テスト

16世紀

16世紀 ヤルカンド・ハン国が東トルキスタン ウイグル地方を統治する

16世紀の明 西遊記 三国志演義 水滸伝 金瓶梅と優れた小説が生まれた

16世紀 明の高級官僚の庭園 豫園(上海)が18年の歳月をかけて完成した

豫園

1516年 元から明になり4世紀から約1000年間 掘り続けられてきた 莫高窟は造られなくなった その後 石窟は砂に埋もれ人々から忘れられるようになった

1531年女直(じょちょく)族は民族名を満州族に変更する

北元(モンゴル)が3日間だけ明朝の北京を包囲する

16世紀中頃(1550)ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマは
アフリカ喜望峰とインドゴアとマレーシアマラッカを経由し1550年ごろマカオへ到達した

ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ

マカオには7つの丘があり リスボン(ポルトガル)の地形とよく似ていた その後 400年以上 マカオはポルトガルの支配下にはいる

その後 マカオはポルトガル人が住み着き大繁栄を遂げた

そのときポルトガル人はマカオに多くポルトガル風の教会を建て残していった

当時 ザビエルのメモには日本では大量の銀が取れると書かれていた。 ポルトガル人は日本の石見銀山で安く買った銀をマカオで明に高く売っていた

約400年前 明の時代 ポルトガル人が築いたマカオ

1551年 当時 中国北部(万里の長城より北側)は北元(モンゴル系の王朝)の王 アルタン ハーン(ダライ・ラマ政権姪の名付け親)が明を脅かしていた 

そんなアルタン ハーンはモンゴル全土にチベット仏教を普及させた 

その後 アルタン ハーンの孫はチベット王国のダライ・ラマ4世となる

アルタン ハーン
内モンゴル 大招寺前のアルタイハン像

1552年 フランシスコザビエルが中国の布教先で亡くなる

その後 ザビエルの遺体は分散されマレーシアのマラッカやインド ゴア マカオなどに移される

フランシスコザビエル

16世紀末(1582年)イタリアの神父マテオリッチが中国で布教活動をするためにマカオに上陸した 

苦労を重ね20年かけて北京に天主堂を建てることを許された

16世紀 当時 中国北部(万里の長城より北側)はモンゴル帝国の王 アルタン ハーンが明を脅かしていた 

そんなアルタン ハーンはモンゴル全土にチベット仏教を普及させた 

その後 アルタン ハーンの孫はチベット王国のダライ・ラマ4世となる

アルタン ハーン
ダライ・ラマ4世

16世紀末 タイやラオスを支配下に置いたタウング王朝(ミャンマー)は中国雲南省 景紅のシップソンパーンナーを支配下に置く

1593年  広南国(ベトナム中部)ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成された

日本人がホイアンに日本人街と中国人街を結ぶ来遠橋を建てる 

ホイアン 日本人街 来遠橋

17世紀

17世紀初頭の明の時代 中国に唐辛子が伝わる その後 唐辛子は 湖南省→貴州省→重慶省と渡り 100年かけて四川省に伝わった

川菜(四川料理)

17世紀の明の時代 四川省 楽山大仏の13層からなる楼閣が戦乱の火災で焼け落ちる

17世紀初頭(1602) ポルトガル人はマカオに聖ポール天主堂と言う巨大な聖堂を建てる 建設には徳川幕府の宗教弾圧を受け国外逃亡した日本人のキリスタンも携わってた

聖ポール天主堂は19世紀の大火事で門だけを残し焼け落ちた

聖ポール天主堂跡

17世紀(山西省 平遥古城) 中国で初めて小切手を発行し金融の基礎を築いた 本店は観光名所となっている

平遥古城

17世紀初頭(1616年) 中国東北部出身のヌルハチが今の遼寧省のあたりに小さな後金国を立ち上げた 

初代皇帝 ヌルハチ

1618年 明と李氏朝鮮の連合軍がヌルハチ率いる後金と戦ったサルフの
戦いが起こる 結果は後金の勝利 この戦いがのちの清王朝 建国へとつながった。

サルフの戦い

1618年(同年)

