テスト

19世紀

1802年

建国間もないグエン朝(ベトナム)は清(中国)の属国となった

1814年 イギリスとネパールの間で戦争が勃発する グルカ戦争と言う 2年間 続いた戦争

戦争の原因は両国の領土拡大にあった

イギリスはチベットまで攻めるが清(中国)の軍隊に敗れる

グルカ戦争

19世紀初頭 開平の碉楼 海外で暮らした中国人が故郷に戻り海外で集めた絵葉書を元に建てた不思議な形をした洋館群

開平2
開平

19世紀 上海郊外の寧波は上海の外灘よりも20年も早く寧波外灘が作られた。

19世紀 上海よりも20年も早く出来た寧波の外灘

1840年 当時 ヨーロッパと清との貿易を独占していたのはイギリスであった しかしイギリスは清に売れる物は何もなかった

一方 清の安いお茶はイギリスで大きな需要があった そのためイギリスは清に対して大きな貿易赤字を抱えていた

そこでイギリスは東インド会社を通じて広東省の港(清朝において唯一貿易を許されていた港)でインド産のアヘンを売って金儲けをした

イギリスは支払いもアヘンで行っていた 清はアヘンを取り締まったため それに怒ったイギリスとの間でアヘン戦争が勃発する

アヘン戦争の前 イギリスは台湾にも多くのアヘンを売っていた

アヘン戦争

また広東省には威遠砲台(アヘン戦争の激戦地)やアヘン博物館(虎門林則徐記念館)アなどアヘン戦争に関する名所が残っている

虎門林則徐記念館
威遠砲台2
アヘン博物館

北京も戦闘に巻き込まれ清が17世紀に築いたギリシャ風宮殿の円明園も破壊された

円明園

戦争に負けた清は当時まだ未開発だった香港の領土をイギリスに奪われた

さらに当時 清国の領土であったロシア極東(ハバロフスク等)と新疆ウイグルの領土は列強に割譲された

イギリスはマカオから香港へと貿易の拠点を移す マカオの人口は半減する そのころマカオで競馬 宝くじ ドックレースほかカジノが始まった

2006年にはマカオのカジノがラスベガスの売り上げを抜き 一大産業へと発展する

マカオのカジノ

1856年

雲南省で回族(イスラム教徒)とビルマ人(ミャンマー)清朝に対してパンゼーの乱(内乱)を起こす。内乱の死者は100万人 ミャンマー タイ ラオス は難民で溢れた。 内乱は17年続いた。

