テスト

6世紀

6世紀の記録によれば240人のソグド人(胡人)が640頭のラクダを連れ相当量の絹を運んだとされている

当時ゾロアスター教を信仰していたソグド人はシルクロード貿易の主役を担っていた。

ソグド人 
開祖ゾロアスター

534年 中国山西省 大同に都を構えた北魏王朝は河北平原を統一した後  北魏滅亡

北魏は函谷関かんこくかん(河南省)を境に東と西に分裂した。

函谷関2
函谷関

6世紀 中国甘粛省 張掖に馬蹄寺石窟が造られる

馬蹄寺石窟3
馬蹄寺石窟2
馬蹄寺石窟

(6世紀 583年)長安の都市造りが開始された

6世紀中ごろ 敦煌莫高窟の壁画はインド風の造りから中国風に変わっていった

(6世紀) 300年続いた戦乱が終わる 

581年 隋王朝が誕生する 隋が後漢以来 360年ぶりに中国統一を果たす

 隋王朝が都を長安(西安)に定める

589年 隋王朝の元で 莫高窟の増設が行われた 38年間で100の窟を増設した

莫高窟 正面 九層の寺院

7世紀

雲南に少数民族からなる6つの国 六詔国が誕生する。

7世紀(日本は奈良時代)にインドから吐蕃(チベット)に仏教が伝わった その後仏教は土着の宗教とまじりあいチベット仏教となった その他 チベット仏教もインドから伝わる インドの文字が元となったチベット文字もこのころ開発された 

※チベットでは唐(中国)よりも約700年ほど遅く仏教が伝わった。(日本仏教もチベットと同時期に発生した) 

チベット文字
イヴォルギン スク寺(チベット仏教)ウランウデ

7世紀(602年) 洛陽(河南省)で三蔵法師が生まれる

三蔵は13歳で出家し のちにインドまで行って経典を取り寄せる

17年間の旅で訪れた国は110か国 1334の書物を訳す

三蔵法師

7世紀 台湾に関する一番古い記録として 7世紀 台湾は中国大陸から船で5日かかると隋書と言う中国の歴史書に書かれていた 

しかしそこには台湾の事を琉球国と書かれていた 当時まだ台湾と琉球(沖縄)の区別がついていなかった

そころの 台湾にはマレー ポリネシア系の先住民が住んでいた

610年(隋王朝) 北京から杭州まで約2500キロの人口運河 京杭大運河が完成

運河の建設には のべ3100万人が建設に携わったとされる なお京杭大運河は完成から約600年後(13世紀のモンゴル帝国時代)に 一部 拡張工事が行われた 

隋王朝最後の皇帝 煬帝は大運河の建設と度重なる遠征を行ったため王朝の財政を圧迫させた

京杭大運河

7世紀初頭(618) 隋の最後の皇帝 煬帝(ようだい)が亡くなり 唐が建国される

唐王朝が始まる 都は長安(西安)唐が繁栄をおうかしていたころ西安の城壁の高さは今の8倍(96メートル)もあった しかし当時 吐蕃王朝(チベット)が勢力を伸ばしていた

煬帝

616年

モンゴル 東突厥は隋(中国)の属国であったが 隋の衰退を機 隋に攻撃を仕掛ける

618年 チベット系の吐蕃と言う強力な部族がチベット一帯(青海省のあたりも)を統治する ラサは吐蕃王国の都として発展する ソンチェンランポ王が建国した

昔のチベットは唐王朝も恐れた野蛮な国だったバクダットやインドとも戦った

ソンツェンガンポ(初代チベット王)