後金は明の遼寧省 撫順(ぶじゅん)を占領する

撫順市 ヘトゥアラ(赫図阿拉)ヌルハチの住まい

17世紀 中国 湖南省 南方長城 (1554年から1622年 完成) 明の時代の遺跡

南方長城
南方長城2

1622年 ポルトガル人が当時 敵対関係にあったオランダ人を狙って中国 マカオのモンテの丘に大砲が設置した 

モンテの丘

(同年) オランダは明(中国)の港を使用したかったが明の抵抗にあい なかなかうまくいかなかった

さらにオランダはマカオでもポルトガルの抵抗にあった

1624年 オランダと明の間で衝突が起こる 戦闘の結果 オランダが勝利し オランダは台湾の領有権を取得した

そこでオランダは台湾(台南)にゼーランビア城(安平古堡)まで築いた

ゼーランビア城

以降 オランダ東インド会社が台湾の貿易独占権を得る 台湾では当時 砂糖の栽培がおこなわれていた

台湾が栄え 中国の福建省や広東省から台湾へ移り住む人が増える

1626年

遼寧省で明が後金に勝利する ヌルハチは戦闘の怪我が原因で戦死する

1627年

後金は食料と物資を求め朝鮮へ侵攻する 李氏朝鮮との戦いは後金が勝利する

李氏朝鮮 後金 戦争

 1628年 大飢饉が発生し植えた人々が暴動を起こした その暴徒の頭であった李自成は逆に大きな力を持つようになり 北京を陥落せせる

1628年~1635年後金(満州族)と北元(モンゴル)との7年間に及ぶ戦争が始まる

1630年 グゲ王国は分裂し滅亡する

1635年後金(満州族)との7年間の戦争に敗北した北元(モンゴル)は滅亡する

1935年 日本の鎖国以降 長崎 平戸と台湾を結ぶ貿易がなくなった 貿易面でオランダが優位に立つ

当時 フィリピンを占領下においていたスペインも台湾で城や要塞を築くが オランダに追い出される

オランダとスペイン統治時代の台湾の地図

1637年 モンゴル高原 中国ウイグル 中央アジアと広大な領土を持つ史上最後の遊牧民国家 ウイラトがジュンガルホンタイジ国と国名を変更する 

1637年 オイラト軍(モンゴル中央アジア中国ウイグル)がチベット人が多く暮らす地域アムド(中国 青海省)を占領する

1637年 北ウイグル地方はジュンガルにより支配される 遊牧民の国

ジュンガル盆地

1638年

中国 遼寧省 西部で清と明の4年間に及ぶ戦争が始まる

1639年 江戸幕府は鎖国を始める 
日本とマカオの交流が途切れマカオは衰退する その後 マカオは150年間表舞台から遠ざかる  

1642年 ゲルク派からなるダライダマを頂点にするチベット ダライ・ラマ政権が成立する
ダライラマとはモンゴル語で 大きな海のような指導者 と言う意味

モンゴル人のアルタンハーンが命名した。

初代ダライ・ラマ1世
赤枠の所が17世紀チベットが確保していた領土

さらにオイラトはチベットに4代80年続くグシハン王朝を立ち上げる

グシハン朝はダライ・ラマ政権の向上に役立った。

現在 ダライ・ラマ政権はインドで亡命政権として活動中

1642年

遼寧省西部で行われていた4年間に及ぶ明と清の戦争は明が敗北し清が勝利した

1643年~1644年

農民反乱軍のリーダー李自成が西安を占領し順王朝を立ち上げる

1644年 明が滅びる 後金は領土を拡大し清国を立ち上げる 

明を滅ぼした李自成は順王朝を立ち上げるが すぐに清に滅ぼされてしまう

清(中国)は瀋陽に都を開く 瀋陽故宮は清の首都が北京に移されるまで19年間使用された

瀋陽故宮 十王亭(八旗亭)

1644年

農民の反乱で中国北部の領土を失った明は南へ逃れ南明 亡命政権を立ち上げる

1644年 中国地図

 
 

