフ人のゲリラを育てていた

1945年 ドイツの降伏によりヨーロッパで戦線での戦いを終えたソ連兵が中国戦線(日中戦争)に参戦してきた 

日本の降伏により世界中で未曽有の被害を出した第2次大戦が終了した。

戦後 中国から日本兵から引き揚げ その過程で一部は日本兵はソ連兵に連れ去られシベリア抑留となった  

戦後 中国は 再び内戦状態となり 結果 中国大陸(共産党)と台湾(国民党)の2つの国に分かれることとなる。

その際チベットではチベット内のすべての中国人を国外追放し チベットは国民党と共産党の両方から非難される

1945年

第2次大戦 末期 ソ連とモンゴル軍が満州国(中国東北)と内モンゴル(現在は中国領)に侵攻し勝利する

同年(1945年) 外モンゴル(現在はモンゴル国)と内モンゴル(現在は中国領)で統一運動の機運が高まる

モンゴルと内モンゴルの地図

1949年 中華人民共和国が成立する

中華人民共和国 建国
天安門広場 毛沢東の肖像画

一方 台湾は建国当初は中国と同じ独裁国家だった が

アメリカと同じ 共産党打倒と言う共通の目標を掲げていたため台湾はアメリカの経済支援を受け発展する 

しかし 中国は毛沢東の失態もあり経済的に困窮することとなる

1949年 中華人民共和国が成立すると新疆も中国へ組み込まれる

大躍進政策(農業集団化)の失敗では多くのウイグル人がソ連へ逃亡した

1949年 中華人民共和国とモンゴル人民共和国が国交を結ぶ

モンゴル人民共和国

ソ連 モンゴル 中国の3か国を通る 横断鉄道が開通する

モンゴルの鉄道
北京からモスクワまでの列車
北京ウランバートル行の鉄道

1949~翌50年 中国軍のチベット侵攻 

チベット侵攻

1949年 ゴールデン トライアングルのビルマ側 シャン州に中国国共内戦に敗れた 国民党軍が逃げて来る 国民党の残党は ここで生産されていた麻薬を活動減とし独立国を立ち上げた さらにそこの麻薬組織にビルマ共産党も参入する

ゴールデントライアングル

1950年 建国の翌年 共産党の思想に基づき資本家70万人の公開処刑が行われた

又 共産党の思想に反するものは裁判にかけられることなく強制労働が課せられた。 
毛沢東は都市と農村間の移住を認めない戸籍制度を設けた。ただ農村出身の物でも都市の大学に入学できれば都市の戸籍がもらえる

(同年) アメリカと中国が朝鮮半島で衝突!朝鮮戦争の勃発!!

朝鮮戦争で廃墟と化した〃ソウル(韓国)〃の様子

<目次>
1 紀元前(秦の始皇帝他)
2 1~5世紀(三国志や北魏の時代)
3 6世紀と7世紀(唐のシルクロード時代)
4 8~12世紀(唐や吐蕃の全盛期)
5 13~15世紀(モンゴル帝国時代)
6 16~18世紀(明や清の時代)
7 19世紀(欧米列強に圧迫を受ける苦難の時代)
8 20世紀(前半)辛亥革命と王朝崩壊
9 20世紀(後半)~現代 中華人民共和国