7世紀 今の寧夏回族自治区に全132窟からなる須弥山石窟が造られる 石窟は100年かけてやっと完成した。

須弥山石窟

7世紀中ごろ インドから経典を持ち帰った玄僧は長安(西安)の大雁塔(だいがんとう)で翻訳にいそしんだ

大雁塔 7世紀

7世紀  中国 敦煌郊外の渓谷に楡林窟が彫られる 完成までは700年の月日を要した

三蔵法師は鎖陽城(楡林窟郊外)からインドに向けて旅立つ 15年後 再び楡林窟を訪れ宝物を収める

楡林窟2

7世紀 唐の時代 河南省の少林寺に石塔が建てられる

少林寺 塔林

同じく7世紀の唐の時代 少林寺で少林寺拳法が始まる
インドからやって来た僧も武術に励む姿が絵として残っている
石床には長年の鍛錬によりくぼんだ跡が残っている

少林寺武術館演武庁
嵩山 少林寺

624年  三蔵法師も27歳の時に ここ高昌国で1~2か月間滞在した その時 三蔵は王と対面 その後 弦蔵はインドへ旅立つ 

高昌国2

7世紀初頭(626) 唐の時代 広東省に中国最古のイスラムモスクが建てられる

627年 朝鮮半島では白村江の戦いの前 最初は新羅が百済と高句麗に攻められ唐に助けを求める

最初は断られる そのとき唐ではクーデターが発生していたため。

630年 唐が北中国と中央アジア全土を統一する

それまで唐は東突厥の兵士を借りていたが 力関係が逆転し 東突厥(モンゴル)は唐の属国となる

唐の時代の地図

632年

ホータン王国(ウイグル)は唐の属国となる

7世紀 唐の時代 仏典を求めインドへ渡った三蔵法師は途中 ホータンへ立ち寄る 絹と絨毯はホータンの産物で三蔵も絶賛した

大東西域と言う書物には 当時 ホータンには 100以上の寺院があり 僧侶の人数は5000以上とあったとさるている

13年後(640年) 三蔵が再びトルファンに戻ってきたときにはもう高昌国は滅びてなくなっていた

(7世紀)アラブの使者が唐(中国)にイスラム教を伝えた 唐はベトナムや朝鮮にも進出してた

当時 長安(西安)もバクダット(イラク)と同じ100万 都市だった 世界中の人が長安(西安)に集まった

640年 ウイグル地方は唐の統治下にはいる

647年 ヴァルダナ朝(北インド)の王が後継ぎを残さず没すると王朝内で内乱が発生し唐(中国)の使節がヴァルダナ朝(ネパール)に捕らえられる

そこでチベットの吐蕃とネパールの王朝が8000の兵を出し唐(中国)の使節を救出にあたった

648年 文成公主(唐の王妃)と その夫(吐蕃のチベット人)が祀られたお寺 2人は制約結婚だったが唐からチベットへ貴重な仏教文化が伝わった

文成公主は多くのチベット人から親しまれている 彼女がチベットに仏教を広めた 岩山に掘られたチベット文字

文成公主亡き後 再び唐と吐蕃が争いを始める  

文成公主

649年 チベット吐蕃のソンツェン・ガンポ王が亡くなるとチベット国内で反乱が発生する 唐(中国)との争いもあり吐蕃(チベット)は衰退する

リッチャヴィ朝(ネパール)は 唐(中国)には2回貢物をしている

649年 西安の昭陵 乾陵 8世紀(けんりょう西安から約85キロ)太宗と楊貴妃の墓 収納できないほどの財宝が眠っているとされる

昭陵 唐の太宗李世民
昭陵
乾陵
乾陵けんりょう  農民の反乱により首を跳ねられた石像
乾陵けんりょう (1)
楊貴妃の墓2 (2)

657年

西突厥(中央アジア)は唐の支配下に入る

同年 西突厥は滅亡する

660年 唐と新羅が組み高句麗を滅ぼしてしまった。

661年 百済(朝鮮)の遣いが助けを求めて日本へ来る そのとき唐(中国大陸)が新羅(朝鮮)と手を組み百済(同じく朝鮮)を陥落させた事を告げた

662年 新羅は高句麗も滅ぼし朝鮮半島を統一する

朝鮮半島は新羅が統一し その北には渤海(中国東北)と言う国があった

663年 吐谷渾(とよくこんモンゴル)は吐蕃(とばんチベット系)によって滅ぼされる 

670年

吐蕃がホータンを攻める

ホータン王国(ウイグル)は吐蕃(チベット)の属国となる

674年 唐(中国)からの使節 王玄策がインド(グプタ朝)を訪問中 豪族に捕らえられた

リッチャヴィ朝(ネパール)は吐蕃(チベット)軍1200人 ネパール軍7000騎をインドのグプタ朝に派遣し唐(中国)からの使節 王玄策の救出を行った 

ナレーンドラ王子(リッチャヴィ朝)が王に就任するとその後数年間 リッチャヴィ朝(ネパール)はチベット吐蕃の傘下に入る

7世紀(686年) 古代インドの宗教 バラモン教の寺院の開元寺(福建省)が建てられる バラモン教は仏教やヒンドゥー教のもととなった宗教 ブッタも元々はバラモン教の信者だった

開元寺(インド バラモン教の寺院) (4)
開元寺(インド バラモン教の寺院) (1)
開元寺 1300年の歴史がある仏教寺院

7世紀末(690)中国史でたった一人の女の皇帝 則天武后が誕生する 

則天武后

692年

ホータン王国は吐蕃に占領されホータン王は唐へ亡命する。

唐(則天武后)が救済に入りホータンを救う 以降 ホータン王国は唐の保護国となる

695年 洛陽の龍門石窟に則天武后(中国王朝初の女帝)をモデルにした奈良の大仏の倍の高さの巨大な廬舎那仏像(大仏)が彫られた ※奈良の大仏が建てられる50年も前の事

北大仏と言う則天武后(悪魔の女帝)2
北大仏と言う則天武后(悪魔の女帝)

<目次>
1 紀元前(秦の始皇帝他)
2 1~5世紀(三国志や北魏の時代)
3 6世紀と7世紀(唐のシルクロード時代)
4 8~12世紀(唐や吐蕃の全盛期)
5 13~15世紀(モンゴル帝国時代)
6 16~18世紀(明や清の時代)
7 19世紀(欧米列強に圧迫を受ける苦難の時代)
8 20世紀(前半)辛亥革命と王朝崩壊
9 20世紀(後半)~現代 中華人民共和国