パンゼーの乱

1862年 広東省の広州の沙面ではイギリスとフランスが次々と洋館を建てていった

沙面19世紀ごろの洋館
沙面19世紀ごろの洋館2

19世紀 アヘン戦争の敗北により福建省 厦門(アモイ)は13の国により分断統治された

白人は厦門に次々と西洋建築を建てていった 厦門では当時3人に1人が外国人だった 

今でも厦門(福建省)には数多くの豪邸が残っていて人気の観光地となっている

アモイ厦門

また それまで田舎町だった上海も香港同様 アヘン戦争後  海外からの投資で発展し 初めて世に知られるようになった

上海には日本を含むイギリス フランス アメリカなど8か国により租界地(中国人立ち入り禁止の占領地)が造られていった 

上海の大繁華街 南京路はその時 アメリカとイギリスが共同で作った

上海 南京路
フランス人租界地
旧日本人租界地
リーロンは租界時代の古い建物

1841年 清朝(中国)チベットの連合軍とシク王国(インド)との間で戦争が勃発する 結果はインド シク軍の勝利

戦後 清はチベットの関係が悪くなり 代わりにチベットとインドの関係が強固となった

インド シク軍

1843年 アヘン戦争の後 南京条約(不平等な条約)にもとずき 清朝は欧米各国に(上海 寧波 福州 アモイ 広州)を開港させられた 

それ以降 海外からいろいろなものが入ってきた そして今の広東料理が完成した

広東料理

さらに広州から運ばれていった福建省のウーロン茶がやがてイギリスで紅茶の発明に繋がった

1851年 中国 アヘン戦争以来社会不安が高まった アヘン戦争に敗北した清朝は多額の賠償金を請求された

そのため清朝は国民に重税を課した 清国で洪秀全(こうしゅうぜん=キリスト教徒)という男が現れて

貧富の差のない社会を目指し戦った 太平天国の戦いと言う 中国南部に太平天国が占領地を広める

洪秀全
太平天国の乱

太平天国の革命に成功した李鴻章(りこうしょう)は清国の政権に抜擢され崩れかけた

清国の屋台骨を支えることとなった また李鴻章は外国の近代的な技術を取り入れた

李鴻章
李鴻章故居

中国 南京に瞻園 太平天国歴史博物館がある

瞻園 太平天国歴史博物館

1853年 ペリーの戦艦は東京の後 沖縄や台湾 香港へと立ち寄った ペリーは台湾で炭鉱などの資源調査を行った

1855年 ネパールチベット戦争が勃発する 当時ネパールはイギリスと清に連敗していたがチベットとの戦いで勝利した。

戦後 両国の関係改善を図ったタパタリ条約が結ばれた

1858年 アロー戦争(第2次アヘン戦争)でイギリス フランスの連合軍に敗れた清朝は天津条約を結ばされ 台湾の港を数か所 開港せざる負えなくなった

1871年 日本領沖縄で宮古島島民遭難事件が発生する 琉球(沖縄)から台湾へ69人が漂流したうち54人が台湾原住民に殺害される 

宮古島島民遭難事件で亡くなった人のお墓

日本政府(明治政府)は清朝に抗議したが 何の回答も得られなかった

その3年後の1874年 明治政府(日本)は台湾へ出兵し報復行動に出た すると清は明治政府に60億円の賠償金を支払い和解に応じた

1873年

雲南省で17年続いたパンゼーの乱(内乱)は反乱軍の指導者の死により鎮圧した。清はミャンマー(コンバウン王朝)への報復として米の輸出を停めた またミャンマーからの綿花の輸入も止めた ミャンマー経済は困窮した。

1881年 清朝とロシアの間で イリ条約が締結される

ウイグル トルファンとイリの西側がロシア領となり 東側は そのまま清朝が統治することとなった

1884年~翌年 ベトナムの領有権をめぐって行われた清仏戦争の際 清朝は台湾の重要性を認識し 台湾の防衛強化を図った

1887年 清が台湾に鉄道を引き近代的な社会基盤を整備した。

同年(1887)

 ルアンパバーン王国(ラオス)はベトナムの傭兵としてフランスや中国南部の武装勢力と戦った

同年 ルアンパバーン王国は中国南部のチワン族からなる武装勢力 黒旗軍の攻撃を受け壊滅的な被害を受ける

そこでルアンパバーン王国は黒旗軍と敵対するフランスに助けを求める 

黒旗軍

1888年には広州にパリのノートルダムをモデルにした教会(石室聖心大聖堂)が建てられた

石室聖心大聖堂

石室聖心大聖堂2
 

1892年 台湾は茶の輸出で大儲けし また米が大豊作となった

1893年 台湾の人口が255万人に突破した。 

1894年 朝鮮半島の領有権をめぐり 日清戦争が勃発する。日本と清朝(中国最後の王朝)が衝突する。(日本)

 朝鮮は日本の統治下におかれる それに従い朝鮮最後の統一王朝の崩壊する 

日清戦争に勝利した日本は清から中国東北地方の領土と台湾の領地を手にする

日清戦争 

1895年 ロシアはヨーロッパでドイツをフランスを仲間につけ 日本に日本が日清戦争で手入れた清遼寧半島(中国 大連)を引き渡せと要求する それを三国干渉と言う

日本は中国東北地方の領地をロシアに受け渡した。その後 ハルビンでは帝政ロシアにより20余りのロシア正教会が建てられた

ハルビン 聖ソフィア大聖堂
ハルビン 中央大街

1898年山東省 青島はドイツの租借地となり そのとき中国でもっとも有名なチンダオビール作られた

青島ビール
青島ビール博物館

19世紀末(清朝) 珍おばさんが それまで捨てていたラー油のかすを豆腐につけて食べたのが切っ掛けでマーボー豆腐が発明された。

今も残る珍麻婆豆腐館は その時のマーボー豆腐 発祥の店だとされている

珍麻婆豆腐館

<目次>
1 紀元前(秦の始皇帝他)
2 1~5世紀(三国志や北魏の時代)
3 6世紀と7世紀(唐のシルクロード時代)
4 8~12世紀(唐や吐蕃の全盛期)
5 13~15世紀(モンゴル帝国時代)
6 16~18世紀(明や清の時代)
7 19世紀(欧米列強に圧迫を受ける苦難の時代)
8 20世紀(前半)辛亥革命と王朝崩壊
9 20世紀(後半)~現代 中華人民共和国