1645年

清が北京を占領 李自成(順)は清によって殺害される

同年 清は南へ逃れた南明の都 南京を占領する

清は揚州で80万人の大虐殺を行った 中国人口1億4000万の うち1600万人ほど減った

1645年 中国地図
揚州大虐殺の様子を描いた絵

1646年

南京の領土を失った南明(政府)は福建省や広東省に逃れ 存続する

1649年

中国南部に退かれていた順朝が滅亡した。

1652年

清とロシアの間で32年間に及ぶ国境紛争が始まる 李氏朝鮮が清の援軍に着く 

1652年 台湾でオランダ統治に反感を持つ人たちによる反乱が発生した その際 オランダ人は反乱を鎮圧するために漢民族1万人を殺害した

1659年

南明政府はミャンマー(ビルマ)へ亡命する

1661年 中国人(父)と日本人(母)のハーフ鄭成功(明の軍人)が中国大陸から明軍の軍勢を引き連れオランダ領 台湾へ進行する

鄭成功は多くの軍隊を引き連れ台湾へ上陸した為 台湾の人口が急増した 12万の人口が倍の24万に増えた

さらに鄭成功(ていせいこう)が台湾からオランダを追放する オランダ人が台南に構えていたゼーランディア城包囲する

ゼーランディア城を安平鎮と改名された。
 
鄭成功は台湾から清朝(中国)の転覆を狙っていた。

また鄭成功は 今でも台湾は もちろん中国でも鄭成功の評価は高い

ただ鄭成功は台湾侵略の際 原住民の虐殺を行っている

鄭成功
鄭成功の銅像

1662年

ミャンマー(ビルマ)へ逃亡中の南明が滅亡する。

1662年 台湾初めての漢民族の国家 鄭氏政権を立ち上げた鄭成功だったが 建国1年目で病死する 鄭成功の息子が後を次いだ

1683年 鄭成功の孫の代の頃 台湾 鄭氏政権は清朝の攻撃を受け滅亡する 

その際 鄭氏は日本(江戸幕府)に助けを求めたが当時 日本は鎖国状態にあり支援は実現しなかった。

その経緯は日本でも よく知られ今でも歌舞伎の題材として使用されている

鄭氏一族による台湾統治は3代23年間で終了した 

1689年

32年続いた清露国境紛争は清(朝鮮)が勝利した。清とロシア(ロマノフ朝)の国境が確定した。

清露国境紛争現場

1689年

清はモンゴルとチベットを属国(保護下)に置いた

18世紀

清朝統治時代の台湾は発展から取り残された。

台湾の開発は台南から始まり200年かけ台北にまで到達した。

ただ台湾の人口は広東省と福建省からの移住者で急増した

台湾の先住民は17万 一方 漢民族は290万人まで増える  先住民と漢族の混血が ほうろう人と呼ばれている

 中でも あら波の海峡を渡って台湾にたどり着いたため屈強な男性が多かった そのため階奥も多発した。

おまけに清朝の統治能力も弱く 治安が乱れマラリアデング熱などの伝染病も蔓延した

また台風などの災害も多く内乱が相次いだ

18世紀 新疆ウイグルは清朝により支配される 今のキルギス共和国やロシアの極東(ハバロフスク)清朝の領土へ搬入される

1716年ジュンガル(モンゴル中国ウイグル中央アジア)がチベット ラサに侵攻する 多くのチベット人を殺害する

ジュンガルとチベットの地図

1718年 清がチベットに軍を派遣させる

1720年 清がチベットのダララマ6世をたてる 

一方 正当に選ばれたダライ・ラマ6世もいたが趣味の芸術に走り政治には興味がなかった

1724年 清はチベットを保護国とする

1735年 清では 6代目皇帝に乾隆帝がなる ロシア ウラジオストク ハバロフスクとモンゴル全土を含む東洋の半分は清国の支配下となった

乾隆帝

清王朝はロシア(ロマノフ朝)の侵略を防ぐためモンゴル領内に漢民族を移住させた

しかしモンゴル民族は漢族の入居をよく思わなかった

1750年 チベットは清朝の支配下にはいる ただ実効支配には至っていなかった

1755年 清ジュンガル戦争が起こり 結果 ジュンガル帝国(今の北ウイグル)は清朝に滅ぼされる

同年 1755年 モンゴルは清の領土に組み込まれる

ジュンガル戦争

1755年

モンゴルは清の領土に組み込まれる

清王朝はロシア(ロマノフ朝)の侵略を防ぐためモンゴル領内に漢民族を移住させた

しかしモンゴル民族は漢族の入居をよく思わなかった

1759年 乾隆帝の頃 クチャ王国は人民共和国(共産国家)建国まで12代続く世襲制国家だった

12代クチャ王(ラストエンペラー ダウド・メスト王)
クチャ王府 12代続いた王朝

1765年 ビルマ(ミャンマー)の戦争に敗北したシャン族(タイ系民族)が中国へ行き清朝に助けを求めたため清緬戦争(中国VSミャンマー)が勃発した。

戦闘は清朝の4度の進行を すべて退きコンパウン王朝(ミャンマー)の勝利で終わった

1788年~1792年 ネパール王国はチベットとの間に貿易(領土侵犯)で もめ事となり衝突が発生した。

チベットの宗主国 清朝(中国)が もめ事に介入し 清 ネパール戦争へと発展する

結果 清朝(中国)の勝利 その後 ネパールは清(中国)に貢物を送ることとなる

その代わりにネパールが外国勢力の攻撃を受けた時 清(中国)が援軍を送る約束をした

またこの戦いで清(中国)はチベットでも影響力を高めた

清 ネパール戦争

1788年から翌年にかけ

大越国と西山朝の連合軍(ベトナム)と清(中国)との間でドンダーの戦いと言う戦争が起こる 清越戦争とも言う

戦いはベトナム連合王朝の勝利 ベトナムは清からの支配を免れる

しかし後黎朝(北ベトナム)はこの戦いの後 滅亡した。

ドンダーの戦い

<目次>
1 紀元前(秦の始皇帝他)
2 1~5世紀(三国志や北魏の時代)
3 6世紀と7世紀(唐のシルクロード時代)
4 8~12世紀(唐や吐蕃の全盛期)
5 13~15世紀(モンゴル帝国時代)
6 16~18世紀(明や清の時代)
7 19世紀(欧米列強に圧迫を受ける苦難の時代)
8 20世紀(前半)辛亥革命と王朝崩壊
9 20世紀(後半)~現代 中華人民共和国